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星降らない明日(静雄)/前編
※シズちゃんが盲目のピアニストのパロ





 ピアノを弾き始めたことにもし理由をつけるとするのなら、それは「子供の頃の思い出はキラキラと輝くものだから」だろう。
 この国がまだ戦争をしていなかった昔、静雄の家のそばにある酒場はいつも人で賑わっていた。親につれられて、静雄も顔を出してみたこともあった。店の端には黒いピアノが置いてあって、酒場の主人の息子がいつも座って弾いている。それに合わせるように明るく笑う大人たちも、なんだか楽しそうに歌を歌う。呑気で陽気なその様子は、まだ子供だった静雄にとって憧れそのものだった。





 昼には明るかった視界が、ゆるやかに暗くなって、真っ暗になる。静雄は鍵盤の上に置いていた手を膝の上に乗せると、人の胸の高さ程度の位置にある窓に顔を向けた。いつも開けている飾り窓だ。
「……もう来たのか、臨也」
「あれ? なんでバレたの?」
「足音で分かる」
 なるほど今度から気を付けよう、と窓の方向からのんびりとした青年の声が聞こえてくる。高いわけでもないのに爽やかさを感じさせる声で、落ち着き払っているわりにまだどこか若さも感じられる。それから少し遅れて、パチパチと手を叩く音が聞こえてきた。
「さっきの、フレデリック・ショパンの『英雄ポロネーズ』だね」
 君が弾くのは初めて聞いたよ、と拍手を止めてから言う。静雄は少し首を傾げた。
「そうだったか?」
「うん。ねえ、次は何を弾いてくれるの?」
「……そうだな。『花の歌』はどうだ」
「ランゲ?」
 頷くと、臨也は言った。
「いいね」
 静雄はまた改めて鍵盤の上に指を置く。少し離れた窓枠に、人の寄り掛かるような気配がした。見えているわけではないが、恐らく臨也が窓のサッシに腕を乗せたのだろう。

 ほんの数週間前から静雄の家に顔を出すようになったこの青年は、最近になってこの街に引っ越してきたらしい。何もこんな時に、とその話を来た時は思ったものだ。静雄の国は数年前から他国との戦争を始め、一年前にはとうとうその敵軍が本土まで攻め入るようになっている。どこそこの街が制圧されただの、どこそこの防衛線が突破されただの、弟から訊くこの国のニュースは暗いものばかりだ。
 街から遠く離れた小高い丘で、静雄は小さな家と小さなピアノと一緒に暮らしていた。数日に一度、ふらりとやって来る弟が持ち込んでくる作曲や演奏の仕事でなんとかお金を得る、慎ましい暮らしだ。兄として申し訳ないとも思う。せめて作曲家や演奏家として売れれば、弟に余計な心配をかけることもなかっただろう。だが、静雄には自分と同じ年代の男たちにできる仕事ができない。静雄は目が見えなかった。十年前にかかった病気で、その後遺症として盲目が残った。
「――いやあ、相変わらずお見事だねえ」
 ランゲの『花の歌』は、伸びやかで可愛らしい旋律の裏で力強い低音が曲に花を添えている。可憐な花が地面にしっかりと根を張っているのだ。演奏者によっても様々に表情を変えるから、静雄はこの曲が嫌いじゃない。
 演奏を終えると、いつものようにパチパチと間延びした拍手が聞こえてきた。続いて軽い声も聞こえてくる。
「独学なんだろ? ちゃんと勉強すればいいのに」
「いいんだ。俺は別にプロになりたいわけじゃねえし」
 勉強するにも金がかかる。ただでさえ弟の世話になっているのに、これ以上の迷惑なんてかけられるはずがない。静雄が言うと、臨也は「ふうん」とつまらなさそうに相槌を打った。
「あ、そういえばさ。君がこの前教えてくれた協会、行ってきたよ」
「協会?」
「ステンドグラスが綺麗だっていう」
「……ああ、あそこか」
 他に詳しい人間なんていくらでもいるだろうに、どうしてか臨也は静雄に街の名所を聞きたがった。それは子どもたちの遊ぶ公園だったり、過去の名匠の作品が残る美術館だったり、この街で一番大きな時計塔だったりした。まだ残っているかは分からないが、あの酒場を教えてやったこともある。すると臨也は次にやって来る時までにそこに行っていて、その感想をいちいち静雄に報告してくるのだ。
 風変わりな男だった。聞けば新聞記者をやっているらしい。
「中に入ってど真ん中に、マリア様のおっきなガラスがあるって言ってたよね」
「そうだな。奇麗だったろ?」
「いやあ、俺はキリシタンじゃないからなあ」
「そういうことじゃねえだろ」
 臨也とはいつも窓越しに会話をする。中に入ってもいいと言っているのに、俺もそこまで暇じゃないからといつもよく分からない言い分で断った。暇じゃないならこんな街外れになんてわざわざ来ないだろうに。
「あの協会、子ども好きなシスターがいてな。毎週ミサの後にキャンディーとかチョコレートを配ってくれてたんだ」
「シズちゃんも行ってたの?」
「……いや、俺はほとんど行かなかった」
 当時のことを思い出す。まだ静雄の目がちゃんと見えていた頃の話だ。
「じっと黙って長い話を聞くってのが、どうにも苦手でな」
「……なるほど」
 静雄が照れ笑いをすると、離れた位置で臨也も少し笑う気配がした。
「でも、もういなかっただろうな?」
 静雄がまだ子供だった時から、既に随分と年老いていた。たった一度だけ長い話を我慢して聞いて、協会を出る時に皺だらけの乾いた手でチョコレートを握らせてくれたのをまだ覚えている。瞼が垂れて、顔中皺だらけで、ただ笑った顔が優しかった。小さな老婆だった。
 静雄の問いに、臨也は答えない。きっと困った顔をしているのだろう。それで静雄には充分だった。
「……また、来るよ」
 窓から人の離れる気配がする。足音が遠ざかって、小さな家にはまた静雄が一人だけになった。





 静雄は目がほとんど見えていない。光の明暗で昼と夜くらいなら見分けられるが、本当にそれだけだ。誰がどこにいるだとか、あの花は何色をしているだとか、そんな情報は全く目には入ってこない。
 それでもなんとか生活ができているのは、ひとえに弟の幽のおかげだろう。兄弟であることを疑うほど、よくできた弟だった。十代の頃にスカウトされて劇団に入り、瞬く間に有名になってスター俳優にのし上がった。今は国の都市部に住んでいて、それでも忙しいだろうに定期的に静雄に会いにこの街まで来てくれる。一緒に住もうと話を持ちかけられることもあった。自分にとっても幽にとってもその方が良いとは分かっている。それでも、静雄はその誘いに頷くことができなかった。自分の生まれ育ったこの街とこの家を捨てる覚悟が、大人になった今もどうしてもできないのだ。
「兄さん、また窓が開けっ放しになってるよ」
 いつものようにたくさんの土産を持ってやって来てくれた弟に、紅茶を淹れて出してやる。目は見えなくとも、長年暮らしてきたこの家で不自由はない。簡単な料理も作れるし、壁やテーブルにぶつからずに歩き回ることもできる。
 静雄が紅茶の入ったティーカップをテーブルに置いてやると、幽は静雄の手の甲をチョンチョンと指先で小突いて言った。当たり前だが、まだ小さかった頃から随分と低く落ち着いた声になった。背も高くなったし、きっと顔つきも変わったのだろう。その成長ぶりをこの目で見られないことが本当に残念だ。
「俺が閉めとこうか?」
「いいんだ、わざと開けてんだから」
「風邪をひくよ」
「大丈夫だ。一日中開けてるわけじゃねえんだから」
 椅子を引いて、静雄もテーブルに座る。幽は黙ってしまったが、ちょっと拗ねたような顔をしているのが手に取るように分かる。
「心配してくれてんだよな。ありがとな」
 静雄の中の弟は、まだ目が見えていた小さな子供の時のままで止まっている。今はどんな顔で拗ねているのを表現するようになったのだろう。目が見えなくなったことを嘆くのを止めた今でも、それだけが残念で仕方ない。

 静雄と幽に両親はいない。父親は数年前に戦争に駆り出されてそこで死んだ。母親はその少し前、街の風土病にかかって死んでしまった。本当なら静雄も幽も徴兵されていい年齢だが、静雄は盲目を理由に免除されていた。幽が何も言われないのは、もっぱら「政府の贔屓だ」という噂がある。この国の上層部は観劇を趣味にしている人が多いのだ。
 なんだっていい。贔屓だろうと何だろうと、それでたった一人の弟が戦争に行かずに済むならそれに越したことはない。静雄はもう、戦争なんかのために家族を亡くすのは御免だった。
「兄さん、体調には気を付けてよ」
「ああ」
「ご飯もちゃんと食べないとダメだ。またちょっと痩せたんじゃない?」
「大丈夫だ」
「困ったことがあったらいつでも連絡して」
「手紙も書けねぇのに?」
「トムさんに書いてもらったらいい」
 ああ、そうだな、そういう方法もあったな、と静雄が笑い飛ばすと、幽はまたむっとしたように静雄の服の袖を引っ張った。心配性の弟は、帰り際にいつも同じお説教をする。あんまり同じ言葉を繰り返すものだから、静雄も何を言われるか予め分かるようになってきてしまった。これじゃあどっちが兄でどっちが弟なのか分からない。ただ、静雄は弟のこの心配性が嫌いじゃなかった。

「――仲良しだねえ」
 弟の話をすると、いつものように臨也は窓の向こうから楽しそうに言った。臨也はいつも夜中にやって来る。決まって家に静雄一人しかいない時だ。
「兄弟仲が良いってのは素晴らしいことだよ」
「お前は兄弟とかいんの?」
「反抗期の妹が2人。でも、正直な話、あまり仲が良いとは言えないかな」
 そう言った臨也の声が寂しそうに聞こえてきて、静雄はそれ以上を追求するのは止めておいた。
「じゃ、買い物とかはその弟クンが代わりにやってくれてるの?」
「だいたいは」
「ふうん。ずっとこんな家に引き篭もってるのって退屈じゃない?」
「いや、全然」
 静雄は時間さえあれば一日中だってピアノを弾いていられる。たまに旧い付き合いのあるピアノ調律師のトムと街に出ることはあるが、その時だって考えるのはいつも音楽のことだ。
 あそこから聞こえてくる音楽は誰が作ったのだろう。今はどんな曲が流行しているのだろう。目の見えない静雄にとって、耳だけで感覚を揺さぶってくれる音楽は生きがいそのものだ。
「楽譜、見えないのに弾けるもんなんだね」
 静雄は一度聴いた曲を忘れない。人の話し声だって音楽のように聞こえてくるくらいだ。音大の講師をやっていた母親のおかげで小さい頃からピアノは触っていたから、鍵盤の位置は覚えている。静雄にとって、耳に入れた音楽を再現するのは難しいことじゃなかった。
「ねえ、何か弾いてよ」
 一通りのお喋りを済ませてしまうと、臨也はいつもそう言ってねだる。
 静雄は臨也の声が嫌いじゃなかった。恥ずかしいから言ったことはないが、普段から歌うような話方をするから聞いていて心地がいい。
「何を?」
「君が弾くなら、なんでも」
 口説かれてるみたいだ、と思って、静雄は思わず笑ってしまった。
 馬鹿馬鹿しい。臨也にそんなつもりがあるわけない。
「じゃあ、俺が一番好きな曲を弾こう」
「何?」
「とりあえず聞いてろ」
 静雄が言うと、臨也は口を閉じる。息を吐いて、鍵盤の上に指を乗せる。
 この瞬間が一番好きだ。自分の音楽を聞いてくれる人がいる。誰かのためにピアノを弾く。それがたった一人でも、静雄にとっては得難い時間だった。

 一曲が終わるたびに、パチパチと臨也は拍手をする。恥ずかしいから止めてほしいと言ったのに止めないものだから、最近では静雄も何も言わない。だから臨也も手を叩くのを止めない。
「いいね、いいね。シズちゃんのピアノ、すごく好きだよ」
 どんな顔をしているのだろう、とはいつも考えている。静雄は臨也について、同じくらいの年齢の男だということ以外で外見の情報を持っていない。髪の色も目の色も何も知らない。聞いても教えてくれないから、声だけで想像するしかなかった。
「シズちゃんほどイケメンではないよ」
「からかうな」
「えー? 本当なのにー」
 そう言ってコロコロ笑う顔を見られないのは残念だと思う。ほとんどを家の中で一人で過ごす静雄にとって、外の街からやってきた臨也と話す時間は貴重だ。本当ならもっとゆっくり話したいくらいなのに、やっぱり臨也は頑なに家の中までは入って来ようとはしない。
「昨日はさ、君のオススメしてたパン屋に行ってきたよ」
「青い看板の?」
「うん。もう古くなって錆びちゃってたけど」
 気のいい夫婦が2人でやっていたパン屋だ。ちょうど学校に行くまでの道のりにあって、しょっちゅう帰りがけに買って帰っていた。目の前を通ると良い匂いがして腹が減ったものだ。
「ちっちゃいバスケット売ってただろ?」
「うん」
「アレを弟と2人で小遣い出し合ってよく買ってた。食べながら家に帰って」
 たまに家にあったジャムを勝手にぬって、バレては母親に怒られたという話をすると、臨也はまた楽しそうに笑った。
「意外と悪戯っ子だったんだねえ」
「バレないよう上手くやったつもりだったんだけどな」
「はは。そういうのは案外バレバレなもんだよ」
 言ってから、臨也はなぜか急に笑いを引っ込めた。
「なんだ?」
「……いや、用事あったの忘れてた。今日はもう帰るね」
 また来ると言って、臨也は慌てたようにいなくなってしまった。





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