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星降らない明日(静雄)/後編

「兄さん、最近機嫌がいいよね」
 ここのところ、幽がやって来る頻度が多くなった気がする。いつものように静雄が可愛い弟のためにお茶を淹れて出してやると、幽はまずはじめにそう言った。
「そうか?」
「うん。何かあった?」  幽に臨也のことは話していない。隠しているわけではなかったが、なんとなく秘密にしたかった。臨也がいつも隠れるように夜中にやって来るからかもしれない。
「別に、なんでもねえよ」
「……ふうん」
「そんなことより、お前の仕事の話を聞かせてくれ」
 この時幽がどんな顔をしていたのか、納得してくれていたのか、静雄には分からないままだ。

 目が見えないのは不便だ。事実としてそう思う。この狭い家の中で暮らす分には困らなくても、たとえば一人で街まで行ったりすることはできないし、包丁を使うような料理もできない。数年前から続いている戦争がこの街まで押し寄せてきたら、恐らくどうすることもできないままに死ぬしかないだろう。
「弟君と一緒に住めばいいのに」
 もう長いことこの家から出ていないという話をすると、いつものように窓の外から臨也は言った。今日は星が綺麗だよ、と嬉しそうに教えてくれたが、その星だって静雄はもう十年は見ていない。いつの日の夜も、静雄にとってはただ暗いだけだ。
「そんなにこの家と街が好きなのかな?」
「生まれた頃からいたからな」
「でも、街にはずっと行ってないんだろ?」
「いいんだ。弟と、親代わりの人から話を聞いてるからな」
 色んな話をしてくれる。戦争の暗い話題もあるが、幽とトムの話を聞くのが音楽に次ぐ静雄の楽しみだった。新しいレストランができた。あの公園に新しい遊具ができた。いつか戦争が終わって、静雄も街に行けるようになればいいと思う。この目で見ることはできないが、静雄は戦争が始まってから自分の生まれた街へ行っていない。
「その2人からいつも話を聞いてるんだね」
「今はお前もいるけどな」
「はは、うん、そうだね。 ……でも」
 臨也は少し迷うように言葉を濁して、それから言いなおした。
「……多分、優しい人なんだろうね」
「そうだな?」
 ああ、やっぱりこういう時、目が見えないのはとても不便だ。臨也の顔を見たいと思う。どんな顔をしているのだろう。どんな顔で笑うのだろう。想像するしかできない自分がもどかしい。





 最近、遠くの方から微かに銃声のような音がするようになった。とうとうこの街も線上になったのだろうか。不安はいつも消えないのに、幽とトムは「もうそろそろこの戦争も終わる」としか言わない。
 祈ることしかできないのだ。昔シスターが言っていた。いつだって隣人を愛しなさい。そうすれば戦う理由なんてないことにすぐに気が付く。だから静雄も祈っている。誰もが自分の愛に気が付きますように。誰もが傷付かずにすむ世界でありますように。

 街外れのこんな不便な場所に家を建てたのは、昼となく夜となく、好きな時にいつまででもピアノを弾くことができるようにするためだ、といつだったか母親に教えて貰ったことがある。音楽を愛している人だった。そんな母親を、父親もまた愛していたのだ。記憶の中の両親はいつも笑っていて幸せそうだった。
 ああ、そうだ、だから静雄はピアノを弾き続けているのだろう。子供の頃の記憶はキラキラと輝くものだから。今でも夢を見ているような気分になれる。幸せな夢だ。街を賑やかしたあの酒場の音楽と、家の中を明るくした母親のピアノと、目の見えない静雄にはもうそれしか残っていない。
「お前、その曲好きだなあ」
 演奏が終わって両手を膝の上に置くと、後ろで聞いていたトムが言った。父親と付き合いがあったらしく、今では静雄と幽の親であり兄でもあるような存在だ。月に一度くらいの頻度で、ピアノの調律ついでに様子を見に来てくれる。
「調律ありがとうございます、トムさん。いつもすんません」
「いいんだよ、止めてくれ」
 言うと、トムは大きく息を吐いた。
「しっかし勿体ねえよなあ。ちゃんとした人に教えて貰って勉強すりゃあ、お前ならもっと上手くなって……」
「止めてくださいよ、トムさん」
 むず痒くなってしまって、静雄はトムの言葉を制止してしまった。
「好きで弾いてるだけッス。それで俺はいいです」
 はあ、とまた息を吐くのが聞こえる。呆れさせてしまったかもしれないが、それが静雄の本音だ。
「そんなことより、最近の街の様子はどうなんスか?」
「……いやあ、あんまり変わんねえべ。辛気臭くっていけねえ」
「戦争、まだ終わんないんスね」
 目が見えない静雄は新聞すら読むことができない。幽やトムからこうやって話を聞く以外で、街の様子を知る手段はなかった。
「早く終わればいいのに」
 今はまだ若い男から順に声がかかっているようだが、その内トムにまでその範囲が広がらないとも限らない。同盟国の都市部は空襲にあったという話まで聞く。一体いつまで続くのだろう。静雄には理解できなかった。

 静雄がなかなか街に繰り出す踏ん切りがつかないのは、この戦争のせいもあるのだ。働き盛りの成人男性であるにもかかわらず、盲目の静雄は満足に労働をすることもできない。当然兵士として戦うこともできない。女すら工場で働き戦争に湧くこの国では、男でありながら働けない静雄への風当たりは決して優しくない。
 国の穀潰し、と石を投げられたこともあったのだ。それを見ているから、恐らく幽も中々この家を出ようとしない静雄に強く出られないのだろう。それでも静雄はこの街を愛していた。あちこちから聞こえてくる酔った歌声も、協会から出てくる子供たちの笑う顔も、春に芽吹いて冬に枯れる色とりどりの花も、全て思い出として綺麗にしまっていた。
 この街と一緒になら死んでもいい、と思う。だからこの街を離れられない。いや、本当を言うと、街を離れたくない理由はもう一つあった。弟にすら告白できない理由だ。
「シズちゃん、シズちゃん」
 窓枠をコンコンと叩く音がして、静雄はピアノを弾く手を止めた。変だな、と首を傾げて手を下す。すると、また同じ音がした。
「シズちゃん、俺だよ」
「臨也?」
 違和感を感じた理由が分かった。多分、今日は左手で窓枠を叩いているのだ。だから、いつもと音が違って違和感を感じたのだろう。それだけじゃなく、いつもの臨也なら静雄が演奏している間は声を掛けない。一曲弾き終るのを待ってから、それでようやく声を掛けるのだ。
「なんだ、もう来たのか」
 いつもより来るのが早い気がする。まだ夕方のはずだ。
「なんか良い匂いがするね。何か作ってる?」
「ケーキを焼いてた」
「ケーキ? へえ、そんなのも作れるんだ」
「さっきまで弟がいてな。一緒に作った」
「相変わらず仲が良いねえ」
「今日の分はもうなくなっちまったけど、明日も作る予定だからお前にも分けてやる」
「え、いいの? ほんと?」
「なんで嘘吐くんだよ」
 いつものように、静雄はピアノの椅子に座った。心なしか、いつもより臨也の声は機嫌が良さそうだ。何か良いことがあったのかもしれない。
「シズちゃん、そろそろ戦争が終わるよ」
 静雄から尋ねる前に、臨也は言った。
「すぐ、明日にでもとは言わないけど……きっともう終わるよ」
「……本当か?」
「なんで嘘吐くんだよ」
 臨也は笑った。それはそうだ。臨也が静雄にこんな嘘を吐く理由がない。
「嬉しくってさ、今日は、いつもより急いで来ちゃったよ」
 そういえば、臨也は記者をやっているんだった。だから、そういう情報に詳しいのかもしれない。幽とトムは嘘を言っていたわけではないということだ。静雄は疑っていたことが少し恥ずかしくなった。
「ねえ、今日は、何弾いてくれるの?」
「……おい、それよりその戦争の話を」
「今はいいじゃん」
 少しだけ必死な声だったような気がして、静雄は口を閉じた。確かに、その話は後から幽でもトムでもいくらでも聞くことができる。今はせっかく臨也がすぐそこにいるのだ。野暮な話なんてわざわざしなくていい。
 静雄は少し考えて、指で鍵盤の上を撫でた。
「じゃあ、ドビュッシーの……『2つのアラベスク』」
 トムがいつも完璧に調律をやってくれるから、いつだって綺麗な音が出る。幽が他の世話をやってくれるから、思う存分ピアノを弾くことができる。そして、今は臨也がこうして静雄のピアノを聞いてくれている。
 いつも誰かに支えられているのだ、といつも思う。きっと誰も彼もがそうして生きているのに、どうして戦争なんてしようと思うのか、静雄には少しも分からない。

「……臨也?」
 ピアノから手を下して、静雄は臨也の名前を呼んだ。演奏が終わったのに、いつものように拍手が聞こえてこない。いつもならすぐに聞こえてくるのに。
「そこにいるのか? 臨也?」
 不安に思って名前を呼ぶと、窓の方から人の動く気配がした。
「ああ、ごめん、ごめん。いる。ちゃんといるよ、シズちゃん」
「なんだ。驚かせるなよ」
「ごめん。ねえ、シズちゃん、あのさ」
「どうした?」
「今日、俺さ、ここに来る前、君が教えてくれた花畑に行ってきたんだよ」
 いつものように臨也が街の名所を聞いてくるものだから、静雄が3日ほど前に教えた場所だ。紫のラベンダーが一面に咲いていて、子どもの頃はよく幽と走り回って遊んでいた。
「綺麗だったろ?」
「うん」
「春が終わると咲き始めてな。辺り一面が紫になるんだよ、絨毯みたいに。風が吹くたびに良い香りがして。今はちょうど季節だったんじゃないか?」
「うん、綺麗だった」
「子どもの頃な、よく摘んで持って帰ったんだよ。そしたら母親が喜んで、よく乾かしてお茶にしてたな。良い匂いになるんだ、本当に」
「うん、そうなんだ」
「……お前、さっきから『うん』しか言ってねえぞ」
「うん、シズちゃん、何か弾いてよ」
 今日はまた一段と言っていることがメチャクチャだ。静雄は一つ息を吐いて、それからいつもの質問をした。
「何を?」
「……君の、一番好きな曲がいいな」
 口説かれているわけじゃない、と分かっているのに、臨也はそう言うことを平気で言うからドキリとしてしまう。目が見えたらいいのにと、もう何度思ったか分からない。せめて臨也の顔が見えていたら、もう少しは何を考えているか分かったかもしれない。





 ――フランツ・リストの『愛の夢』。
 静雄の一番好きな曲だ。この曲が終わったら、臨也の一番好きな曲を聞いてみようと思う。好きな食べ物でも、好きな色でも、なんでもいい。臨也のことをもっと知りたい。
 この戦争が終わるなら、また昔のように街を歩くことができるようになるかもしれない。いつもこの家の中でしていた静雄の思い出の話を、本当に街を歩きながらすることができるようになるかもしれない。そうして好きな人のことを思いながらピアノに向かっている時こそが、静雄にとって夢のような愛しい時なのだ。

 もうそろそろ日が落ちただろうか。たとえ目が見えなくとも、静雄の目の前にはいつも美しい星空が広がっている。













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星降らない明日



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