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Walking in the rain






雨の日は案外好きだ。激し過ぎない雨は特に。
さらさらと降る雨が余計な音を消して静かに、ただ静かに時が過ぎる。
部屋の外の道路を車が時折通り、タイヤが水の上を走る音でまだ雨が降っている事を知る。
窓に近寄るとそっとカーテンを開けた。この街に来て二週間、初めての雨だ。
こうして静かに雨の音を聴いていると嫌でも思い出す。


あの時も、雨だった。


彼との約束の日、待ち合わせ場所には行かず窓から雨を見ていた。
携帯の電源を落としてただひたすら時間が過ぎるのを待った。
彼の乗る飛行機が日本を発った時間になり、ようやく電源を入れることが出来た。

一件の着歴と一件の留守電。
震える指で再生すると、たった一言。

『沢村、元気で』

彼の赴任先に着いて行く決心のつかなかった自分を責めるでもなく、待っててくれなど言葉で縛るでもなく。
ただ淡々と、気遣いすら感じる柔らかな声音で。
彼らしいと思った。その一言に篭められた彼の優しさと、その優しさに気付ける程一緒にいた時間を想う。
不意に温かなものが頬を流れた。
雨の音以外何も聞こえない静かな部屋で、溢れるままに拭いもせずに。
ただ静かに降り続ける雨のように。


あの日から二年が過ぎた。
転職こそしなかったが、翌日には携帯を解約して番号もアドレスも一新し、すぐに引越した。
郵便局に転送届けは出さずにごく近しい者だけに知らせた。
自分だけ日常に戻る事への罪悪感と、彼へのせめてもの誠意、そして自分自身の未練を断ち切る為に、それが最良だと。

(確か、短くても五〜六年て言ってたか)

長ければそれ以上。
そんなに離れる事は出来ないと、彼は沢村を連れて行こうとした。

大学の一つ先輩だった彼と偶然バイト先が同じで仲良くなり、付き合うようになって五年目の時。
恰好良いと大人気だった先輩だから、ずっと好きだったと言われても俄かに信じ難かったが、割と長く付き合ったと思う。
男同士とか、そんな不安をいつもフォローし、ひたすら優しくそして大事にしてくれていた。

なのに結局、自分は男としての矜持をとったのだ。
就職して二年、ようやくものになってきた仕事も何もかも捨て、恋人の赴任先に男の自分が身一つでついていく、その事に最後までわだかまりが取れなかった。

好きだった。大事だった。だからこそ。

『働いても遊んでも好きな事をしてていい。ただ、そばにいてくれればいい』

その在り方に疑問を覚えてしまった。



(……過ぎた事だ。もう会うこともない)

沢村は拒否し、彼は独りで日本を発った。
勤務先に尋ねても会社同士の付き合いはない為、個人情報を晒すはずもなく彼が沢村の所在を知る術はない。
しかも転勤で、初めてこんな都心に来てしまった。二人に結び付けるものなんて、何もない土地。

そこまで考えて、頭を振った。まるで、手掛かりが無くなった事を残念に思うかのような自分に嫌悪を感じる。

(まるで、あの時みたいな雨が降るから、だから)

静かに降る雨の代わりに頭の中で思考がうるさくなってしまったのだと自分に言い訳をする。


「あー…ハラ減った」

全てを払拭するように勢いよくカーテンを閉めて声を出す。静かな部屋にやけに響いた。
転勤して二週間ほぼ毎日残業し、また同僚や先輩と歓迎会を兼ねた食事だ飲みだと出歩いており、冷蔵庫には何もなかった。
この土日である程度は食材を揃えておかなければ生活もままならない。

(取りあえずカレーでも作っときゃ土日はもつな)

近所のスーパーに行く為にマンションのエントランスから出ると、霧雨が降っていた。
出る前に窓から確認したら止んでるように見えて傘は持って来ておらず、部屋は二階だが戻るのも面倒だ。
躊躇せずにそのまま歩き出す。雨に濡れるのも嫌いじゃない。
昔からそうで、濡れながら歩く沢村に彼はいつも気にして傘を差し掛けていた。

どうかしてる、とまた頭を振った。今日の雨はやたらと昔を思い出させる。

スーパーではどこに何があるか把握していないせいで、思ったよりも手間取ってしまった。
カレーの材料と朝食用の食材、今日の昼食に買った弁当を両手が塞がらないよう何とか一袋に詰め込んだ。
外に出るとまだ霧雨が降っている。見上げると当然の事で顔が濡れた。
苦笑して空いた左手で拭いながら歩き始めたところで傘を差した人にぶつかってしまった。

「わ、す、すみません!」
「いえ、こちらこ…………沢村?」

相手が返答して傘を避けた時、懐かしい声が自分の名を呼んだ気がした。
弾かれたように顔を上げたつもりだが、実際はスローモーションのようにゆっくりだったかも知れない。
目の前に立つ人物を確認した時、全ての音が遮断されて時が止まった気がした。
彼は傘を傾けたせいで顔が濡れ、眼鏡についた小さな雫がキラキラしている。

「………、御幸…」

張り付いたような喉からようやく絞り出したのは、二年振りに口にした名前。
何故ここにとか、赴任先から戻って来たのかとか、一時帰国なのかとか、様々な疑問が一瞬で頭の中に湧いて次の瞬間には全て消えて真っ白になった。
茫然とした状況を打破したのは御幸だった。

「久しぶり、沢村。……元気か?」
「……あ、あ。おかげさまで…」

会社での癖でつい言ってしまったが、"おかげさま"なんて厭味だったかと気になる。
しかし「よかった」と御幸が穏やかに微笑むのを見て、安堵の息を吐く。

「……俺は本社勤務になったんだけど、沢村は?どうしてここに?」
「あ、俺も……本社に転勤になって」
「そうか、沢村の所の本社もこの辺だったか」
「………うん」

もう、耐えられないと思った。これ以上ここにいたくない。

「……じゃ、俺行くから」
「あっ、沢村!傘は!?」
「平気。これくらい」

すぐに返答したのは、傘をこちらに差し掛けようとした御幸に焦ったから。このままだと家まで送るとか言い兼ねない。
もし、あの頃のまま変わってない御幸なら。でもそれじゃあ、あの時の意味が無くなる。

「……じゃあ…」
「……、沢村!またな」

また?また会うつもりなのか、近くに住んでいるのか、本人にぶつける事はない疑問をしまい込み踵を返した。
霧雨の中を、ひたすら家を目指した。
早く帰って、霧雨で冷えた身体を熱いシャワーで温めて全てを流して。
そんな事をぐるぐると考えながら。

家に着き、玄関を開けると荷物を廊下に置いて座り込んだ。
先程の嘘のような出来事を反芻し二年振りの姿を思い浮かべる。

元気そうだった。眼鏡があの時と変わってなかった。少し精悍さが増していた。相変わらず髪の色と瞳の色が綺麗だった。あの頃と同じように傘を差し掛けて来た。穏やかな笑顔も優しさも同じだった。変わらない、好きな声だった。

好きだった。大事だった。

こんなにも。でも、


「……何で、あんな…普通に……」

髪に手を差し込んでクシャリと握る。

「何で……普通なんだよ……っ」

冷えた頬に温かなものが流れた。違う、これは雨に濡れたせいで。違う、と心の中で繰り返した。
自分から拒否したのだから泣く権利なんて無い。解ってる。

音もなく降り続く雨があの時の気持ちを思い出させるだけだ。
このまま朝まで降るという予報の雨がきっと全て流してくれる。

今日作るカレーには同僚に教わった隠し味を入れてみる。美味しくなかったら文句を言ってやろうと小さく笑う。
そう、こうして昨日までの毎日に戻るだけだ。
大丈夫まだ戻れる。

ただ、しばらく雨の中は歩かない。





to be continued





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