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純愛に耽溺


「夏目漱石は『月が綺麗だ』、二葉亭四迷は『私死んでもいいわ』」
「……は?」

月の光が差していた。閉め切っていた筈のカーテンからこぼれているのだ。静雄に何度止めろと言われても、臨也は眠りの床につく前に窓をわずかに開ける癖を止めなかった。
冷えた空気が剥き出しの肌を舐めるのが、静雄は気に食わないらしい。だから窓側に寝そべるのはいつも臨也だった。それだからいつも窓を開けたくなるのだ。夜闇に霞まない金の髪がどれだけ臨也にとって眩しいのか、恐らく静雄は想像だにしたことはないだろう。その美しさに目を細めるのが好きなのだ。臨也の髪は夜とは同化するばかりで自分が何処にいるのかてんで分からなくなってしまいそうで、道標が欲しかった。

「アイラブユーの和訳だよ。その頃は愛してるなんて日本語はなかったから」
「……だから何だよ?」
「君ならどう訳すのかと思って」
「くだらねえ」

心底面倒臭そうに言うと、静雄は口を開けて欠伸をした。昼には隠されている双眸が、今は剥き出しのまま涙に濡れる。

臨也は静雄から愛を囁かれたことはない。臨也がいくら求めても答えなかった。好きだよ、と言えば頷く。キスをせがめば唇に触れる。抱きつけば抱き返される。しかし絶対に言葉は返さなかった。全てが無言だった。だから臨也に、自分が愛されているという自覚はない。飽いて別れを切り出したことさえあった。その時でさえ、静雄は臨也に愛を口にすることはなかった。
視界の端で輝く月が美しかった。それをただ眺めながら、この不毛な恋愛はいつまで続くのだろうとふと思う。愛されていないとは言わない。ただ、愛されているとも思わない。内側から鍵の開けられる部屋に閉じ込められたような、それは奇妙は閉塞感だった。出て行っていい、と言われれば恐らくそうする。しかし臨也には、自分の欲しいものが中に在るのか外に在るのかが分からなかった。

「臨也」

眠気に攫われかけた、穏やか過ぎる声だった。臨也は返事をしない。ただ静雄を見返す。穏やかだった声色に反して、その表情はどちらかと言えば不機嫌の色が濃かった。

「言いたいことがあるなら言え」

言っても無駄だ、と思った。だから何も言わなかった。これまでに駄目だったことが、今この時から変わるとはとても思えなかった。
おい、静雄はしつこく臨也を呼ぶ。臨也は答えなかった。静雄の苛立ちを知ってもなお、ただ静雄を見つめるしかなかった。

「お前は何がしたいわけ?」

分かってくれと言いたかった。静雄はいつまで経っても分からないのだ。静雄は深い溜め息を吐いて、不機嫌を気配から消した。抑揚のない声で言った。

「なあ、抱き締めてやろうか」

そんなことを言われたのは初めてで、そういえば自分の饒舌がいつの間にかなりを潜めていると、臨也は漸く気付いた。あまりに月が美しく光るものだから、泣き出しそうで、迂闊に口を開けなかった。それでも、臨也は震える唇を開いた。

「シズちゃんの馬鹿力なんかで抱き締められたら、俺死んじゃうよ」
「死んでもいいんなら、抱き締めてやるよ」

月明かりで、静雄の双眸が煌めいた。瞳の中に月を飼っているようだった。思わず「綺麗だ」と漏らすと、静雄は怪訝そうな顔をするだけで後はもう何も言わない。やはり今回も負けのようだと、臨也はがっかりした。悔し過ぎて、本当に泣いてやってもいい気分だった。そうすればこの男は、少しでも臨也を慰めようとするだろうか。

「俺、死んでもいいよ」

泣き言のように吐き出して、臨也は助けを乞いた。すると、およそこれで死んでしまうとは思えないようなささやかな力で、ふわりと抱き締められる。
今泣き出したいのはきっと、この体温に自分が歓喜しているからなのだろう。なんとも惨めな純愛をしている。俺ばっかりじゃん、と呟いても、臨也を腕に抱く男は一向に口さえ開かない。

「馬鹿」

悪態さえ沈黙でもって聞き入れないのだ。なんと横柄で勝手な男だろう。それでもその背に縋ってしまうのだから、この純愛を終わらせる日が来るとしても、それは恐らく臨也の方からではない。
窓から吹き込む夜風が冷たかった。風邪をひく、と呟いて、静雄は臨也の顔を覗き込んだ。

「……お前、目は綺麗だな」
「そう」

それなら臨也は、ずっと静雄だけを見つめている。









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純愛に耽溺(愛と呼ぶが故に、それは愛たり得るのだろう)


あきゅろす。
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