ヴィクトル・ニキフォロフ



※共通語「」日本語、ロシア語のみ『』



 ヴィクトル・ニキフォロフ──ロシアのリビング・レジェンド。勿論わたしだって知っている。幼い頃から嫌と言うほど見せられた、勇利の憧れの人である。随分と昔から彼のスケートを真似ていたのは覚えているが、あれ程までに完璧に舞ってみせるとは。それが、動画を見たわたしの率直な感想である。
 さて、その幼馴染みはというと、拡散された動画のおかげですっかり引きこもりを決め込んでいる。わたしも生で見たかった、なんて次の日に電話をしたら、「なまえまで見てるなんて…」と涙声にさせてしまった。お詫びに、と、落ち込んだ勇利を励ます意味も込めて、焼きたてのパンを片手にゆーとぴあに向かっている。
 春になったというのに、朝の日差しを浴びて雪が輝いている光景はある意味においては異様である。しかし、桜の花びらに積もる雪を見ているとそれが不思議と当たり前かのようにも思えてくる。日本人は、昔から刹那的な美しさを好んでいたというが、全く持ってその通りである。いずれ消えゆく雪の切なさと相反する命の芽吹き、溢れ出る言葉たち。今なら文章が繋げそうだ。こういう時に、文字を綴っていて良かったと思う。マフラーにうずめた顔はピリピリと春の訪れを待つ冬の朝の空気を感じていた。ふと、目に入ったのはその桜を眺める背の高い男性。思わず息を呑んだ。シルバーの髪が雪の反射できらきら光り輝き、髪の隙間から覗く薄らい蒼の瞳は、まるでステンドグラスの様、はらはらと舞い落ちる桜の花びらがそれをいっとう惹き立てている。遠巻きに見ても、だれが見ても、『きれい、』それは、勇利のスケートを初めて観たときと同じ。

『? おや、』

 パタリと止まってしまった足を鬱陶しがる通行人もいない。ただ、目の前の彼だけが、わたしを目に留めた。『きみ、ゆーとぴあって知ってる?』さくり、さくり、詰まる距離に思わず後退る。だって、嫌でも解ってしまった。目の前にいる美しさの権化は間違いない。

『ヴィクトル・ニキフォロフ…!』

 驚いて焼きたてのパンを落とさなかったわたしを褒めて欲しい。『おお!俺を知ってるんだね!』ロシア語で綴られる言葉すら美しい。何度も会場に足を運んでいたが、この距離で見る彼の美しさたるや。勇利はこんな人間と同じ土俵に上がっていたのか!うわわ、だめだ、こんな、美しい人間、初めてだ。スケートをしている時の勇利とはまた別の、ああそう、大人の色気だ。

「な、なんで…」
「英語話せるんだね。よかった〜助かったよ。俺、ゆーとぴあって所に行きたいんだけど、迷っちゃって、ねぇ、マッカチン」
わん!
「や、だから、なんで、」
「ニッポンってごちゃごちゃしてるよね〜トーキョーは特にさ」
「は?まって、まって」
「ハセツは遠いね…ニッポンってもう少し小さいかと思ってたけど、意外と大きいから驚いちゃったよ」
「はなしを、きいて…?」

 どうやらわたしは、少し勘違いをしているかもしれない。色気とか美しさとか、それを差し置いてのこの押しの強さ。勇利には間違いなく無いもの。「そうそう!君の名前は?」教えるのが正しいのか…?そもそも、こんな雲の上の人が目の前にいる現実を受け入れられておらず、脳内の処理スピードがかなり落ちているのは確かだ。「なまえ、なまえ・みょうじです」うっかり名前を伝えてしまう。すると、彼は詰めていた距離をパッと離し、目を見開いた後、へらりと笑った。

「なまえ、もしかして…勇利…ああ!そうか!君か!」
「…?」
「俺は君の描く物語の大ファンなんだ」
「?!」

 驚いて焼きたてのパンを落としてしまった。確かに本名で物語を綴っているが、それは日本で出版されることは先ず無いし、英語から多言語に翻訳されても契約している出版社は少ないからと油断していた。この人は知っていたのか。
 勇利がスケーターになると決めたとき、わたしも本名で物語を綴ると決めた。勇利が何かを背負う時、同じ様にそれを背負う為だ。勇利とは違って日の目を見ないわたしの名前が、世界一の男の口から放たれる違和感。むず痒く、ちくちくした、不思議な、それは言葉にするには未完成な感覚だ。



愛になるにはまだ幼い



「知っているんですか」
「勿論」

 落ちたパンを拾い上げながらわたしを見る仕草も美しい。思わず瞼をきゅっと閉じる。はは、と聞こえた笑い声が、そこにヴィクトル・ニキフォロフという人間が居ることを証明してみせた。すっかり冷めてしまったパンを受け取ると、ヴィクトルはくるりと一回転し、高らかに声を上げた。

「文字が、ことばが、呼吸をしているのを俺ははじめて体験したんだ!本当に驚いたよ!」
『っ、』
「君が勇利・勝生と親しい事は知っていたけど、ああ、勇利も君も素晴らしいよ!」

 どうしていいかわからない。頭はパンクしそうで、でも目の前の彼から視線は外せない。彼が物語る言葉はその低音と混ざり合ってわたしの鼓膜を、心臓を揺らす。彼が話す度に舞い踊る花弁や、嬉しそうに飛び回るマッカチン、きらきら輝く瞳と、ほら、だって彼は、いま、わたしを見てくれている。『っ、あぁ…!』きっとわたしの顔は林檎よりも真っ赤だろう。恥ずかしい、恥ずかしい!勇利以外の人にときめくなんて今まで有り得なかったのに。間違いない、わたしは、ヴィクトル・ニキフォロフに、

─ばたんっ
『え〜〜!!なんで倒れたの?!』
「ちょっと君、ねぇ!」






(なまえちゃん?!)(ゆーとぴあ?アッテル?)(…うぅ、っヴィクトル?!)(やぁ、目が覚めたからな?)((お、お姫様抱っこ?!)ばたんっ)(え〜〜デジャヴだよ〜)
───────
ヴィクニキ初対面とか関係なく土足で踏み込んできそう

(20161124 常陸)


まえ  つぎ
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