[携帯モード] [URL送信]
美しき単体についての考察

榎+中+関 一高生 パラレルワールド



 わたくしの席の斜め前、ちやうど柱の陰となつて窓際だといふのに一際陽当りの悪い場所。其れがあの方の席でした。あの方は何時も其処で静かに読書を為さつていました。然しながらあの方が孤独で在つたかと問われますと違います。あの方は自分から動くことは無くとも自ずと周りに人が集まつてくる、さういう方でした。授業の合間にはあの方の周りにご学友が集い、放課後にはかの先輩がやつてまいります。かの先輩とは勿論、この学校の帝王のことでごさいます。かの先輩が態態此処の教室まで足を運び、教室の扉を激しく鳴らしながらあの方の名字を呼ぶのです。「おい、中禅寺!」と。さうするとあの方はやうやく顔を上げ、こう言います。「先輩、扉が痛みます」さうして溜息を一つ吐くと鞄を手に取るのでございます。毎日の決り事のやうに繰り返される、たつたこれだけの遣り取りをわたくしを含めその場に居合わせた全員が咳一つせずに見詰め、あの方達が去つた後、ひつそりと溜め息を漏らすのであります。されは羨望憧れ嫉妬が織り交つた感嘆の溜め息でありました。され程に美しい遣り取りなのでありました。かといつてあの方の容姿が特別美しいのかと問えばさうではありません。確かに端正な顔立ちと漆黒の髪は目を引きますが、かの先輩と比べるまでも無く、あの方よりも見栄えの好い容姿を持つ者は他にも居ります。然しあの完璧なまでに麗人である帝王と肩を並べて歩き見劣らない者はあの方だけでせう。されはひとえにあの方の持つ雰囲気、人徳に依るものなのです。先輩が煌々と輝く光で在るとすればあの方は闇より暗い神秘の黒なのでございます。さうしてわたくしはあの方を盗み見ることしか出来ない石ころにてございます。

或る日のことでございます。わたくしが呼び出しから教室に戻って参りますとあの方がご自分の席で書物を広げていらつしゃいました。わたくしは極力音を立てないやうに自らの席へと戻り急いで鞄に教科書を詰め込みます。面白いもので、あの方はわたくしの事など露ほどにも気にしていないのは確かでありますのに、妙な緊張からわたくしの手はぶるぶると震えておりました。やつとのことで支度を終え、今まさに走り去らむといふ時にあの方が振り返られました。さうして「なあ、」と呼びかけるのであります。わたくしは思わず後ろを振り向きました。馬鹿なことをしたものです。とうの昔に授業は終了して此の教室にはあの方とわたくししか居ないというのに。あの方は少し笑われ、もう一度「なあ、関口君」と言葉を発せられました。嗚呼、其の時のわたくしの驚愕と歓喜といえば!あの方の善く通る美しい聲に自分の名前が呼ばれるのを何度夢見た事でありませう!其の鋭い瞳に映して戴くことを何度願つたことでせう!然し愚かなわたくしはあの人に自らの醜い姿が視られているといふ事に耐え切れず、あの方に名を呼ばれたといふことに驚愕して、俯いたまま身を固くすることしか出来ないのであります。さうしたわたくしにあの方は焦れたやうに更に言葉を続けます。せきぐちたつみ、これがきみのなまえだろう?すこしきみとはなしてみたいのだがいいかい?ああ、ぼくのことしつているかい?ぼくのなまえは、さう謂いながらコツリ、とあの方が半歩わたくしに近付きました。わたくしは反射的にあ、と小さく聲を洩らしてしまいました。其の時呪縛が解けたやうにわたくしは自らに身体が在ることに気付き、同時に逃げなければと思いました。大急ぎで鞄を掴むと驚いたやうなあの方を置いて廊下に飛び出します。さうして大粒の汗を掻きながら寮までの道を滅茶苦茶に走つたのであります。自らの寝台に飛び込んだとき、もう先程の記憶は曖昧で夢かと思うほどです。いいえ、夢であつたのでせう。あの方がわたくしに聲を掛けるなどあつてはならないのですから。胸の動悸が収まつてみると矢張り先程の出来事はわたくしの脳が勝手に見せた都合の善い夢であつたと思われます。さのことに安堵しつつもわたくしの頭の中ではあの方の美しい聲が自らの名を紡いだ音が何度も何度も繰り返されていたのでございます。ちやうど鬱鬱しいつゆ頃のことでございました。


美しき単体についての考察
(もしくは−265℃に至るまでのArの反応性について)



あきゅろす。
無料HPエムペ!