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さよならモラトリアム/後編

「……今日は星がよく見えるんだな」

日が暮れると、夜になる。空の色が青から黒に変わる。カーテンを少し開けて窓の外の様子を見ると、静雄は独り言のように呟いた。臨也も本を読む手を止めて、顔を上げる。

「なに? 星?」
「ああ。お前もこっち来い」

座っていたソファから腰を上げて、素直に従う。静雄の隣に立って窓の外を見てみると、確かにいつもよりはたくさんの星が光っているようだった。月がないからかな、と臨也が言ってみると、ああそうかもな、と静雄も言う。

「あれだな。今の時期だと……なんつったかな」
「何が?」
「有名な星座があるだろ。ほら、夏の……お前星座は分かるか?」
「分かるよ」

言いながら、静雄は右手を挙げて人差し指をフラフラと彷徨わせた。どうやら星座を探しているらしい。臨也は静雄の指先を黙って見ていたが、なかなかフラフラさせるのを止めないので口を挟んだ。

「アレのこと?」

臨也がある星を指差す。静雄は手を止めて、臨也を見た。

「あそこにあるのがベガ。それから、アルタイルと、デネブ。夏の大三角形」

臨也が言うと、静雄は目を丸くした。

「……よく知ってるな」
「君がくれた図鑑に書いてあった」
「もう覚えたのか」
「全部じゃないけど、大体は」

文字が、読めるようになってきたのだ。まだ漢字は難しいが、静雄のくれた図鑑には全て読み方が書いてある。臨也はもうひらがなとカタカナなら全て読み書きできるようになっていた。だから本が読めるようになったのだ。静雄のおかげで。

「他には? 知ってる星はあるか」
「……あれ」
「なんだ?」
「アンタレス。それから……」

臨也がひとつひとつ指を差して星の名前を言うと、それを静雄はうんうんと頷きながら聞いている。いつも教えられるばかりの臨也が静雄に何かを教えるのが嬉しくて、だからついつい饒舌になる。
静雄はそんな臨也を見て、すっと目を細めた。

「……賢いな、お前は」

喜んでくれると思って言っていたのに思いがけず寂しそうな顔をされて、今度は臨也が驚いた。夜空を差す手を止めて静雄の顔を見ると、やっぱりどこか寂しそうな顔で臨也のことを見ている。

「俺がいなくても、きっともう、大丈夫なんだろうな」
「……どういう意味?」

答えるかわりに、静雄は臨也の頭の上に手の平を載せて、取り繕うように笑った。

「もう寝るぞ」

ねえ、それってどういう意味。





この家に拾われたばかりの頃、静雄は臨也に「いつか旅に出よう」と言った。臨也が空を眩しく感じることもなくなって、体の痣も消えたなら、その時は一緒に旅に出よう。誰も自分たちを知らないところに、誰も自分たちの邪魔をしないところに。
いいよ、と臨也はすぐに答えた。静雄と一緒なら、そこが海の底だっていいと思った。生きているのに死んでるような毎日だったから、そこから掬い上げてくれた静雄は臨也にとって生きる意味だ。なのに静雄はそれじゃだめだといつも言う。そんなんじゃ意味がない。だから待ってる。いつまでだって待っている。そしてもしその時がきたら、きっとここを出ていこう。

あんなに途方もなく思えた話が、今はどうしようもなく愛しい。それでもいい、だなんて、中途半端な気持ちじゃない。そうしたい。静雄一人だけ沈んでいくなんて許さない。

「シズちゃん」

隣で眠る静雄に声を掛ける。同じベッドで寝ているのに、いつものように静雄は何も求めようとしない。それが臨也には不思議だった。どうして何かを求めないんだろう。それなのに、どうして臨也を拾ってくれたりしたんだろう。

「シズちゃん、ねえ」
「……なんだよ」

臨也に背を向けていた静雄が、眠そうな顔をこちらに向ける。半分瞼がおりた目が、じっと臨也を見つめ返した。

「ねえ、キスしていい?」
「……だめだ」
「どうして」
「やめろって、まえにいったはずだ」

それがお礼になる、と思っていた。臨也にはこの体しかなかったから、他に何をすればいいのか分からなかったし、知らなかった。見返りも求めずに自分を助けてくれる人がいるなんて思いもしなかったのだ。
この家に来てはじめて静雄にキスしようとした時、静雄は臨也の頬を叩いて睨み付けた。そんなことをするためにおまえをこの家に入れたんじゃないと、怖い顔でそう言った。セックスどころがキスさえしない。何も求めてこない。それが不安でたまらなかった。何のために自分がここにいるのか分からなくて、いつ捨てられるのかも分からなくて、不安で不安で仕方なかった。

だけど分かった。そんなことしなくていい。そばにいてくれるだけでいい。臨也にはようやく分かった。静雄の言っていることの意味が、自分の今の気持ちと同じだと気が付いたから。

「俺がしたいんだ」
「……ひつようない」
「必要とか、必要じゃないとか、そんなんじゃない」
「ねぼけてるんだ、おまえは」
「ねえ」

何と言えば伝わるのか分からない。お礼がしたいとか、恩を返したいとか、そんなことのために言ってるんじゃない。そんなことではなくて、もっと単純に、臨也は静雄に惹かれていた。どう言えば伝わるだろう。焦れる臨也に、静雄はゆっくり瞬きして見せた。

「もうねろ、いざや」
「ねえ、シズちゃん。キスしたい」
「だめだ」
「なんで? 俺の身体が……俺が、汚いから?」
「……奇麗だ、おまえは」

それだけやけにハッキリと言って、静雄は腕を伸ばすといつものように臨也を引き寄せて抱き締めた。

「おれなんかより、ずっと奇麗だよ」

大人しくしていると、すぐに規則正しい呼吸音が聞こえてくる。もう寝てしまった。まだ臨也の話は終わっていないのに。

いつかいなくなってしまうんじゃないだろうか。最近の静雄を見ていると、そんな心配を抱えてしまう。傷だらけになって帰って来ることもある。臨也のことを好きだと言いながら、時たまこうやって突き放すようなことをする。いなくなってしまうんじゃないだろうか。誰も知らないところに、臨也も知らないようなところに、静雄は一人で沈んで行ってしまうつもりなんじゃないだろうか。こんな風に不安になる臨也のことを、きっと静雄は分かってない。
本当はキスがしたいんじゃない。ただこの不安を分かって欲しい。どんな風に言葉にすればいいのか分からない。それでも分かって欲しかった。どこかに行きたと静雄が思っているなら、それを邪魔なんてしない。それがどこだっていい。静雄が望むならそうすればいい。だけど一人にされたくない。今さらそんなの許さない。

「シズちゃん、ねえ」

一緒に行こう、と君が言った。いつの日かそれが俺にとっての希望だった。今さらなかったことになんてしたくない。君が俺に望んでいた本当のことが、ようやく分かった気がするんだ。中途半端はもう止めた。
だからシズちゃん、俺もきっと一緒につれて行ってよ。














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さよならモラトリアム




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