なまえ



※個人的な見解が含まれます。





ぶくりと沈むあたしの嫉妬






 遠くロシアから、更にスケート選手がやって来たとミナコさんから連絡があった。名前をユーリ・プリセツキーと聞いて、ああ、もう一人のユウリか、なんてありきたりな感想を持った。その二人が試合をすることになったのを知ったのは、優子ちゃんちの三つ子が嬉しそうに、このポスターを貼ってと店にやってきたから。体重を落とすとかでしばらく会えていない勇利は、毎日連絡を取っていたのに黙っていたらしい。何も言わないのに、一言教えてくれればよかった。
 勇利とユーリくんに与えられたのはテーマの異なる同じ曲を滑ること。二人で勝負をするらしい。エロスとアガペー。何とも心躍るテーマだ。勇利がエロスやろ?と勇利に聞いたら『なんで、なまえもヴィクトルと同じこと言うとよ…』と顔を真っ赤にされた。それはもう古い付き合い、わたしだけではなく、酔っ払った勇利の様を見たことがある人なら間違いなく理解出来る。いや酔っ払ってなくとも、勇利の本懐はそれだ。負けず嫌いは執着ともいえるし、泣き虫なのは相手を本気で想うから。勇利は本当に素晴らしい人間なのだ。
 今すぐにでも、演技を見てみたい。この衝動はいつも同じ。勇利が氷上に戻ったことをわたしに教えてくれた。あぁ、見てみたい、感じてみたい、言葉にしたい。そう思うといてもたっても居られなくなり、原稿用紙を片手に家を飛び出した。






 勇利のホームリンクには、予想したとおりの報道陣の多さで、誤魔化す為に持ってきたパンとケースを運び入れるフリをして、三つ子ちゃんと一緒に裏口から入り込んだ。「なまえねぇ、今日のパンは?」「あのクリームたくさんのやつ?」「ふわふわなやつ?」可愛い先輩の可愛い娘たちは嬉しそうにパンを受け取ってくれる。今日は少し替えてデニッシュにしてみた。それも嬉しそうに、ママに持って行くと笑ってくれるものだから癒されるのだ。
 知った場所を歩いて、観客席に上がり込むと、リンクの上にいたのは勇利ではなかった。ぎらぎらと輝く飢えた獣、とでも言おうか。ロシアの妖精と唱われるユーリ・プリセツキーが舞っていた。荒削りだが、間違いなく美しく成長するだろうと思わせる動き、十代の葛藤と欲にまみれたその滑りは、勇利とはまた違った美しさを生んでいる。ぞわり、と肌が粟立つ。勇利とユーリ、ふたりの滑りを見てみたいと思った。ユーリの近くで、ヴィクトルが指導をしているのが見える。すらりと伸びた足はしなやかに氷を滑り、金魚の尾鰭がゆらゆらと揺れる様に錯覚しそうになる。けれど彼の表情は儚げで、あの日の雪を被った桜のようだった。一瞬と永遠の狭間のような。思わず、筆を取った。言葉を繋がなければ、衝動が言葉になって溢れ出てくる。この刹那を記しきる、それがわたしの使命だ。

 どれだけ集中していたかわからないが、いつの間にかユーリくんと勇利が入れ替わった様で、ヴィクトルもリンクサイドから勇利の動きを見つめていた。遠目だからはっきりとはしないが、勇利を見つめるヴィクトルは先程とは雰囲気がまた違っている。エロスを表現しようと努める勇利に、期待と羨望と熱の籠もった視線をぶつけていた。
 本当に偶然だった。いや、必然だったのかもしれない。わたしの中で物語が始まった。ストーリーが浮かび上がる。ぱたぱたと映写機が映像を映し出すように、きらきら輝くふたり。真剣な眼差しが交差して、呼吸が寄り添う。うん、テーマも決まった。そしてひとつ、今までとは変わったことをしたいと思い立ち、担当者にメールを打つ。迷いはなかった。時差があったはずなのに直ぐに電話鳴るのを見て、苦笑した。《いいのか、本当に》わたしが本当に真剣だと解ってくれる相手。「うん。新しいことをしないと」話をしながらも原稿用紙に物語の軸を綴っていく。

《…オレの仕事がまた増えるな》
「はは、ごめん。でもやってみたい。だから翻訳はしない」
《日本だけで勝負してみるのか》
「日本語でないと、現せない言葉があるから」
《お前のファンはどうする》
「…ある程度落ち着いたら、わたしの手で翻訳したい。何年かかってもいいから」
《……わかった。ボスにも伝えておく》
「ありがと、アキラ」

 ぷつり。途切れた音が少し寂しい。アキラ・フォード、英国と日本のハーフで勝負好きなお兄さん、そしてわたしをデビューさせてくれた恩人だ。彼が居なかったら、わたしは今物語を綴ってはいないだろう。
 勇利とヴィクトルを見たとき、わたしのなかで新しい想いが芽生えた。今まで勇利のスケートだけを描いてきたけれど、今度は、ふたりのスケートを描きたい、いや、ふたりの、ふたりから生まれる感情を物語にしたい。テーマは愛≠セ。形のないそれは、誰にでもわかるけれど、誰にでもわからないもの。今までは英語で物語を綴ってきたが、今回だけは日本語にしたい。そこにあるのは日本語でしか現せない言葉や感情を描いてみたいという、わたしなりの母国、物語への愛≠セ。





 温泉onアイスの前日、わたしはひっそりと勇利の練習を覗きに来た。大会前の練習はひとりで淡々と黙々と滑り続ける、昔からの勇利の癖。わたしはその時の勇利がとてもすきだ。いや、愛しているのかも。勇利がスケートを愛しているように、わたしも勇利のスケートを、勇利を愛している。情愛ではない、嫉妬や羨望、欲にまみれたそれらとは違う、特別な愛、きっと勇利も同じだ。だからお互いにこの関係に満たされている。

「なまえ」

 ぼうっと、勇利を眺めていたら、声を殺したヴィクトルが現れた。こんばんは、そう挨拶をして隣を譲ると、するりとそのスペースに入り込んだ。「…身体を休めてって言ってるのに」至極不満げに呟かれた言葉を拾っても良いものかと思案したが、黙って呑み込む事にした。ちらりと見上げた彼の横顔は憂いを帯び、懇願し、燃えていた。なんて美しいんだろう。わたしは生涯ふたりの間には入り込めない、直感した。勇利の特別に成る人はわたしではない。ひどく昔からわかりきっていたこと、それを思い出す。それでも不思議と嫉妬はない。彼が勇利の特別になることは当たり前のように思えて、別の言葉にするなら、運命と、そう呼べるから。

「なまえ、帰ろうか」
「…もう、見なくてもいいんですか?」
「ああ。君も、帰ろうと思っていただろ?」
「えぇ。送りますよ」
「ありがとう。助かるよ」

 滑り続ける勇利に背を向けて歩き出したヴィクトル。わたしも一度だけその滑りをしかと目に焼き付けて、彼の後を追った。

 車に乗り込んで、ヴィクトルをゆーとぴあまで送る最中。彼はふと、軽やかに「なまえは勇利をどう想ってるの」と。驚いてブレーキを踏んでしまった。わぉ!と隣で驚いているヴィクトルは放っておく。車を脇に寄せて、ハンドルに頭をもたげた。
 いつか聞かれるだろうと思ってはいた。が、こう、誰も予想し得ないタイミングとは思わなかった。「幼馴染み、なんだっけ?」顔を上げずとも、こてん、と首を傾げる姿が想像できた。

「…わたしにとって、勇利は、汚い感情がつきまとわない、愛する人です」

 それだけは胸を張って言える。ハンドルから顔を上げなかったけれど、声だけははっきりと震えることなく伝わったはずだ。

「へぇ…おもしろいね」
「…あなたにとっても、そうじゃないんですか」
「…ふふ、そうだねぇ。…君たちは随分綺麗なままで生きてきたんだね」

 それは、通り過ぎる街灯の灯りのように、わたしの頭の中に尾鰭を残していった。彼は何を想っているのだろうか。わたしと勇利の関係は、確かに綺麗なのかもしれない。汚い感情を伴わない、美しく淀みない関係だと、第三者からみるとそう映るのだろう。当事者であるふたりは、それらを乗り越えてしまっただけなのに。お互いがお互いを想えるのなら、それでも、いいのかもしれない。「…明日、楽しみにしています」返す言葉を見誤ってはいないだろう。「うん、俺も楽しみだ」くつりと笑った彼を見つめる。本当に、心の底から楽しみなのだろう。明日、彼の運命が決まるのだ。自分の運命が誰かの手で決まるなど、恐ろしくは無いのだろうか。否、彼の場合、それすらも楽しみに変えているのかもしれない。誰かを驚かせる事に長けた彼だからこそ。
 勇利とヴィクトルが共に頂上を目指すことになるだろう今、世界中は驚き、彼らが見せてくれるだろう新たな世界を待ちわびている。勇利とユーリ、どちらと組んでもそれは変わらないだろうが、勇利と組むことにこそ、意味がある。

「どちらに転んでもみんな驚きますよ、きっと」
「いいね!そういうの大好きだ!」
「勇利も世界もいつもあなたに驚かされていますから」
「もっともっと、驚いてくれるかな?」
「ええ。間違いなく」
「なまえは?きみも驚いてくれるかい?」
「もう、たくさん驚かされていますよ…」
「ははは!よかった!」

 勇利がヴィクトルに夢中な事に、幼かった頃のわたしはいつだって、妬いていた。一方的に嫉妬し、自分を見てくれない事の虚しさを物語に詰め込んだ。けれど、その感情が昇華されたとき、勇利のそばにいる誰かに嫉妬することはなくなり、寧ろ、勇利を知ってくれていない人に苛立ちを感じる様になったのだ。勇利は埋もれているわけではない。まだ、磨かれる途中の宝石なだけ。それを磨き上げてくれるだろうヴィクトルには感謝以外の何もあるまい。彼らふたりが奏でる物語を早くみてみたい。明日が楽しみで仕方がない。まるで遠足を前にした幼稚園児のようだ、なんて、思わず零れた笑みを、ヴィクトルが盗み見ていたなど知る由もなかった。




《なまえ、ごめん、起こした?》(…勇利?んー、別に問題ないよ)《明日の勝負、》(ふふ、うん。わかっとる。わたしは勇利が勝つって信じとるよ)《…ありがとう》(いってらっしゃい、勇利)《っ、いってきます、なまえ》
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全然絡みがない…
試合前日、送り出す役目をやってればいい。

20170105 常陸


まえ  つぎ
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