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星降らない明日(臨也)/前編

 司令官として軍から派遣されることになった街は、かつて臨也が子供時代を過ごした街だった。長年の戦争で疲弊した街は、まるで灰色の絵の具で塗りつぶされたかのように活気がない。働き盛りの成人男子はほとんどが徴兵され、残ったのは年寄りと女、そして子供ばかりだった。
「辛気臭い街でしょう」
 臨也の後ろを歩いていた少佐が、鼻で笑うように言う。
「昔はそれなりに賑わってたらしいですけどね」
 ボロのような服を来た子供が、臨也の横を走り抜ける。隣のこの建物は、かつて何かの店だったのだろうか。錆びた青い看板が無造作に置いてあるだけで、電気すらついていない中には誰もいない。
「ああ、そこ、昔はパン屋だったんですよ」
「……へえ」
「折原さんのような方には、退屈な街でしょう」
「いやいや」
 大事な街だ。なんせ、ここを落とされれば武器を製造する工場地帯を構えた街まで一気に攻め込まれやすくなる。
 臨也は足を止めて振り返った。視界に広がる街並みは、やはり眠りについているように静かだ。





 その家を見つけたのは、本当に偶然だった。臨也は街に置かれた部隊の指令役として軍の本部からわざわざ派遣された。キャリア組として戦線からはほとんど無縁の場所で過ごしていた臨也が今さらになってこの場所に呼ばれたのは、それが臨也の生まれ育った街だったからかもしれないし、今のところ一度も戦場になったことのない安全地帯だったからかもしれない。
 十年ぶりに生まれ故郷を訪れた臨也は、その変わり果てた様子にひどく落胆したものだ。かつてはそれなりに活気があった。大人たちは街のあちこちを働き歩いて、かと思えば酒を飲みながら歌って、いつも必ずどこかで誰かの笑い声がした。それが今はどうだ。道を歩く人々の俯きがち顔は、どれもこれも表情が暗く陰気臭い。まるでモノクロの街だ。故郷だからと言って特別な思い入れがあるわけではないが、臨也は少なからず失望していた。
 そんな時だ。ピアノの音のする家を見つけたのは。
 街から三十分以上は歩くだろうか。派遣されたばかりの臨也が何の気なしに街を離れてフラフラと歩いていると、街を見下せるような小高い丘の上に小さな家を見つけた。太陽がまだ地平線からのぞいたばかりの、朝のことだ。家の中からはピアノの音が聞こえる。臨也も聞いたことのある曲だった。フランツ・リストの『愛の夢』だ。
 そのままフラフラと家のそばまで寄った臨也は、胸の高さほどにある小さな窓から中の様子を窺った。中には背の高い細身の男が一人でいて、どうやらその男が音の出所らしかった。男は臨也の様子に気が付くこともなく、ひたすら無心でピアノに向かっていた。こんな所に人が住んでいたなんて。臨也は男に興味を持った。退屈でモノクロな街の中で、この男だけが色付いて見えたのだ。それが今から少し前の話だ。

 星の輝く夜空に、誰も知らない音楽が響いている。いつものように開いている窓からそれを鑑賞していると、曲が終わったところで唐突に声がかけられた。
「……もう来たのか、臨也」
「あれ?」
 まだ声を掛けていない。窓のサッシに寄りかかって家の中を覗きながら、臨也は意味もないのに中の男に向かって首を傾げて見せた。
「なんでバレたの?」
 足音で分かる、と男は答えた。心なしか口元が笑っている。だから、臨也もほんの少しだけ機嫌が良くなる。
「なるほど。今度から気を付けよう」
 それから、遅ればせながらパチパチと拍手をした。
「さっきの、フレデリック・ショパンの『英雄ポロネーズ』だね。君が弾くのは初めて聞いたよ」
 好きな曲だ。臨也が言うと、男は少し首を傾げた。顔はこちらを向いているのに、目は臨也の方を見ていない。男は目が見えないのだ。
「そうだったか?」
「うん」
 ついつい口に出てしまったが、そんなことはどうでもいい。男が手を鍵盤から膝の上に置いてしまったのを見て、臨也は言った。
「ねえ、次は何を弾いてくれるの?」
「……そうだな」
 ゆったりとした声で男は言う。聞き心地のいい低音だ。こうして男の奏でる音楽を聞いている時が、臨也は幸せだった。





 名前は平和島静雄。子どもの頃からずっとこの家に住んでいて、今は一人暮らし。両親を亡くしているから、今は家族は弟だけ。その弟は都市部の方に働きに出ているらしい。でも、しょっちゅう顔を出してくれるから寂しくはない。血こそ繋がっていないが、親代わりをしてくれている人もよく世話を焼いてくれていて、一人でも暮らしには困っていない。
 全て静雄自身が教えてくれたことだった。あの家を見つけてから暫く、臨也は声を掛けることもなく少し離れたところでピアノの音を聞いていたのだが、ある時あることに気がついて声を掛けた。いくら黙って聞いているとはいっても、男が全く臨也に気が付かないのが不思議だったのだ。試しに堂々と窓の正面から中を覗いてみて、それでも男が何も言わないのを見て臨也も気付いた。男は目が見えなかったのだ。
「最近、機嫌がいいみたいだな」
「え?」
 駐屯所を歩いていると声を掛けられて、臨也は足を止めて振り返った。見ると同期の顔馴染みが立っていて、臨也と目が合うと軽く手を上げて挨拶する。
「あれ、ドタチン、今は訓練の時間じゃなかったっけ?」
「休憩中だ」
 同期だが、階級は臨也の方がずっと上だ。だが、どちらもそれをあまり気にしない。普段はそれでも体裁だけは取り繕っているが、今は周りに誰もいないから門田は気安く臨也に声を掛けてくる。
「訓練、気合入ってるね」
 訓練の掛け声が、離れた場所からでも聞こえてくる。臨也が言うと、門田は照れたような顔をした。歩兵の訓練では、門田が指導役をしているのだ。
「そろそろこの地方にも進軍してくるんじゃないかって噂だからな」
「その前に降参しちゃえばいいのにねえ」
「――オイ、滅多なことは言うもんじゃないぞ」
 怒られてしまった。臨也が口を閉じると門田は吊りあげた眉毛を逆に八の字にして、今度は申し訳なさそうな顔で謝った。
「悪い。 ……気が立ってるんだ、俺も、多分」
「しょうがないよ」
 疲弊しているのだ。この街だけではなく、この国全体が。
 食事がとうとう配給制になった。持てる資源の全てを戦争に費やしているこの国に、もはやなりふり構っている余裕はない。だが、国が必死に国民に隠そうとしているこの戦争の実態を臨也は既に知っている。自殺に近い負け戦。同盟国も次々と降伏して、今や残っているのはこの国だけだ。これまで農業だけで大きくなった国が、戦争のやり方なんて知っているはずもなかったのだ。それでも国はそれを認めない。当たり前だ。これまで「必ず勝てる戦い」と謳ってなんとか国民を参加させていたのに、今更になって「やっぱり駄目でした」なんて言えるはずがない。

 勝てば官軍、負ければ賊軍。心の中で呟いて、臨也は誰も人のいなくなった教会を見上げた。屋根の上にくっついている焦げた木の板は、もしかしたらかつて十字架の形をしていたのかもしれない。
 ボロボロに疲弊した街の中を、臨也は静雄の話を思い出しながら歩き回るのが習慣のようになっていた。今目の前にある教会は、かつて日曜日になるたびにミサが行われて街中の子供達を集めていたらしい。協会の中にはピアノが置いてあって、シスターの伴奏と一緒に聖歌を歌う。神父様のお話しを聞いて、それが終わるとシスターが帰る子供たちにキャンディーやチョコレートを配る。
 だが、今この中には誰もいない。中に入れば綺麗なステンドグラスがあるらしいが、それも臨也は見たことがなかった。火をつけられて半焼したこの教会は、立ち入り禁止になって久しいらしい。壁が黒く焦げて辺りには草が生え放題になっていて、かつてここに人がいたなんて嘘のようだ。臨也がこの街にやって来た時には、既にそうだった。仕方がない。この国は宗教戦争をやっている。キリスト様を讃える協会なんて、邪魔でしかない。
「奇麗だったろ?」
 嬉しそうに教えてくれた静雄に、臨也は否定の言葉を言うことができなかった。
 子どもの頃に視力を失った静雄はきっと、まだ美しかった頃の街が思い出として残っているのだろう。疲弊した街人の姿も、焼けただれた教会も、歌声の消えた街の静けさも、何もかも知らないまま、美しかった街だけが記憶にある。だから臨也は静雄に聞くのだ。この街の良い所はどこなの、どこか良い場所はないの。色を失ったこの街に、静雄だけが思い出という鮮やかな色を付けてくれる。臨也は静雄の話を聞くのが好きだった。それは臨也にとっての思い出でもあったから。

 静雄のピアノを聞いていると、自分が今戦争のためにこの街に来ていることを忘れそうになる。それは多分、弾いている静雄がこの戦争のことを理解していないからなのだろう。静雄はもう十年近く街を訪れていないのだと言う。それでも、弟と親代わりの人から街の話を聞いているからいいのだ、と言った。
 どんな話を聞いているのだろう、といつも思う。本当のことを知っているなら、きっとこんなに綺麗なままではいられない。自分達の手で自分たちの協会を燃やしてしまうほどこの街が疲弊していることを知ったら、静雄はどんな反応をするのだろう。
「早く終わればいいのにな」
 この戦争が終わったら、街に出てみる気でいるらしい。いつものように臨也がパチパチと静雄の演奏に拍手を送っていると、呟くように静雄は言った。
「いつまで続くんだろうな。良いことなんていっこもねぇのに、なんで戦争なんてすんだと思う?」
「……さあ。しがない新聞記者の俺に言われても」
 軍人なのだと、臨也はどうしても静雄に言えなかった。いつも夜にこの家に来るのも、軍服を着た自分の姿が後ろめたくてやましいからだ。静雄の目が見えていないことに安堵すらしていた。どうか何も知らないままでいてほしい。
「暗い話なんてよそうよ。楽しい話をしよう」
「例えば?」
「シズちゃんのこの街のおすすめスポットとか」
「……またその話か」
 うんざりしたように言いながらも、その顔は満更でもないように笑っている。静雄は本当にこの街が好きなのだ。思い出の中のこの街が。
「そうだな……ラベンダーは見たか? 街の南の端に花畑があって、そこにラベンダーがいっぱい咲いてるんだ」
「へえ。初めて聞いた」
「綺麗だぞ。よく弟と遊んだ。追いかけっこしたり、かくれんぼしたり……」
「シズちゃんって本当に弟クンの話が好きだよねえ」
 愛し愛されているのだろう、といつも思う。照れたようにはにかむ静雄の表情がその証拠だ。
「ねえ、そろそろ何か聞かせて」
 臨也がねだると、静雄はいつも仕方ないなぁという顔でピアノに向かう。幸せそうな顔でピアノを弾く。初めは確かに、静雄のピアノを聞くのが好きだった。だが、今はどうだろう、と思う。もしかしたら、臨也はこの顔を見るためだけにこの家に通っているのかもしれない。
「シズちゃん、その曲好きだよね」
 俺も好きだよ、と心の中で付け足した。君の弾く曲なら、何でも好きだけけれど。





 離れた場所で行われているはずの訓練の掛け声が、執務室の中にまで聞こえてきていた。臨也はペンを持つ手を止めて、後ろの窓から空を見上げる。よく晴れている。雲が一つもない。なのに、どうしてか美しい青色に見えない。溜息を吐いて、また机の上に散らばっている紙切れに目を落とした。あと何枚分サインを書いてやればいいのだろう。どうせ敗けるに決まっているのだから、内容に意味はない。つい先日は国境の街が一時間にわたる空襲にあった。時間の問題だ。つまらない意地を張っているから国そのものが摩耗していく。
 と、机上の電話が鳴って臨也はまたペンを止めた。こんな朝っぱらから今度は何の用だろう。うんざりしながらも、受話器を持ち上げて耳に当てる。
「……ああ、なんだ、波江さんか」
 アッチのお偉いさんの秘書だ。臨也がまだ都市部にいた頃に何度か面識がある。冷たい美貌が印象的な女だった。
「何か用?」
『用もないのに貴方に電話はしないわ』
「そりゃそうだ」
 ヘラヘラ笑うと、受話器の向こうで舌打ちをするような音が聞こえた。
「で、何?」
『貴方、一週間以内にこっちに戻って来なさい』
「は?」
 予想もしていなかった内容だ。しかも、随分と急な話だ。
「何? 俺もう異動なわけ?」
『その街は捨てることになったの』
「うん?」
『諜報員から、近々その街に敵軍が上陸する作戦を立ているらしい、って報告があったの』
「……だから?」
 臨也の声がかたくなったのに気付いているのかいないのか、波江はいつもの淡々とした調子で続けた。
『だから、捨てることになったのよ、その街。無理に守ってもしょうがないでしょう』
 あまりにアッサリ言うものだから、臨也は笑うしかできなかった。

 元々この街はそのものに価値はない。ただ、地理的に陥落すると都合が悪かった。だから、これまでは一応の基地を置いて申し訳程度の防衛線を敷いていたのだ。だが、それは本当に申し訳程度の、おまじないだ。本格的に攻め込まれたら堪らない。ただでさえ物資不足で、援軍無しではひとたまりもない。だが、こんな小さな街を一々守ってやるほどの余力はこの国にはもうないのだ。
 だったら、無理に守ることはない。それで都市部や他の前線の守りが薄くなる方が問題だ。それは作戦としては当然の選択だ。小の犠牲で大を守れるなら、そのほうが正しいに決まっている。
『これは貴方にだけ伝達する極秘情報よ。良かったわね、貴方だけは見捨てられなくて。帰って来なさい、折原臨也』
「嫌だって言ったらどうなるわけ?」
『その街と一緒に死ぬだけ』
 あっちの作戦がこちらにバレていることを知られるとまずい。だから、この街の人間にさえ次の敵の標的がここであることを伝えない。国のために、小さな街一つを犠牲にする。

 臨也は初めて静雄のピアノの音を聞いた日のことを覚えている。まだ数か月と経っていないのに、まるで何十年と昔のことのようだ。肌寒い早朝だった。まだほんの少し外は暗くて、ただでさえ陰気な街が更に陰気に見えた。そんな時だ。街から離れた小高い丘にたった一つ建っている家から、小さなピアノの音が聞こえてきたのは。
 臨也も知っている曲だった。美しい曲だ。フランツ・リストの『愛の夢』。臨也はなんだか泣きたいような気持になってしまった。かつては臨也もピアノを弾いていた。子どもの頃の話だ。今の軍の総指揮をやっている男に、養子として引き取られる前の話だ。懐かしかった。それはかつて、臨也がよく弾いていた曲だったから。



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