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薫風





自主練、そして風呂を終えて慣れた五号室に戻る。
首に巻いたタオルでいつものようにゴシゴシ髪を拭きながら部屋に入ると、部屋の主が誰もいないのに寝転んでる客がいた。

「あれ?御幸…?」

自分とは思えないし、倉持に用事で待ちくたびれたのだろうか。左腕を枕にドアを向いて横になっている。
眠るつもりなどなかったのだろう、眼鏡もかけたまま。フレームが歪みはしないかと心配になる。

(疲れてんのか……?)

そっと近付いてしゃがみ込むと寝顔を覗いてみた。思えば御幸の寝顔など初めて見る気がする。
いつもの斜に構えたような態度も皮肉ばかりを吐く唇も、なりを潜めていて少し年相応に見えた。
規則正しい穏やかな呼吸。

(うわ、睫毛なげぇ……鼻筋通ってんなー…)

ここぞとばかりに眺めていると御幸が微かに、ん、と声をあげて身じろいだ。
ビクリと肩が跳ねてしまった。悪い事をしているわけではないと思い直してまた眺める。
先ほどより少し仰向けに近くなり、顔がさらによく見えるようなった。
こんな風に人前に無防備な寝姿を晒すとは到底思えない男の、その無防備な寝顔が。

少し開いた窓から湿度の少ない軽い風が入り込み、御幸の前髪がさらりと横に流れた。綺麗な色の髪が揺れる。
時間がとまったような部屋に聞こえる穏やかな御幸の寝息。

その、唇。


「ただいま。沢村何してんだ?」

ガチャリと無遠慮に開かれたドアと、同時に掛けられた声に跳び上がった。

(俺…、俺は今、何を……!)

「ああ?御幸じゃねぇか!ここにいやがったのか!」

立ち上がった沢村の足元に寝転がる客を見て倉持が叫ぶ声がやけに遠くに感じた。
心臓があり得ない速さと強さで脈打っている。倉持に聞こえてしまいそうでシャツの左胸を握った。

「あ、あの。俺、俺走ってきますんで!」
「はあ?お前何言って、おい!」

倉持に返事もせず飛び出した。とにかく今は一人になって落ち着かなければ、その一心で。
走りながら先程のあり得ない出来事を思い出すと叫びそうになった。
あり得ない。

(倉持先輩が帰って来なかったら俺は、御幸に…!)

あの、唇に。

「わああああ!」

結局叫んでしまい、どこからか「うるせえぞ沢村!」と怒鳴られた。
走るたびに受ける風はやはり軽く爽やかで、夜のせいか少し冷たくて火照る頬をさましてくれるだろう。



◇◆◇◆



「何だ?あいつ」

訝しげに沢村が飛び出したドアを見つめ首を傾げた。
そして寝転んでいる御幸に向き直ると容赦無く蹴りを入れる。

「コラ、起きろテメェ」
「いて」
「あ?何だ起きてやがったのか」

御幸は平然と起き上がり蹴られた脇腹をさすっている。

「倉持、あと一分遅く帰ってきて欲しかった」
「何で。あ、大体テメェ部屋に来いとか言っといて人を待たせておいてよ、何でココにいるんだよ。」
「気付かせてあげるため」
「はあ?誰に何を」

御幸は応えずに笑みを形作った唇にそっと触れた。
今頃走りながらずっと考えているはずだ。なぜ、なぜと。

(ずっと考えて考えて、俺でいっぱいになればいい)

そうして答えが出る頃にまた仕掛けてあげればいいだけの話。

「……何かお前、悪そうなカオしてやがんなぁ…何企んでんだよ」
「人聞きワリイな。恋愛に疎い奴の背中をほんの少し押してやるだけだっての」
「うわあ……気の毒」

窓から入ってきた風に新緑の匂いが混じっている。
それはまるで先程唇に触れようとした彼にも似ていて、これから始まる何かを期待させるざわめきも運ぶ。
御幸は目を閉じてその風を受け、微笑んだ。
あともう少し、その呟きは薫る風がさらっていった。



end





















あきゅろす。
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