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妥協だって許さない/後編

声もない、とはこのことだった。

シズちゃんは何も言わない。ただ黙って肩を震わせている。それが俺にはかえって恐ろしかった。いつもはいきなり泣き出すはずのシズちゃんが、それを堪えるように俯いているのだ。
俺の首筋に、いよいよ本格的な冷や汗が流れた。臨也、と新羅が俺を呼ぶ。幸いなことに、シズちゃんは人目を一応気にして公衆の面前で泣き喚くことはないが、新羅とは長い付き合いだからなのか、それとも俺達の関係を知っているからなのか、新羅の前だけではいつもの調子で泣くのだ。よって、新羅はシズちゃんの泣きグセというやつを知っていた。だからこそ今、顔を引き攣らせて俺に何とかしろという視線を送ってきているのだろう。

っていうか、これ俺がなんとかしないといけないの?

「臨也……」

シズちゃんが俺を呼ぶ。え、何これ怖い。なんか妙に怖い。浮気されて怒ってるのは俺の筈なのに、どうしてその俺がシズちゃんにビクビクしないといけないんだ?

「臨也、俺のこと面倒臭いのか……」
「え、あ、いや、さっきのはあの、俺も言い過ぎたっていうか」
「臨也は俺といると疲れるのか」
「や、さっきのは、えっと、うん、言葉のあやだからさ、ね、あんま気にしないで欲しいっていうか」
「臨也は俺にうんざりしてるのか」
「だから、えっと……」

な、なんだこの圧倒的な面倒臭さ……。

なぜだ、記憶力なんて大して良くないくせに、何故そんなことばかりやたらと覚えているんだ。そして何故それをわざわざ復唱するんだ。なんだか俺が悪いみたいな雰囲気になってるじゃないか。違うだろ、悪いのはお前だろ。そもそもお前が浮気なんてするのが悪いんだろ平和島静雄。
やっぱお前面倒臭ぇよ。なんでそんなに面倒臭いんだお前。お前はなんだ、小学生か? 人がちょっと先生のことを間違えて「お母さん」って呼んじゃったのを、横からいつまでも囃し立てるウザい小学生男子か?

面倒臭い、面倒臭いよシズちゃん。だけど何も言えないよシズちゃん。そんな捨てられた子犬みたいな顔で見つめられたら、臨也何も言えなくなっちゃうよ。うわ、俺気持ち悪っ。

「臨也、静雄に謝りなよ」

新羅が後ろからそっと囁く。囁くと言ってもあれだ、そんな優雅なものじゃない。さっさとこの噴火間近の活火山をどうにかしないと承知しねぇぞこの野郎、くらいのニュアンスと必死さを含んだものだ。だから何度も言うけど、悪いのはあっちだっつーの!

「シズちゃん、俺」
「いいんだ」
「え?」
「いいんだ臨也。分かってる、別れたいんだろ?」


――は?

絶句するしかなかった。この馬鹿の単純な思考回路からは、何をどうすればそんな馬鹿げた結論が導き出されてしまうんだ?
つーか、ちくしょう、別れるってなんだ。馬鹿野郎舐めてんのか。こちとら何年お前のその面倒臭さに付き合ってやってると思ってんだ。それをお前、この程度のことで別れるってお前、人の苦労をなんだと思ってんだ。そのイケメン顔をナイフでズタズタにしてやろうか。

あまりの馬鹿馬鹿しさに、俺は何も言えなかった。そう、俺は本当に、その馬鹿馬鹿しさに言葉もなかっただけなのだ。しかしシズちゃんは違う方向で受け取ってしまったらしい。

黙っているということは、それすなわち肯定。

さすがは単細胞。馬鹿の鑑だ。

「分かった……」

いや、分かってねえよ。お前は何も分かってねえよ。静雄お前一回自分で考えるということを止めろ。思考を停止しろ。そして一先ず俺の話を聞け。そしたら分かるから。自分が今どんだけアホなのかが分かるから。もうこの際浮気の取り調べについてはその後でいいから、だからまずは俺の話を聞け。話はそれからだ。

「別れよう」
「あのねえ、シズちゃん……ちょっと君落ち着きなよ」
「俺は落ち着いてる……」

落ち着いてねえから言ってんだよ。

しかし俺は、依然として迂闊なことを言えないでいた。というのも、目の前の男が未だに目尻に涙を溜めていたからだ。これはいつ爆発するか分からない。ここのところ近いうちに富士山は爆発するのではないかと実しやかに囁かれているが、俺からすればこっちの噴火の方がよほど怖かった。とにかく刺激してはいけない。穏便に、慎重に、話は進めなければならない。
ああ、やっぱり君って面倒臭いよシズちゃん。

「だけど俺は別れたくない……」
「うん、いや、別れようとか言ってるのシズちゃんだけだからね?」
「好きだ臨也。好きなんだ」
「シズちゃん、だったら別れなくったっていいんだよ」
「だから臨也……」

聞けよ、俺の話を。

これはもうそろそろ俺もキレていい頃なんじゃないか? 俺はちょっとこの男を甘やかし過ぎてるんじゃないか? ちょっとはメンタル面も強くなるように、やっぱり一度くらいはきついことも言っといた方がいいんじゃあ……。
だがしかし、俺はやはり何も言えないでいた。何故か。何を考えているか分からない単細胞ナンバーワンこと平和島静雄が、スタスタとキッチンの方に歩いて行ってしまったかと思うと、おもむろに冷蔵庫を持ち上げたからだ。ギャアッ、という新羅の悲鳴が上がった。

「シ、シシシシズちゃん……?」
「ごめん臨也、俺はやっぱりお前が好きだから」
「あの、まさかとは思うけどソレ、一体どうするつもりなの?」
「――お前を殺して俺も死ぬ!」

ヤ、ヤンデレ化した!


高く持ち上げられる冷蔵庫と、新羅の悲鳴と、今にも泣き出しそうなシズちゃんと、暗くなる俺の視界と、それから――それから、俺の意識はそのままブラックアウトした。











次に視界が開けた時、一番に目に入ったのは新羅の顔のドアップだった。どうやら俺は今ベッドに寝かされているらしい。俺の意識が戻ったのに気付くと、ああ良かった、と安堵の息を漏らす。

「いやー良かった良かった。どこも外傷はないのに気だけ失っちゃうから、脳をどっかやられたかと思ったよ」
「……えっと、俺」
「覚えてない? 静雄がうちで暴れてさあ、もう本当、暴走するのはいいけど、セルティとの愛の巣でやるのは勘弁して欲しいなあ」

新羅は苦笑している。ちょっと心が広すぎるんじゃないのか。ここはもっと、烈火のごとく怒ってもいいところなんじゃないか。そんな新羅は怖いけど。

「新羅、シズちゃんは?」
「別室にて反省中」
「そう」

俺は黙った。黙って、最後に見たシズちゃんの顔を思い出していた。

泣きそうだったのに、泣いてなかった。あんな顔は初めてみた。いつものシズちゃんは、あ、泣きそうだな、って思ったらすぐに泣いて、そうしてずっといつまでもグズグズやってるのに、あの時のシズちゃんは泣きそうなくせに泣いてなかった。それは、俺が、面倒臭いと言ったからだろうか。疲れると言ったからだろうか。
変な所が真面目なのだ。泣きたいくせに我慢して、それじゃあ流さなかった涙は今どこに行ってるんだろう。

「臨也、あのさ。静雄から聞いたけど、さっき喫茶店で一緒にいたっていう子は、仕事の後輩なんだってさ」
「…………」
「ケーキが食べたいっていうから、仕事の合間に、付き合ってあげたんだって。あのトムとかいう上司もいたらしいよ。君が見たときには、いなかったみたいだけど」

トイレにでも行ってたのかもね。付け加える新羅の顔を見ながら、やっぱり俺は、何も言えない。
分かってたよ、と言ったら怒るだろうなと思う。シズちゃんが浮気なんてできないってことは分かってた。そんなことができる男じゃないし、そんなことを自分に許せる男でもない。ただ、俺は、気に食わなかっただけだ。嫉妬したのだ。その癖にそれを素直に表すこともできずに、八つ当たりしてシズちゃんを傷付けたのだ。

シズちゃんみたいには、泣けないよ。あんな風には俺は泣けない。黙り込んだ俺に、新羅はなぜだかふふっと笑った。

「……何?」
「いやあ、前にもこんなことあったなと思って。ほら、臨也が“仕事”で他の女性とどこかの喫茶店で打ち合わせをして、それを静雄に見られて、喧嘩になったことがあっただろ? 君は浮気じゃないって言ったけど、静雄は浮気だって言ってさ」
「……覚えて、ないよ」
「そっか。とんだ似た者同士だ」

新羅は苦笑しながら立ち上がると、扉の方に目をやった。

「臨也。静雄はさ、君を縛り付けるかもしれないけど、静雄だって自分自身を縛り付けてるんだよ。女の子にはできるだけ近寄らない、話さない。自分で自分を見張ってる。だからってわけじゃないけど、まあ、大目に見てやりなよ」
「うるさい新羅」

苦し紛れの悪態を吐くと、新羅は笑いながら部屋を出て行った。これで一人になるのかと思えば、今度は入れ替わるようにシズちゃんが部屋に入って来る。
体ばっかり大きい癖に、今はなんだか小さく見えた。威張ってないシズちゃんなんて、シズちゃんじゃないみたいだ。
ドアの所で立ちつくす彼に微笑んで、こっちに来るように手招きした。シズちゃんは恐々としながら俺のそばに寄って来て、膝をつくとごめんと言った。子供みたいな謝り方だった。やっぱりシズちゃん、君はガキだ。そして多分、俺も。

「ごめん……臨也」
「うん、本当だよ。君に俺は困らされてばかりだ」
「ごめん」

シズちゃんが俺の手を握って来る。その顔を見てみれば、赤く目が腫れていた。ああ、泣いたのか、と思うと、途端にこの男のことが愛しく思えた。

「ねえシズちゃん、黒髪より金髪のほうがいいの? 胸がおっきい方が好き?」
「臨也、違う、あれは」
「大丈夫、分かってるよ。ちゃんと、分かってる」

焦るシズちゃんがおかしかった。そんなに慌てなくとも大丈夫だ。ちょっとしたお返し。嫉妬深い君に、嫉妬深い俺からの、ささやかな意趣返し。

「俺は君が好きだよ。シズちゃんは?」
「俺だって好きだ」
「うん、それも分かってる」

シズちゃんの手を握り返す。

「だからお願い。別れるだなんて言わないでよ、シズちゃん」

俺以外の人の前で泣いちゃ嫌だよ。

俺の手を掴むシズちゃんの手を握り込む。泣きたいのはこっちの方だっていうのに、ああ、ほら、またそんな泣きそうな顔をして。
これだからほっとけないんだよ。別れるなんて冗談じゃない。それに、こんなに手がかかる面倒な君のお世話なんて、俺にしかできないに決まってるじゃないか。

「好きだ」
「知ってる」


ねえシズちゃん、君もそう思わない?













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妥協だって許さない(だけど最後は愛してあげる)


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