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愛にもならない

本日の追いかけっこはいつもより長引いた。深夜の池袋を走る、走る。臨也は笑い、静雄は怒鳴った。それは全くいつもの殺し合いではあったが、夜の深さのわりに星の瞬かない空が視界に入ると、臨也はなんだかどうにも変な気持ちになっていった。
静雄は単純なので、臨也が逃げる方向に我武者羅に走って来る。臨也は人目を避けた。臨也は光を避けた。避けて、避けて、二人きりの高いビルの裏に逃げ込んで、標識を肩に担いだ静雄を笑顔で振り返った。

「ねえ、シズちゃん、海に行こうよ」





意外にも、静雄は大人しく了承した。長引いた追いかけっこは互いの体力を消耗して、心も身体も疲弊していたのかもしれない。二人で電車に乗り込んで、海に向かった。二人とも無言で電車に揺られていた。

電車を降りてからも、二人は無言だった。静雄はもとから寡黙な性質だが、臨也は何か喋ろうという気になれなかった。二人で肩を並べて歩くだけ、というのは滅多にある状況ではなく、臨也は時折隣の顔を見上げては眉を顰められた。それでも静雄は文句を言わなかった。

「――海だ!」

コンクリートでできたブロックの上に乗って、一面の海に両手を広げた。辿りついた海は暗く静かだった。波の音は心地よく、潮の匂いは鼻につかない。臨也が満足げに笑むその横で、静雄が煙草に火を点けるのが見えた。

「……止めてよシズちゃん。俺、煙草嫌い」
「手前の好みなんて関係ねえなあ臨也君」
「シズちゃんって本当に情緒ないよね。まあ脳の代わりに筋肉発達しちゃったみたいだから仕方ないのかもしれないけど」
「海を墓場にしたいのか?」
「冗談」

軽い言い合いをして、そうして暫く二人で海を眺めていた。臨也には今この時、自分の心が高揚しているのか冷めていっているのか分からなかった。今にも自分は静雄に愛を告げるかもしれないし、別れを切り出すかもしれない。自分でも分からなかった。そして静雄は多分、臨也以上にそのことを分かっていない。
死ねばいいのに、と呟くと、それを拾ったらしく静雄が臨也を睨みつける。気付かないふりをすることも或いは可能だったが、臨也はそれに満面に笑って見せた。訝る静雄を無視してその唇に噛みつくと、拒まれることもなく更に深く混じり合う。

ああ、酸欠になる、と思うと、すぐに静雄の体を突き飛ばした。大したダメージはない筈だが、数歩分後ろによろめいて目を細める。やはり愛は囁かない。非難もない。
興醒めだよ、と言ってやると、手前のほうからしてきたんだろ、と何とも的外れな返答が返ってきた。死ねよシズちゃん、とこれは声にせず心で呟く。鈍い静雄はもう、臨也から海へと視線を移していた。


夜を映す海が美しかった。水面がゆらゆら揺れている。底の無いような漆黒に引き込まれて膝をついた。余分の無い海の深さの、なんと純潔なことだろう。覗き込もうと身を乗り出すと、腕を掴まれて阻止された。顔だけ上げると、静雄が臨也の手首を掴んでいる。

「……何?」
「落ちる気かと思った」
「落ちないよ。なあに、心配してくれたの」

哄笑した。反吐が出る、と吐き出すが、静雄は眉をピクリと動かしたのみで怒ることも呆れることもしない。

「落ちるなら、シズちゃんが落ちればいい」

どうして、こういう時に限って感情を出そうとしないのだろう。それだから臨也にはいつまで経っても静雄のことが分からない。分かる気さえしない、恐らくこのまま永遠の平行線を辿って、分かり合うことなど生涯ないのだろうと思う。
静雄に握られた手首が、じきにジクジクと熱を持ちだした。熱い、熱い。いっそこの海に飛び込んでこの熱を冷まして、そして全ての憂鬱の根幹をなすこの男から逃げ出してしまいたかった。臨也は本心でそれを願っていた。それは多分、今自分の手首を掴む静雄がいつまでもその手に力を込めようとしないからだ。海が揺らめいている。月が光っている。なんて馬鹿なことをしているのだろうと、唇から洩れたのは今度は諦観の笑いだった。

「シズちゃん、ねえ、手を放して」
「嫌だ」
「放してよ」
「放したら逃げるだろ」
「逃げるよ。逃げたいんだよ、俺は。どうせ君は、俺が逃げたって連れ戻したりはしないんだろ。その癖どうして俺を捕まえておこうとするの」

泣き言だ、と思った。自分を困らせるこの男に泣き言を漏らしている。静雄は何も言わずに臨也を見下ろしていた。自分の言葉を待っているのだと、臨也には分かった。理屈を厭い言葉の端々に苛立ちを見つけるこの男が、わざわざ弱音を漏らす仇敵のために口を閉ざし黙してくれているのだ。有り難さに涙も出なかった。

「……ああ、分かった」

臨也がまだ何も言わない内に、突然静雄は何か心得たという顔をして、力任せに臨也を引っ張り上げた。肩にかかる負荷に思わず顔を顰めるが、相変わらず静雄はそんな些事に頓着しない。
やたらと近い距離に立たされて、臨也は文句を言うことも忘れてしまった。静雄の咥えた煙草の匂いがする。煙い。離れようと試みても、未だに手首は掴まれたままだ。そこだけが熱かった。

静雄は落ち着き払った声で、臨也、と臨也を呼んだ。答える代わりに顔を上げた。鉄面皮のその顔が腹立たしくて仕方なかった。睨み付けるように静雄を見ても、やはり表情は一切崩れない。それが余計に腹立たしくて、臨也は静雄を睨んだまま悪態を吐いた。

「ねえ、何? その足りない頭で何が分かったっての」
「お前、アレなんだな。俺が思ってたより、人間だったんだな」
「……何の話? 俺はどう見ても人間じゃん化物のシズちゃんと違って。君、今いつもの俺以上に人を苛立たせる話し方してるって分かってる?」
「俺は、ただ、そばにいりゃあそれが答えだと思ってた」
「は? つまり何が言いたいんだよ」
「お前が知らないだけで、俺はもうずっと前から、お前に恋をしてる」

は、と声にならない息を吐いた。淡白にそう語る静雄の表情は読めなかった。それは本当にただの無表情なのかもしれなかったし、諸々の感情を押し殺した結果が無表情になったのかもしれなかった。分からない。分からないが、臨也はその言葉にただ衝撃を受けた。
今まで自分は、一体何に悩んできたのだろう。この男に愛されているのかが分からなかった、だから証が欲しかった。態度や行動だけでは不安だった、どうしても確かな言葉が欲しかったのだ。静雄は無表情で臨也を見下ろしている。この海のように静かな瞳だ。愛しい人の瞳なのだ。

口を開けないでいる臨也に、静雄は首を傾げた。不思議そうな表情になった。それもすぐに掻き消えて、手に持っていた煙草を落とすと踏み潰した。

「また抱き締めてやろうか?」

この前と同じ言葉は、しかしその中に子供の悪戯のような響きを孕んだ。臨也は何も言わなかった。頷きさえしなかった。それでも静雄は臨也の手を引いて、無理やり自分のほうに引き寄せた。
温かな体温が伝わる。鼓動が伝わってくる気がした。

ああ、そういうことだ、と思う。臨也はそもそも、平和島静雄という男のことを、少し過大評価し過ぎていたのだ。過小評価し過ぎていたのだ。愛だの何だの以前の問題だ。こんな幼稚な抱擁が心を慰めるなんて、どうかしている。
臨也は静雄の肩口に額を擦り付けた。静雄は何も言わずに、臨也の頭にそっと触れる。

この海に還るのだ。全ての生の産みの母親だと呼ばれる、この母なる海に。臨也は静雄の背に腕をまわした。その動作に、静雄がピクリと体を揺らした。耳元で噛み殺し損ねたような笑い声が聞こえる。
臨也、と呼ばれたが聞こえないふりをした。そういえば、静雄は何かと臨也の名前を口にする。答えないかわりに、一層抱き締める腕に力を込めた。今度こそ、耳元にはっきりとした笑い声が伝わってくる。

「お前、まさか泣いてんの?」
「……んなわけないじゃん」

必死に静雄の体温を手繰り寄せながら、臨也は思う。これは純愛などではなかった、まるでたった二人取り残された幼子が、互いに身を寄せ慰め合うような、それは拙くも幼い恋だったのだと。今更引き返すにはあまりに長い時間をかけ過ぎて、今やっと、自分は初めてそれに気付いたのだと。













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愛にもならない
(母を求める乳飲み子のような、それは愛にも満たない恋だった)


あきゅろす。
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