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星降らない明日(臨也)/後編

 人間はまず、その人の声から忘れていくのだと言う。なるほど、と臨也も感心した。確かに両親が死んだとき、臨也は顔よりも髪型よりも、まずその声から思い出せなくなってしまったからだ。
「シズちゃん」
 初めて臨也が静雄のことをこう呼んだ時、静雄はあまり良い顔をしなかった。ガキっぽくて、恥ずかしい。それでも臨也は止めなかった。嫌がるのなら、なおのこと。他の誰かと同じ呼び方なんてしたくなかった。
「ねえ、今日は良い天気だよ。星が綺麗に見える」
「そうか、良かった。俺には見えねえけどな」
 言いながら、静雄はポンと適当に鍵盤を押した。単音が響いて、臨也が自分の唇の端が歪んでいるのに気が付く。ああ、そうだ、君の目が見えなくて良かった。こんな顔見られなくて良かった。
「君にも見せてあげられたらいいのにね」
 臨也が言うと、静雄は困ったような顔をする。
「シズちゃん」
「なんだよ?」
「何か弾いてよ」
 目が見えない静雄のピアノには楽譜が乗っていない。ただ、一度聴いた音楽は忘れないし、まるで楽譜が目の前にでもあるように音符が頭に浮かぶのだと言う。絶対音感、というヤツなのだろう。臨也の声も音楽に聞こえているのだろうか。以前聞こうとして、なんだか恥ずかしくなって止めてしまった。

 本当のことを言わなければいけない、といつも思う。自分は新聞記者なんかじゃない。いつも戦争のことばかり考えている。この街は君が思っているほど美しくない。だが最後には何も言えない。幸せそうに街の思い出を語る静雄を見ていると、そんなつまらないことは永遠に知らなくていいと思う。
 もしかしたら、そのために静雄の目は見えなくなったのかもしれない。神様なんてものは少しも信じていないのに、臨也はそんな風にすら考えるようになってしまった。

 子どもが泣いている。お腹が空いたのだと言って母親に縋りつく。すると母親は細い腕で子供を抱いて、「ごめんなさいね」と言うしかない。手入れをする余裕すらない髪の毛に、薄汚い泥と埃が張り付いている。年寄りは何も言わない。ただひたすら空腹と空虚に耐えている。
 臨也たち軍人が道を歩くと、街の人間たちはいつも何か言いたげな瞳をじっと寄越す。この戦争はいつ終わるのですか。食べ物はもっとたくさんもらえないのですか。私たちの夫を返してください。平和だった時間を返して。いつになったらこの戦争は終わるのですか。こんなにも我慢したんだもの。当然勝ってくれるんですよね?
「こんなもの集めてどうする気なんだ?」
 執務室に大量に転がっている白い布を見て、門田が眉をひそめた。やりたいことがあるんだよと臨也が言うと、ますます分からないという顔をする。
 臨也がこの街に派遣されたのは、ここが臨也の生まれ育った街だったからかもしれないし、今のところ一度も戦場になったことのない安全地帯だったからかもしれないし、臨也が軍の総指揮殿の養子だからかもしれない。大勢のために小数を切り捨てるのがアリなら、その逆だって当然アリだ。今の親に引き取られてから、臨也は一度もピアノに触れていない。必要ないと言われたのだ。戦争に音楽は必要ない。必要のないものをやる意味はない。
「大変だったんだよ、こんなお粗末な布でも、この貧相な街から集めるのはさ」
「……なんでこんなものを」
「ドタチン、俺からお願いがあるんだけど」
 言ってから、臨也は「いや」と言いなおした。
「命令だ。門田少尉殿」
 臨也が言うと、門田は顔を強張らせた。その顔に既に緊張が見えるのは、もしかしたらこれから臨也が何を言うのか分かっているからなのかもしれない。





 人は生きながらいつも何かを犠牲にしている。何が自分にとって重要なのか選択しながら生きている。
「シズちゃん、シズちゃん」
「臨也?」
 いつものように、臨也は夜になって静雄の家に訪れた。いつもよりは少し早い時間かも知れない。まだ日が沈み切っていない。でも、もうそんなのはどうでも良かった。早く会って顔が見たかったのだ。
「あれ、なんか良い匂いがするね」
 甘い匂いがする。何か作っていたのだろうか。
「ケーキを焼いてたんだ」
「ケーキ?」
 簡単な料理くらいなら静雄は一人でも作ってしまえることは知っていたが、そんなものまで作れるとは知らなかった。話を聞いてみるとさっきまで弟がいて、その弟と一緒に作っていたらしい。相変わらず仲のいいことだ。
「今日の分はもうなくなっちまったけど、明日も作る予定だからお前にも分けてやる」
「え、いいの? ほんと?」
「なんで嘘吐くんだよ」
 おかしそうに静雄は笑った。それがあまりにも愉快そうなものだから、思わず臨也も笑ってしまう。そうだね、どうして君が嘘なんて吐くんだろう。嘘を言っているのは臨也の方だ。
「シズちゃん、そろそろ戦争が終わるよ」
 臨也が言うと、静雄はきょとんとした。きっともう終わる。明日にでも、この街の戦争は終わりになる。
「嬉しくってさ、今日は、いつもより急いで来ちゃったよ」
 嘘じゃない、と臨也は自分に必死に言い聞かせた。腹が痛い。見も知らない女から引っ掛かれた頬も痛い。縛り上げないとどうしようもなかった右肩の銃創は、部下の上等兵から撃たれたものだ。
「ねえ、今日は、何弾いてくれるの?」
 声が引き攣っていないだろうか。変な喋り方をしていないだろうか。喘ぐような呼吸の音を聞かれたくない。臨也の必死な思いが叶ったのか、静雄はいつも通りの顔で言った。
「そうだな。じゃあ、ドビュッシーの……『2つのアラベスク』」
 今、街では、一般人と軍の人間を巻き込んだ大暴動が起きている。想像はできた。どんなに学のない人間でも、「白旗」の持つ意味くらいは知っているというものだ。
 この国は、国のために小さな街を捨てることに決めた。だから臨也は、たった一人の人間のためにこの街を一つ捨てることに決めた。無条件降伏。堂々と白旗をふれば、世界からも注目を浴びているこの戦争で無意味な死人を出すことはない。
 誰が責任を取るんだ、と門田は言った。小さな街一つが自国の意思すら無視をして白旗を降って、そんな都合のいい裏切りに、一体誰が責任を取るんだ。

「……臨也?」
 演奏が終わった。臨也が黙ってそれを見ていると、不安そうに静雄がキョロキョロと辺りを見る。
「そこにいるのか?」
 いつもならすぐに聞こえてくるはずの拍手が、いつまで経っても聞こえてこないからだろう。静雄が一曲弾き終えるたびに、臨也はいつもパチパチと拍手をした。本人に自覚があるのかは知らないが、そうすると嬉しそうに照れた顔をするものだから、それが臨也も嬉しくて癖になってしまったのだ。
「ああ、ごめん、ごめん」
 でも、もうできない。肩を貫通した銃弾が、どうやら臨也の骨と関節を滅茶苦茶にしたらしい。腕が全く上がらなくなってしまったのだ。「貴方は私たちを裏切った!」あの兵士はそう言って臨也に銃口を向けた。避けようと思えば恐らくできた。でもできなかったのだ。本当にその通りだと思ったら、みっともなく泣き喚きながら臨也に向かってくるあの兵士の顔を見ていたら、逃げようなんて考えは吹っ飛んでしまった。
「いる。ちゃんといるよ、シズちゃん」

 今朝、街中に白旗を掲げる前に、臨也は静雄が美しいと言ったラベンダーの花畑に行ってきた。街の時計台を抜けた南の端だ。静雄の言った場所に辿り着いて、その光景を目にして、臨也は何も言えなかった。
 何もなかったのだ。そこには、ただ茶色い地面が広がって、ところどころに雑草が生えているだけだった。
 ちゃんとした手入れがされなければ当たり前だ。そしてそんなことをするだけの心の余裕は、この街にはもう残っていない。それを知らないから、ラベンダーを見に行って来たという臨也に、静雄は無邪気な調子で言う。
「奇麗だったろ? 春が終わると咲き始めてな。辺り一面が紫になるんだよ、絨毯みたいに。風が吹くたびに良い香りがして」
「うん」
「子どもの頃な、よく摘んで持って帰ったんだよ。そしたら母親が喜んで、よく乾かしてお茶にしてたな。良い匂いになるんだ、本当に」
 うん、うん、と臨也は頷いた。
 それしか言えなかった。
 もし臨也がこの街を捨てて一人で逃げたのなら、今残っている街並みも全て、暮らしている人間も全て、あっという間に戦火に呑まれてなくなってしまうのだろう。
 もうそろそろ日が沈んで、夜になる。夜空にはまた星が瞬き出すだろう。波江から聞いた情報が本当なら、敵が攻めてくるのは明日の明け方だ。その頃には臨也も街に戻るつもりでいた。誰も彼もが怒り泣き叫んでいる街だ。白い布をそこらじゅうに掲げたこの街は、明日には敵に降伏する。

「シズちゃん」
 人間はまず、声からその人のことを忘れてしまうのだと言う。
「何か弾いてよ」
 拍手はもうできない。





 シズちゃん、シズちゃん、と臨也は心の中で必死に静雄に呼びかけた。どうか忘れないで欲しい。たとえばもう二度と会えないのだとしても、どうか今この場所に、君のことを「シズちゃん」と呼ぶ男が存在していた事を、忘れないで欲しいと思う。
「何を?」
 臨也が何か弾いてと言うと、静雄はいつもこの質問をする。
「君の、一番好きな曲がいいな」
 精一杯の口説き文句のつもりだ。
「お前、そういう恥ずかしいこと、よく言えるな」
「はは……正直でいたいからね。せめて、自分の気持ちにはさ」
 結局伝わらなかったなあ、とぼんやり思う。どうせならもっと、具体的な言葉を掛けるべきだった。
「明日、何が食いたい?」
「え?」
「せっかくだから、お前の好きなもん作ってやる。弟がいるから、ちょっと難しいのでもいいぞ」
 臨也が少し迷っていると、「明日また来るだろ?」と当たり前のように静雄は問う。
「うん」と臨也は答えていた。そうしよう、そうしたい、と思ったからだ。そこに嘘はない。嘘があってはいけない、と思う。

 一曲終わるまでに考えとけよ、と言って、静雄が鍵盤の上に指を置いた。それから少し遅れて、綺麗な旋律が聞こえてくる。美しい夜空に映える曲だ。ずっとこの時が続いてほしい。
 フランツ・リストの『愛の夢』。
 この戦争はいつか終わる。その時に君の夢が、いつかきっと、叶いますように。明日に見ることのないだろう星空を見上げていると、臨也はようやく笑えそうだった。















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星降らない明日



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