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紫陽花はやってこない(倉沢)





紫陽花が、咲いていた。
寮の裏手、窓を開けたら見える位置にあるそれは、今年もまた青い花を咲かせている。
時には光の中で、時には雨の雫をまとい、長い時間楽しませてくれる。
倉持はこの部屋になって初めて、紫陽花の花の色が変わっていくことを知った。花だと思ってた部分が、じつは額ということも。
なにかの機会にマネージャーに言うと、別名を七変化ということや、花言葉にいたっては『移り気』や『浮気』なのだと教えてくれた。
あんなに綺麗に、しっとりと咲いてるのに色が変わるというだけで迷惑な話だと思う。
「浮気ね……」
小さな呟きは、紫陽花の葉からぽつりと落ちた雫のように、誰もいない部屋の中に波紋を描いた。
自分には縁のない言葉だと思っている。案外一途なのだと自分でもわかっている。
多少の問題があるとするならば、もうすでに、出会ってしまったのだということだろう。

「ただいまっす」
「おう」
「あれ、倉持センパイまた紫陽花見てる」
「いちいちうるせえな。頭まだ濡れてんぞ」

風呂に行っていた沢村がドアを開けて入ってくるだけで、今日の天気のようにしっとりとした雰囲気は途端に霧散し、いつもの騒々しさがもどる。
窓辺についていた肘に顎を乗せたまま、騒音の出どころを見遣ると、ニカッと笑いながら近づいてきた。

「紫陽花」
「ん?」
「好きなんすか? いつも、見てる」
「いや、別にそういう訳じゃねえけど」
「なんか、夜なのに光ってみえますよ」
「この部屋の電気で光ってんだよ。雨に濡れてたから」

沢村が頭をくっつけてきて、二人して夜の窓からのぞく風景は、馴染んだ紫陽花とそれがまとう雨の名残り。
熱帯夜にはまだ遠い、少しひんやりとした夜の空気を顔に感じながら、湿った土の匂いを吸い込んだ。
こうして過ごす毎日をどれだけ気に入っているか、隣でアホ面を晒す後輩はきっと知らない。
ずりい、おればっかりが先輩を好きで。いつもそう訴えてくるこのバカを、馬鹿みたいに想ってる。
思い出す風景のもうすべてに映り込んでいるこの後輩は、これからの風景にもきっと変わらず在り続けるだろう。
沢村のこれからの風景にもずっと存在を主張し続けたい。そんなふうに思っていることなんて、きっと、なにひとつ。
だけどなにかを伝えたり、しっかり取っ捕まえておかなければ、たとえば誰かが横から掻っ攫ったりするかも知れないと考えたりする。
そうやすやすと攫われるヘマなんてするつもりはないけれど。
しっとりとした夜気が身体中に染み込むようなこんな夜は、 隣にいることの幸福もやけに染みて胸を締めつける。
想うときに伴う、この切なさに似た痛みを沢村は知っているだろうか。
ずりい、おればっかりなどと言う尖らせた唇を塞いで、逆だバカと言ってやりたくなる。

「どうかしたんすか」
「ん」

隣を見ると、やけに真摯な表情で見つめてくるその瞳は不安に揺れているようで、ああ、同じだと思った。
すぐそばの頬をつまんで引っ張っても、なすがまま。

「おれに紫陽花がくる日はねえよ」
「…………は?」
「心配すんな。そのかわり、おまえも許さねえ」
「……なに……なぞなぞ?」

思わず吹き出した倉持とは反対に、沢村は思案顔で何度も首をかしげながら、降参です、と途方にくれていた。

雨はまた降り出して、静かに紫陽花を濡らし続けている。




end













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