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さよならモラトリアム/前編

ドアが開いた音がした気がして、臨也は慌てて部屋を飛び出して玄関に急いだ。朝見たそのままの姿の静雄が立っていて、安堵に一度足を止める。

「シズちゃん」
「おう……なんだその顔」

臨也がこの家に来てから一年以上が経った。静雄がたまに出掛けるのもその理由を言わないのも慣れてしまったが、一ヶ月ほど前初めて大怪我をして返ってきた。脇腹と右の太ももから血を流していた。顔も少しだけ腫れていて、帰ってきたと思うと何も言わずに玄関先で倒れ込んでしまったのだ。声を掛けてもこたえない、浅い呼吸はひたすら苦しそうで、死んでしまうかと思った。あの時の息苦しさは多分二度と忘れない。
結局、その後すぐに医者だと名乗る人が現れて、静雄に色々と治療めいたことをして去って行った。その医者は今も定期的に家に来る。静雄も怪我なんてなかったように生活を送っているが、その服の下にはまだ包帯がぐるぐると巻かれていることを臨也は知っていた。

「なんでもない。 ……おかえり」

静雄は不思議そうな顔をして、それからほんの少し嬉しそうに「ただいま」と笑った。









またそれを見てたのか、と部屋に入ってすぐ静雄は言った。テーブルの上には開きっぱなしの図鑑が置いてある。この前静雄が臨也の為にと買ってきたものだ。もう何度も目を通したものだが、何度見ても飽きなかった。世界にはこんなにたくさんの生物がいるのかと思うとワクワクしたし、実際にこの目で見たらどんなふうに動くのだろうと想像するのも楽しかったからだ。

「お前、好きだな。今度新しいの買って来てやる」
「いいよこれで」
「もっと詳しくて写真が載ってるやつ」
「…………」

黙り込むと、静雄は何故だか嬉しそうに笑って臨也の頭をクシャクシャと撫でた。土産だ、と言いながら小さな薄い箱のようなものをテーブルの上にに三つ置く。

「何それ?」
「チョコレートだ。どれがいいか分かんなくて買い過ぎちまった。 ……まあ、どれも似たようなもんなんだろうが」
「開けていい?」
「好きにしろ」

言いながら静雄はキッチンの方に行ってしまった。臨也はいそいそと一番手前の箱を開ける。中には一粒大の大きさのチョコレートが正方形の形に規則正しく並んでいた。甘い香りが鼻を掠めて、臨也は思わず頬を緩ませる。甘いものは嫌いじゃない。なんだか幸せな気持ちになれるのだ。次いで、二つ目の箱も開けてみた。同じ一粒大の大きさのチョコレートが入っているのは同じだが、臨也はおやと首を傾げた。茶色いはずのチョコレートが白い。初めて見るものだ。こんなものもあるのかと思わず感心する。そういえば匂いも少しだけ違う。という事は、味も違うのだろうか。三つ目はどんなチョコレートなのだろうかと箱を開けたところで、静雄がまた戻って来た。

「ゲッ、お前全部開けやがったな」
「……駄目だった?」
「駄目じゃねえけど」

三つ目の箱に入っていたのは、普通と変わらない茶色のチョコレートだった。ただ、周りに茶色の粉のようなものが掛かっていて、形も丸いながらに少し歪だ。珍しさに眺めていると、テーブルにコーヒーの入ったカップを置きながら静雄は説明した。

「これが普通のミルクチョコ、その白いのはホワイトチョコ。んで、それがトリュフチョコだな」
「……普通のとは違うの?」
「食ってみろ」

言われた通りに、臨也はまずホワイトチョコと呼ばれたものを口に入れた。確かに、チョコであるというのは分かるのだが、普段食べ慣れているものとは少し違う。なんだろう、柔らかい味になった? 薄いというのもまた違う。なんと言っていいのかは分からない。

「どうだ」
「……普通の方が好き」
「そうか」

食べ慣れていないからそう思うだけかもしれない。だが静雄は柔らかく目を細めると、じゃあそっちはどうだ、とトリュフチョコと呼ばれたものを勧めた。

「……あ、美味しい」
「気に入ったか」
「シズちゃん、これ美味しいよ」
「良かったな」

さっきの何倍も嬉しそうに笑うと、静雄はまだ湯気の立つカップを臨也に差し出した。ありがとう、と受け取って口をつけると苦い。いつもなら何も言わなくとも静雄が砂糖をたっぷり入れているのに珍しい。色からしてミルクは入れてあるようだが、正直あまり苦いものが得意ではない臨也には飲みにくかった。思わず顔を顰めてしまうと、それを見た静雄がおかしそうに笑う。

「苦いか?」
「……ちょっと」
「飲めないか」

言葉に詰まる臨也を見て、静雄はさらに笑みを深くした。もしかして意地悪されているのだろうか。こうなったら意地でも飲んでやろうかともう一度カップを持ち上げると、待て待て、と静雄から制止がかかった。

「悪かった、拗ねるなって」
「別に、拗ねてるとかじゃないけど……」
「これはな」

言いながら静雄はトリュフチョコを一つ摘まむと、臨也のカップの中にポチャリと落した。小さなスプーンのようなものでぐるぐるとかき混ぜて、少し考えるような素振りを見せてからもう一つ入れた。

「何してるの?」
「こうすると良いって、店員から聞いたんだよ。一個でいいって言われたけど、お前は苦いのがまだ苦手みてーだから」

暫くカチャカチャとかき混ぜていたが、中のチョコレートが溶け切ってしまったところで手を止めた。今度はどうだ、と聞かれるままに再度口をつけてみると、さっきとは打って変わって口中に甘みが広がる。単に砂糖を入れた時よりも、ずっと柔らかな甘みだ。美味しい。

「どうだ?」
「美味しいよ」
「……そうか」

何故だかは分からないけども、静雄はさっきから嬉しそうだ。静雄の機嫌が良いと、臨也もなんだか気分が良い。





白よりは黒。犬よりは猫。苦いよりは甘いほう。雨よりは晴れの方がいいし、一人でいるより近くに静雄がいる方がいい。静雄と一緒に暮らし始めて、季節がひとつ巡った。色んなことを教えて貰って、たくさんのことを知ったと思う。もっと知りたいし、教えてほしいと思う。静雄のそばにいるのが好きだった。とても優しくて、あたたかな気持ちになるから。
この家に来たばかりの時は傷だらけだった体も、もうほとんど綺麗になっている。きっと一生消えることはないだろうと思っていたのに、もうどこにどんな痣があったか思い出せないくらいだ。嬉しかった。かつてあの家に飼われていた過去さえ消えてしまったような、そんな気がしたから。あんなに汚い体のままじゃあ、いつか静雄にも嫌われてしまう。そんなこと言われたことはないのに、臨也は勝手にそれに怯えていた。嫌われたくなかった。静雄にだけは、嫌いになって欲しくなかった。

「カーテン開けるぞ」

夕方ごろになって、静雄はずっと閉めていた部屋のカーテンを開けた。透明なガラスの窓から穏やかな夕日の色が透けて、床に落ちる。オレンジだね、と臨也が言うと、不思議そうな顔で静雄はそうだなと言った。それから窓の外に出て、外に干していた布団のシーツを取り込み始める。

「……ライオンみたいだよ、シズちゃん」

白いシーツのかげに一瞬だけ隠れて、その中からまた静雄が現れるのをみて臨也は目を細めた。オレンジの光が、静雄の明るい金髪の中でキラキラ光っている。そういえば最近髪が伸びた。臨也とは違ってふわふわとしたクセ毛の静雄の髪は、夕日を吸い込むとライオンの鬣のようだ。

「あ? ライオン?」
「うん」

頷くと、静雄は両手にシーツをくるくると巻きつけながらキョトンと目を丸くした。それから、困ったような嬉しそうな器用な顔でちょっと笑う。

「臨也、こっち来てみろ」
「何?」

這うように窓枠の方まで寄って行く。顔を上げて静雄を見上げると、臨也を見てニヤリと笑った。

「馬鹿なこと言ってっと、本当に食っちまうぞ」
「へ? うわっ!」

両手に巻きつけたシーツを広げると、静雄は四つん這いになっている臨也にふわりとそれをかけた。視界が一瞬で真っ白になる。

「何!?」

慌ててシーツから抜けて顔を出す。まだニヤニヤと臨也を見下している静雄を思い切り睨み付けてやると、タチの悪いことに静雄はもっと嬉しそうな顔をした。何か一つ文句を言ってやろうとして、あ、と臨也は口を閉じる。
夕日を背負った静雄の髪が、やっぱりキラキラ光っている。ライオンの鬣みたいに、本物を見たことがあるわけでもないのに、臨也にはその姿がこの世に存在する何よりも綺麗に見えた。





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