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ナイスドリーム

自分は誰かに「おはよう」と言った記憶がないと気付いたのは、臨也が中学に上がってから一月ほど経ったある日のことだった。勿論意識して言わなかったわけではない。ただ、両親は家を空けがちだし、妹達が臨也より早く起きてくることもない。自分になついているわけでもない。だから臨也は「おはよう」と言ったことがなかった。学校に行ったって、そんなことを言う相手はいない。そんな状況は高校に上がっても続いていた。

そういうことに一旦気付きだすと、後から後から様々なことが気になりだした。こんにちは、こんばんわ。さようなら、また明日。臨也はそのどれも口にしたことがないのだ。言うだけならいくらでも言えるのだろうが、この手の言葉は相手がいなければ意味がない。

学校から帰って来たって、臨也は「ただいま」とは言わない。「おかえり」と出迎える人もいない。どこをほっつき歩いているのか、妹達はいつも臨也より帰って来るのが遅かった。臨也が帰る家はいつも無人だ。
中学の途中までは、この家に向かって「ただいま」と言っていたこともあった。まるで機械のように、聞いている人も答えてくれる人もいないのに、そう言い続けることで少しでも気を紛らわそうとしていたのかもしれない。けれどある日、自分しかいない家が臨也の「ただいま」を虚しく反響させていることに気付いて、それがやたらと恐ろしくてその習慣は止めてしまった。いくら言い続けたってお前は一人だと、そう言われた気がした。

いただきます、ごちそうさま。行ってきます、行ってらっしゃい。どれもこれもが自分とは無関係だ。けれども多分、一番おかしいのは、それを特に「おかしい」と思わない自分自身なのだろう。
またね、また明日。誰も臨也を歓迎しない。それは当たり前のことだし、そういう風な振る舞いをいつもしている自覚はある。臨也は人間を愛していたけれど、自分が人間に愛されていないことは分かっていた。それは仕方のないことだった。

「ああ、なんて可愛いんだろう僕のセルティ! 愛してる!」

だからだろうか、臨也は新羅とセルティのやり取りを見るのが嫌いじゃなかった。行って来る、気を付けて。今帰った、待ってたよ。そういう単純な言葉の響きを聞いているのが、なんだか心地良かった。自分がそれを口にする必要はない。ただ端から見ていれば良かった。
そうしていつも思うのだ。かくも人間は美しい。互いの小指を絡み合わせなくとも、こうやって小さな「約束」を短い言葉にのせられる。そうやって見ているだけで満足だった。だから臨也は「おかしい」のだろう。


高校を卒業してしまっても、臨也をとりまく状況は変わらなかった。今までお世話になりました、元気でやれよ。その内池袋からも臨也は去って、身近な人間なんてものはほとんどいなくなった。こちらから接触を試みなければ誰とも会わない。会う顔は毎回違う。やあ久し振り、元気にしてた?

「あれ、まだいたの」
「ええ。誰かさんのせいでまだ仕事が終わらないから」

秘書とのやり取りさえこんなもので、人間なんてのはどこまでも希薄だ。いや、多分自分でそういう風にしているのだろう。臨也を歓迎する人間なんてどこにもいない。

それでも、時たま会うのが静雄だった。臨也と静雄は友人なんてものではなかったけども、それでも彼とは定期的に喧嘩を繰り返していた。もしかしたらその喧嘩は、他の誰でもない臨也の意志によって続いるのかもしれない、と思う時がたまにある。臨也は確かめてみたいのだ。自分はどこまで落ちてしまっているのか、自分はどこまで人とつながっていなくとも平気でいられるのか。

人とかかわらないでいられる「人間」なんて、それはもはや「化物」と同じだ。

「臨也、寒ぃ」

それなのに、臨也とは反対に「人間」に近付いてしまう「化物」もいるのだから、滑稽な話だ。ベッドの布団を全て腕に抱いた臨也を見て、静雄は不快そうに眉を寄せた。
身体を重ねたのはこれが初めてではなかった。お互いに孤独だったから、恐らくそれを補い合おうとしたのだろう。それなのに静雄はどんどん「人間」になっていく。そろそろ臨也がいなくとも、その孤独を誰かに埋めて貰える日が来るかもしれない。そうすれば臨也だけが一人だ。いつだったか、仕事途中の静雄をたまたま見かけたことがあった。静雄はベンチに座る上司に小走りで寄って行くところだった。

「すんませんトムさん、ちょっと時間食いました」
「おう、いいってことよ。おけーり」

自分たちとは随分と違うのだなと思った。何か奇妙なものを感じた。あの女は絶対に臨也に「お帰り」なんて言わない。

静雄は不機嫌そうに臨也から布団を奪い返そうとしたが、結局止めたようだった。静雄が本気になれば臨也は勝てない。代わりに、煙草に火を付けて吐き出した。匂いが鼻腔を擽る。

「シズちゃん、灰落とさないでよ」
「ああ? うっせんだよノミ蟲の分際で」
「俺、寝煙草で死ぬとか絶対嫌だからね」
「死なねえよ」
「君はね」

静雄は煙草を灰皿に押し付けた。何度言っても静雄がベッドの上で煙草を吸うのを止めないので、臨也がわざわざ買ったものだった。身体の気だるさに目蓋がおりていく。目敏く気付いたらしい静雄が、寝るのか、と臨也に聞いた。

「俺は君と違って体力ないからね」
「ああそうかよ」

セックスが済めば、後はお互いに用無しだ。今日は臨也の家でやったから、静雄ももう帰るだろう。そう思っていたのに静雄がベッドに身体を沈めたので、臨也は驚きに目を丸くした。

「は? シズちゃん、何のつもり?」
「疲れた。泊めろ。今日は俺もここで寝る」
「そんな勝手な」

臨也がいくら喚いたところで、静雄は全く聞いていない。勝手に臨也のベッドに横になると、勝手に目を閉じてしまった。こんなことは初めてだったので、臨也はどうしていいか分からない。いつもは勝手に帰るのだ。それがお互いの暗黙の了解だった。わりと広いベッドだし、お互いに細身なのでそこまで窮屈なわけではないが、そんな事実より困惑が勝る。

「ちょっとシズちゃん」
「うるせえ、お前もさっさと寝ろ」
「帰って寝なよ」
「言っただろ疲れたんだよ。同じベッドで寝たくねえんならお前は床で寝ろ」

横暴とはこのことだ。本当に寝てしまわれては困ると思ったので揺すって起こそうとすると、それに苛立ったらしい静雄は臨也を腕に抱いた。完全に動きを封じられる。その上胸のあたりに頭を押し付けられて、喋ることさえ容易じゃない。

「寝てろ」
「ちょっ、シズちゃ」
「おやすみ」
「……は」


――おやすみ。

何度も頭の中で反芻されていく。


ただいま、おかえり。いただきます、ごちそうさま。いってきます、いってらっしゃい。ありがとう、こちらこそ。おはよう、こんにちは、こんばんわ。

人は何度も、そうやって小さな約束を積み上げるのだ。それは恐らく、絆と呼べるものだろう。人とつながりのあることの証だ。
臨也はそのどれも口にした記憶はなく、それが当り前なのだと思っていた。それが「おかしい」ことだとは分かっていたし、惨めなことも知っていた。

静雄の寝息が聞こえてくる。本当に寝てしまったのだろう。「おやすみ」だなんて初めて言われた。その言葉はじわじわ胸に広がって、今までの空白の記憶を塗り直すようだった。静雄の胸に額を押し付ける。

明日の朝になったら、今度は「おはよう」と言ってくれるのかもしれない。そういう期待をかけている自分がいることに気付いて、臨也はきつく目を閉じながらシーツを握りしめた。初めて人間になれた気がした。













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ナイスドリ−ム(いい夢を)


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