三日月とキス はじめはただの口喧嘩だった。 沢村が熱く吠え、奥村が氷の刃のような言葉を返す、そんないつもの喧嘩だ。 交流試合の反省会のようなものを、倉持不在の五号室で行っていた。机に向かい完全に気配を消しているような浅田には構わず、だ。 ついこの間まで暑かったはずなのに、開けた窓から入る夜風はひんやりと肌寒さを感じるほど、秋の気配を深めている。 熱くなった頭を冷やすにはちょうどいい。 「じゃあ、もういいです」 「おい! じゃあってなんだよ、じゃあって!」 「これ以上は無理かなと思ったので」 「無理じゃねえし! おれにできないこととかねえし!」 またそういう小学生みたいなことを、と呟いて奥村が溜息を吐いた。 いよいよヤバイと思ったのか、浅田が困ったような笑顔で会釈しながら部屋を出て行くのを二人で見送る。 「じゃあいま、おれにキスしてくださいと言ったらできますか?」 「キ、キスだぁ!?」 「例えですよ。当然できませんよね?」 「うぐぅ……!」 「できないことはないなんて安易に言うと、んん っ」 驚愕に見開いた奥村の瞳にピントが合わないほどの近さにぎゅうと目を閉じる。ほとんどぶつけるように塞いだ唇は案外やわらかくて、離れがたく感じたことに驚いた。 「……どうだ! できないこと、ねえだろ!」 「…………」 ふんと偉そうに胸を張っても、奥村は目を見開いたまま動かない。あれ、どうしたなんて言いながら覗き込んでも呆然としている。 なあ、と向かい合わせの膝を叩いたら、ビクリと肩を揺らして沢村を見た。 「……そういう、事を言ってるんじゃない、んですよ……」 「は? じゃあなんだよ」 「いや……もう、いいです」 随分とあとで知ったが、それは互いにとって初めての唇へのキスだった。 あんな、売り言葉に買い言葉でファーストキスをしてしまったのかと自業自得とはいえ落ち込んだものだ。 ◇◇◇ なぜ今、あんな何年も前の青道時代の事を思い出していたのか。 目が覚めたら、どこぞのラブホテルらしき部屋のベッドに全裸でいて、隣に背を向けて寝ているのは同じく全裸の奥村光舟だったからだ。 正しくは、奥村は全裸ではなくボクサーパンツを穿いている。布団をめくったからわかる。自分だけズルいと思ったがそれでも全裸みたいなものだ。 そして、覚えのある二日酔いのような痛みがズキズキと頭を襲い、覚えのない痛みが尻を苛んでいる。 「……なんで、尻がいてえの……」 まさか、と呟いて起き上がったものの、二日酔いの痛みに負けてまたベッドに倒れこんだ。 数年前のあの日のように売り言葉に買い言葉でこんなことになっているのか、それとも別の要因か。 大学の野球部仲間たちとの飲み会で、さんざん飲んだのは覚えている。三次会だと引っ張られたあたりで記憶はない。 同じ大学の後輩である奥村が三次会まで来たかも定かではないが、来たからこそ今一緒にいるのだろう。一次会で軽く言い争ったので、二次会では離れて座った、その奥村と。 「……何時だ……?」 ベッドに備え付けの時計は午前七時三十三分とデジタルで表示されている。窓もなく薄暗い間接照明だけなので、時計を見ても朝の感覚はない。 入ったことはないが、こういうホテルもきっと十時頃チェックアウトだろう。まだ時間はあるはずだ。 「なんで人生初のラブホテルを奥村と経験してんだよ……」 脱力して寝転がったまま頭を抱えた。動くと尻に鈍い痛みがはしる。 「いやその前に、童貞なのに尻の方経験しちゃったんじゃねえの? おれ……」 うわあ、と叫んだら隣の奥村が身動ぎして、こちらをゆっくりと振り向いた。起き抜けの、少しぼうっとした顔で沢村を捉えて、数回瞬きしている。なんだか色っぽく見えて動揺した。 「お、奥村」 「…………はい」 「お、おまえさ、おまえも尻いてえ!?」 咄嗟に起き上がりながら、もしかしたらおれが先に奥村を食っちまったのかも、という少し驕った疑問をぶつけてみた。そこは知っておきたい。それはそれで、奥村で童貞きったのかという別の怖さもあったが、男として抑えきれなかったのかもしれない。 奥村は気怠げに髪をかき上げて、ふう、と息を吐いた。 「なんでおれが尻痛いんですか。おれが沢村先輩に突っ込んだんですよ」 「やっぱりか! おれ突っ込まれただけか! てかなにおまえ突っ込んでんだよ!!」 「覚えてないんですか」 「三次会から記憶ねえ。な、なにがあった……?」 「そもそも……あー、覚えてないです」 「嘘つけ! おまえ今明らかに面倒くさくなったろ!?」 叫んだところでまた頭痛がして、再びベッドに倒れこむ。だいたい、飲酒が出来る年齢の部員だけでいったものの、奥村はジュースしか飲んでいないのではなかったか。だから覚えていない、などということはないはずなのだ。それを指摘しようとすると、奥村はゆっくりと起き上がり、沢村の頭の両脇に手をついて覆い被さってきた。 「おいおい、教えてあげますよ」 「はあ?」 「いくらでも時間はある。なんたって、付き合うことになったわけですから」 「つ、付き合う!? 誰と誰が!?」 「おれ、と、沢村先輩です」 そう言って微笑んだ奥村は妖艶とも言える表情で、まるでいつかの夜に見た、美しく弧を描いた細い三日月のような。 そんな、澄んだ夜空の月を思い出したら、なぜか鼓動がはねた。 ゆっくりと降りてくる、三日月の形をした唇を受け入れようとしている自分と、それを満足気に見ている後輩との間には、もうすでになにかが始まっているのかも知れない。 end 2016.11.2 privatterより |