首を反らして空を見上げると、朧気な半月が浮かんでいた。
ゆっくりと流れる雲にそれは掻き消されて、白い靄が視界に残った。
月光は弱まり、辺りは暗闇に溶け込んで行く。
前方に街灯が見えた。無人の公園だった。
【月明かりの下で貴方を待つ】
腕時計は深夜の1時を告げ、そこはただただ無音だった。
静寂を纏ったこの小さな公園は俺達の密会場所で、毎週深夜に待ち合わせる。
理由は待ち合わせの相手がプロ野球選手、それも最近そこそこ話題の新人ピッチャーだからだ。
マスコミから注目され、新聞やテレビにもよく名前が挙がるその人物「榛名元希」は、所謂業界スキャンダルというものにとんと無頓着にて無防備だ。
寧ろ「隠し立てなんかせずに堂々としよう」なんて馬鹿を言う男だ。相手の俺が注意してやらないといけない。
日中堂々会おうなど無茶な話だ。別に、相手がきちんと友人を装ってくれるという保証があるのなら構わない。
けど、それについてこの男にはあまりにも、信用がなかった。
こんな風に思考を巡らせながら彼を待っている間も、俺は周囲に目を光らせていた。
少し疲れる、が、なにかしら厄介な報道をされるよりよっぽどマシだ。
「いいじゃねぇか、別に。そんなカリカリなるなよ」
先週の記憶の中の彼は、暢気にそんな事を言う。
「よくないです。アンタもよくないし、俺もよくない」
逆に俺は真剣な声色で言う。
「万が一って事もあるんです。用心に越したことはないんです」
「ばか、お前が女だったらまだしも、男同士じゃん。マスコミは一般人だからそうそう俺達の関係を疑ったりしねーよ」
彼もぴしゃりと言い切る。
なんだか俺達が一般人ではないかのような言い方に少しむっとした。
まぁ実際、俺達の関係は回りからしてみれば奇特なものかもしれない…いや恐らくそうなのだが。
俺達の関係は、同性愛。
これは回りの人間、そして友人にすら極秘事項だ。
「マスコミとか周りからしてみればさぁ、俺達はただの友人関係だろ。外で手繋いだりキスしたりしなけりゃ大丈夫だって」
「それをしそうだから注意してるんです」
「あのなぁ、俺だってそん位は考えてるっての」
彼が片眉を吊り上げる。不服そうだが実際そうだ。プロの球団に入る前なんか路上で頻繁にスキンシップを行ったり、全く人目を憚らない。困ったものだ。
「とりあえず外では普通の友人ですからね。いいですか?」
「だから隆也は男なんだから、そう気張らなくても…」
「………そう、ですけど」
この言葉によく胸の辺りがきりりと痛む。
どうしようもない事だけれど、どうしようもないからこそ苦しい。
結局結ばれはしない関係なんだ。それは生まれた時から必然とされている。
一緒にいる事は許されても、後の未来はきっと離れゆく。
それは結婚とか出産とか、男女間にはある特別な繋がりが同性同士にはないからだ。
しょうがなくて、それが息苦しい。
確かな証拠がない。形ある絆がない。だから不安で、壊れるのが恐い。
「…あ、ごめんな、なんか俺変な事言った」
「はい?別に何も…」
「いや、さ。…そんな顔すんなって」
彼が俯く俺の髪をくしゃりと撫でた。よっぽど変な顔でもしていたのだろうか、と見上げた彼の表情を見て思った。
この所妙にぎくしゃくしている。そんな微かな違和感でさえも不安に変わる。
切り捨てようとすればいつでも絶つ事の出来る繋がりだ。最近それが恐くて仕方がない。
今日も彼はマウンドに登り、相手球団を無失点に抑えた。
待ち合わせが深夜なのは彼の帰宅時間を考慮してと、それから暗がりで顔を見にくくする為だ。
我ながら神経質だ。誰がどう見ても俺達はただの友人関係で、それ以上の関係なんて、誰一人想像しないだろうに。
「……なんなんだよ、俺達は…」
誰にともなく、独り言を呟く。
ふわりと空気に溶け込まれた微かな声に、孤独感が増した。
彼からは幾度となく「好き」という言葉を浴びせられて来たが、だからなんだ。
互いの自宅で寄り添って、たまに、気紛れにキスをして。
すぐ不安になる。俺達は脆い砂の器の中にいるようで、少しの衝撃で、いとも容易く壊れてしまいそうだ。
汗ばんだ手でシャツを握りしめる。
深いシワがそこに生まれた。
時折電気が途切れる電灯に虫が群がっている。
無音の地に独りぼっちなのが、ひどく心細かった。
元希さん。心の中で呟いた。
「わっ」
「っ、うわ!」
突然背後から肩を叩かれて、俺は飛び上がった。
振り向くと、満足気に笑う彼の姿があった。
「びっくりしたか?」
彼が俺の顔を覗き込んでくる。
その瞬間、肺が泉と化したように、温かいような冷たいような感情が湧き出して来た。
足が、喉が、痺れて動けない。
彼の顔を見ただけで、それまで巡らせていた考え全てがふっ飛んでしまった。
「…隆也?」
硬直している俺をしげしげと見て、彼は眉をひそめる。
目が合って咄嗟に逸らしてしまった。
「どうしたんだよ」
言葉に詰まってただ彼を見つめる。
バックに月が見えた。雲が途切れ、月明かりを背にした彼の顔は、更に暗闇へと溶ける。
ただその目だけがきらきらと光っていた。その綺麗な目は、ただ俺だけを見ていた。
「好きなんです」
「え?」
「元希さんが、好きで好きで、堪らないんです」
彼の眼光が揺らぐ。それでも、俺を捕らえて放さない。
この人が好きだ。
だから知って欲しい。
それだけを思って言葉にしたら、自分でも何の事やらわけが分からなかった。
「あ、う、…じゃなくて…」
何を突然改まって告白なんかしているんだ、俺は。
ただの待ち合わせで、まだ今晩和とも挨拶しない内に、何を言ってるんだ。
そう自覚するとたちまち恥ずかしくなって、頬が熱を帯びた。
彼はまだじっと俺を見つめている。
勝手に告白して、今度は帰りたくなった。本当に何がなんだか分からない。
するといきなり肩を掴まれ、彼が身を屈めた。
空と彼とを映していた視界は反射的に閉ざされ、代わりに自らの唇に彼の吐息を感じた。
「…っ、あ」
キスされていると気づくまで3秒ほどかかった。
けれどその間もそれからも、彼の唇は離れない。
引き寄せられて、顎を引かれて、彼は暫くキスを続けた。
離れた頃には俺は耳まで真っ赤になって、涙で瞳が潤んでいた。
「あぁもう!いきなりなにすんだ!」
「なにってキスだよ」
「そうじゃなくて!つかここ思いっきり外だろうが!誰かに見られたらどうす…」
「うるせーな、隆也のばか」
「はぁ!?」
詰め寄ろうとしたら今度は頬にキスをされた。
思わずぼっと赤くなる。
その様子をさも可笑しそうに、彼はくつくつ笑いながら俺の頭を撫でた。
「隆也かわいー」
「な…」
「お前さ、そうやって可愛く怒ってる顔が、一番可愛いよな」
「ん、な、…意味わかんねーよ!」
「あんま考えんなよ。言っとくけど俺は、ぜってーお前が思ってるよりずっと、隆也の事好きだからな」
分かったらラーメンでも食いに行こうぜ、俺腹減ったーと腹を擦りながら彼は言った。
「手、繋ぐか?」
「結構です!」
差し出した左手を引っ込めながら、彼はちぇー、と唇を突きだして見せた。
歩き始めた彼の背中を見ながら思う。
俺の言動が謎ならこいつも相当謎だ。何を考えているか分からない。
けど、少しだけ、そのなんだか分からないものを彼にもらった気がする。
数歩前を歩く彼の背中と、地面に浮かぶ二つの影を交互に見ながら、あぁ今この人は俺と同じような感情なんだろうな、と思った。
すぐ傍にある彼の左手を握ろうか、少し迷ってやめた。
それがなくとも、十分近い距離だった。
「そろそろ同居とかしようぜ。俺がものすごく寂しがり屋って設定にして、親友の阿部隆也と一緒に暮らしてますってー」
「何勝手に決めてるんですか」
「マスコミなんてチョロいな。並の記者には俺と隆也の事報道させねー」
「な…っ並以上の記者にもダメですよ!」
いつまで続くのか、なんてどうでも良かった。
ただ貴方の笑顔がそこにあれば、俺はただそれだけで、幸せだったんだ。