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希望をちょうだい/後編

どっか行きたいとこはあるか、と訊ねる静雄に、臨也はただ首を振った。

「ねえのかよ、どっか。行ってみたい場所」
「分からない。どこにも行きたくない」
「……お前なあ」

朝食の食器を提げながら、静雄は呆れたように息を吐く。それでも、たとえ呆れられたって、臨也は外には出たいとは思わなかった。この前服を買いに行った時だって半ば強制連行されたようなもので、臨也は散々嫌だと主張したのだ。
外の世界を歩きたくなかった。今までずっと暗い家の中でつながれてきたのだから、今更太陽のもとに出ようとは思えない。

「お前なんで、そんなに出たがらないんだ?」
「……眩しいから」
「は?」
「空が、眩しいから。出たくない」

はあ、とまた溜息が聞こえてきた。静雄にはよくしてもらっているし困らせたいわけではないのだが、臨也は本当に外の世界が苦手なのだ。
何か買い物があるなら家で留守番していると臨也は提案したが、それは静雄に却下された。お前が家にいるなら俺もいる、と言って、食器を洗い終えるとソファーにどかりと座り込む。

臨也はどうしていいのかも分からず、朝食をとったテーブルに依然として座ったままだ。何か命令されないと、何をしていいのか分からないのだ。だが静雄は臨也に命令なんてほとんどしない。したとしても、さっきの「服を着ろ」とかその程度だ。
それでは、臨也はもう自分が何をすればいいのか全く分からなくなってしまう。

「臨也」
「……何?」
「こっち来い」

また、他愛ない“命令”だ。それでも、何もないよりはマシだった。静雄が自分の隣をポンポンと叩くので、そこに座る。座ってしまえば、またすることはなくなってしまった。

「臨也」
「何」

腕が伸ばされて、抱き締められた。臨也はただされるがままに大人しく従っている。いつもこうだ。セックスは要求してこないくせに、静雄はことあるごとに臨也を抱き締める。
正直、意味が分からなかった。性行為以外の目的でこの身体に触れる必要があるだろうか。痣だらけで、傷だらけで、これまで何人に触られたのか覚えてすらいない、この汚い身体を。

「君はどうして、俺を抱かないの」

こうやって家に置くのだから、少なくとも臨也のことは嫌いではないのだろう。だったら抱けばいい。何もさせず、静雄はただ臨也をそばに置くだけだ。
そもそも臨也には、体以外で恩を返す方法を知らない。臨也には体しかない。それなのに静雄は臨也を抱こうとしないから、臨也にはそれが不安で仕方なかった。

「俺はお前が、好きだから」
「……俺も君のこと、嫌いじゃないよ」
「違う」
「嘘じゃないよ。感謝してる」
「違う。そういうことじゃない」

それじゃあ、どういうことだと言うのだろう。臨也はただ、静雄の望むように腕の中で抱かれている。静雄は臨也を「好き」だと言う。これが初めてではない。今までに何度も、静雄は臨也を「好き」だと言った。けれど、それに頷く度に静雄は違うと首を振る。

好きの意味が分からなかった。体に触れられるということはセックスをするということだ。名前を呼ばれるということは何か命令をされるということだ。しかし静雄はそのどちらもなかった。本当に、何もない。
分からないのだ。静雄がどういうつもりで臨也をそばにおくのか、臨也には本当に分からない。体でないなら、臨也には返せるものなんて何もない。何もないのに、静雄はただ臨也をそばにおき続ける。その意味が、理解ができない。見返りを求めない「愛」なんてそんなもの、臨也にはこれっぽちも理解できなかった。

「……苦しいよ」

抱き締める力が、苦しい。こんなのは知らない。ただの抱擁なんて意味がない。静雄は力を緩めて抱擁を解くと、臨也の頬を両手で包んだ。そんな目で見られたって、臨也は静雄が何を望んでいるのかなんてわからない。
ふと、窓の向こうの空が視界に入った。青い。その光が目にしみて思わず「眩しい」と呟くと、静雄はくしゃりと顔を歪めた。

いつか旅に出よう、と静雄は言った。いつか、臨也が空を眩しく感じることもなくなって、その身体の傷も癒えたら、どこへなりとも旅に出よう。どこか知らない所に、誰も自分達を知らない所に。いつかきっと旅に出よう。
今からでもいいよ、と臨也は答えた。静雄がそれを望むなら、待ってくれなくとも構わない。どこへだってついて行く。たったそれだけでいいなんて拍子抜けするくらいだ。望まれるならどこでもいい。たとえそれが海の底だったとしても、臨也は躊躇ったりしない。どこへだってついて行く。
だが、それでは駄目なのだと静雄は言った。いつまでも待つのだと。そんな傷はすぐに消える。空だっていつか眩しくなくなる。そうなるまでいつまでも待つから、その時が来たら、きっとここを出て行こう。

臨也には、それは途方もない話に思えた。こんなにも日の光は眩しいのだ。それを何とも思わなくなる日なんて、来るはずがない。

「……無理だよ」
「大丈夫だ。いつか眩しくなくなる」
「そうは、思えないけど」
「お前は、まだ、空の青さを知らないから」
「……知ってるよ」
「知らないんだ、分かってない」

知ってる、ともう一度呟くと、静雄は再度臨也の体を抱き寄せて腕をまわした。四角い窓から空が見える。隙間風でカーテンがはためいて、白い雲と青い空が窓枠に切り取られて臨也の目に入ってきた。知ってるよ、と何度でも呟いたが、その度に静雄は首を振る。

違う、そうじゃないのに。俺はちゃんと、知っているんだ、この空の青いことを。俺はきちんと理解している。

空に向かって手を伸ばすと、袖から痣だらけで汚い自分の腕が見えた。こんな汚い手ではきっと、あのきれいな空は捕まえられないに違いない。そう思うとなんだか泣けてきた。静雄はいつか絶対に治癒して消えると言ってくれたが、こんなに汚いものが失くなってしまうなんて、そんなことがある筈がない。この体は一生汚いままなのだ。あの空とは永遠に交われない、きっと汚いままなのだ。

「臨也、愛してる」
「ごめん、分からない」

空が青いことくらい知っている。だってこの目に見えている。けれど、静雄が囁く愛は臨也にはちっとも見えなかった。見えないから、分からない。愛なんて一生分からない。
静雄が首を振るたびに、臨也の頬に液体が伝った。生温くて気持ち悪い。ああ、これは何というものだったかな。胸の底から湧き上がって来るようなこの気持ちは、何と呼べば良かったのか。思い出そうと目を閉じても、暗い牢獄の闇しか見えない。


それが分かったとき、臨也も静雄の言う空の青さを知るのかもしれない。












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希望をちょうだい
(幸せがちっとも見えてこないの)


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