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また恋してよ/後編

もしも臨也が泣き喚いて静雄を責めたら、それでも静雄は臨也のことを好きだと言い続けるだろうか。きみのせいでこうなった、きみなんて好きにならなきゃよかった。そう言って駄々を捏ねて、思い切り困らせてやって、気が済むまで謝らせて、そうして臨也が泣き止んだ時、それでも静雄は臨也に好きだと言うだろうか。
何が本当で何が嘘なのか、臨也にはもうほとんど分からなくなっていた。自分で切った腕が痛い。だから今日も生きている。こんなくだらない生き方、いつまでもできるわけがないのに。だから忘れてほしかった。臨也には無理そうだったからだからせめて、静雄にだけは忘れてほしかった。思い出にして欲しい。今自分たちの間に起きていることは全て、過ぎてしまえばあとはただの思い出だ。それでいい。お願いだからそうしてほしい。そうじゃないといつまでも終わらない。

「海に行かないか」

なのに静雄はちっとも臨也の意思を汲んでくれない。もう春が近い。暖かくなった陽気の中で、静雄は今日も臨也に言った。

「……まだ寒いよ」
「じゃあ、夏になったらでいい」
「夏になってもまだ来るつもりなの」

少し、静雄の身じろぐ気配がした。でもすぐに言う。

「ああ。ずっと来る」
「どうして?」
「それはお前と、一緒に、いたいから」

どんな顔をしているんだろう。長いこと意地を張りすぎて、臨也はこんな時なんて言ってやればいいのか忘れてしまった。
ずっとそばにいてほしい。こんな風に思う臨也の気持ちなんて、静雄に分かるわけない。薄暗くなった病室の中で一人、帰っていく静雄の背中を遠くから見つめる。こんなこといつまで続ければいいんだろう。だったら忘れたいし、忘れてほしい。思い出にしたい。すきだよ、すきだった。そんなこともあったね。いつかそう言って笑い合えたら、それが何十年後だって良い。臨也はもうたくさんだった。こんなに惨めで辛い思いをするのは、もうまっぴらだった。

まだ何も言いたくない。答えを出したくないし、欲しくもない。臨也はまだ何も決めたくなかった。何もかもが煩わしい。まだ眠っていたい。誰かに邪魔されることもなく、臨也の気のすむまでずっと、ずっとずっと眠っていたい。

「おはようございます」

いつものように、朝になると臨也の病室にはナースがやって来る。彼女の足音で目覚めて目を開けると、見慣れた生真面目な顔が臨也を静かに見下ろしている。

「今日はお寝坊なんですね」
「そりゃあ、僕だって寝過ごすことくらいありますよ」
「腕を見せて」
「はいはい」

一昨日新しき巻き直されたばかりの包帯の下には、また新しくできたばかりの切り傷が眠っている。まあ、またやったんですか。最近では怒られることすらなくなってしまった。ベテランのナースが気難しそうな顔で臨也の腕にグルグルと包帯を巻きつけていくのを見る。いつもすみませんねと臨也は口先だけで謝ってみる。するとそのベテランのナースは言うのだ。

「生きるって傷付くことだけじゃないのよ、折原さん」

そうですね、と臨也は言った。生きてるんだから楽しまなきゃ、笑わなきゃ。だってそうでもしないと生き損だ。

「ねえ、看護婦さん。貴女は生きてて良かったって思ったことあります?」
「あります」
「へえ。どういう時に?」
「退院する時、大抵の患者さんは頭を下げるのよ。ありがとうと言うの」

顔に人生の皺を刻み込んだナースは、その時だけはいつもの気難しそうな目を柔らかく細めた。

「折原さん、貴方はどうなのかしらね」

そんなの臨也に分かりっこない。





死にたいだなんて、本気で思ってるわけじゃない。いつだって本気で生きていたい。そしてできれば、幸せでいたいと思う。そんな当たり前のことしか考えてない。そんな当たり前のことが、こんなにも苦しくて難しい。朝起きるたびに思う。今日は幸せな日でありますように。どうか、苦しいことの一つもない一日でありますように。

「なあ、もう傷は大丈夫なのか」

顔は見えないのに、声ばかりが聞こえてくる。こんな茶番、いつまで続けたらいいんだろう。静雄が飽きるのを待つなんて嫌だ。ぬるま湯が少しずつ減っていくのを待つなんて、そんなまどろっこしいことしたくない。

「シズちゃん、俺ね、君のこと好きだったんだよ」

言葉にすると、本当に陳腐で子供っぽく響いた。静雄は何も言わない。ただ、ほんの少し身じろぐような気配がした。それだけだ。臨也はもう長いこと静雄の顔を見ていない。
怖かったのだ。自分から逃げ出しておいて、それはまるで「おしまい」の合図のような気がしたから。

「好きだったんだ」
「ああ」
「信じる?」
「信じるよ」
「俺はね、シズちゃん。本当に、それだけだったよ」
「……そうだな」

そうだなって、何。本当に分かって言ってんの。適当に話を合わせてるだけなんじゃないの。俺のご機嫌取りみたいなことは止めてよ、そんなのちっとも嬉しくない。ますます惨めなだけだ。なのに言葉にならない。喉でつっかえて出てこない。

「お前との約束が欲しい。俺だって、それだけだよ」

あの日からずっと、静雄は臨也に怒らなくなってしまった。背を向けたまま顔も見ることができない。ただひたすらに穏やかな言葉の裏で、どんな顔をしているんだろう。どんな顔をしていたかな。君のことが好きだったのは本当なのに、それをもう思い出せそうにない。

――いつか思い出になる。

そんなの嘘だ。本当は思い出なんかにしたくない。こんなにも苦しいと思うのに、捨てる勇気だっていまだにない。痛いと思うのも悲しいと思うのも、愛しいと思うのも抱き締めたいと思うのも、どれかを選ぶなんてできやしない。それは全て丸ごと臨也の気持ちだから。捨てるあてなんてどこにもない。思い出になるなんて嘘だよ。

「俺、泳がないよ」
「……ああ」
「寒いのも暑いのも、嫌いだから」
「ああ、そうだな」

そんなのなんだっていい、と静雄は言った。砂でお城を作るのでも、足を波で濡らすのでも、ただ遠くから海を眺めるだけでも、臨也がもう静雄のことを好きじゃないんだとしても、そんなのなんでもいい。隣に臨也がいるなら、それを他でもない臨也自身がそう約束してくれるのなら、そんなのはどうでもいい。だから約束をしてくれ。

なんだか泣きそうになってしまった。約束が欲しいなんて、言葉にしてしまうと本当に陳腐でくだらない。そんなものに縋らないといけないなんて、こんなにも自分たちが情けないなんて知らなかった。
好きだった、本当に。今はどうだろう、分からない。こんなの恋と言っていいか分からない。臨也を好きだと言う静雄だってもしかしたら、罪悪感だとか責任感だとか、そんな生真面目な感情に好きという言葉で辻褄合わせをしているのかもしれない。そして臨也は、そんな静雄の頭の悪さを分かっていて、そこにつけこもうとしている。当てつけのためだけにこんなにたくさん傷を作って、色んなモノを踏みつけて。

「ねえシズちゃん、知ってる?」

臨也がゆっくり体を起こすと、静雄が声もなく驚くような気配がした。病室が薄暗い。日が落ちかけている。

「この病院ってさ、起床と就寝の時間が決まってるんだ」
「……いざ」
「だけど俺、たまに早起きしたりするんだよ」

窓の向こうで子供の騒ぎ声が聞こえてきた。そうか、もうそんな時間だ。もうすぐで夕暮れになる。シーツの上に落ちた窓のサッシの陰は随分と長く伸びて、これもいつも夜に呑み込まれて消えていく。そうして長い夜を迎えて、でもいつか朝になる。どこにいたって、どんなに悲しくたって、いつだってそうして朝になる。
臨也が正面に向けていた顔を静雄に向けると、静雄は信じられないとでも言いたげな顔で臨也を見ていた。久しぶりに顔を見た気がする。こんな顔だったかな。こんなに情けない顔だったかな。まるで今にも泣き出しそうで、その顔はちっともかっこよくなくて、そう思ったらちょっとだけ、笑えそうだった。だってきっと、臨也だって似たような情けない顔をしてるのに違いない。泣きたいのに笑いたい。

「まだ、外にほとんど人がいないような時間に起きるんだ。カーテンを開けて、冷たい空気を吸い込んでさ、空を見るんだよ。鳥が鳴く声が聞こえてきたりして、そしたらなんでか、いつもより空が綺麗だなあって思うんだ。そういうの、分かる?」

朝の煌めいた空気と、何一つ邪魔がなく真っ直ぐ届く朝日。ほんのりと冷たい空気。それを吸い込むと気持ちが良い。特別な一日が始まるような気がする。朝は世界が幸せの魔法にかけられている。

ああ、と静雄は頷いた。まだほんの少し信じられないといった顔で、それでもしっかり頷いて見せた。

「分かるよ」
「でも、あれってね、たまに早起きするからそう思うんだよ。だって朝って眠いものだ。毎日無理やり叩き起こされてみなよ。朝なんてちっとも綺麗じゃない。ただ眠いだけだ。辛いだけだ。ねえ、そうだろ」

答えは聞かずに、臨也は目を閉じた。それから、目を閉じたまま言った。

「だから、もうちょっとだけ眠らせて」

こんなの恋じゃない。でも、静雄が臨也に好きだと言った。その気持ちがどれだけ嘘でも、信用できなくても、それだけは疑いようのない事実だ。今はまだ、辻褄合わせの恋でいい。いつか本物になってくれるなら、思い出にされるよりはずっといい。それでいいだろうか。こんなにも卑怯でエゴだらけの臨也の汚さを、それでも静雄はまだ好きだと言うだろうか。
臨也はゆっくり目を開けた。それでもまだ、やっぱり、静雄はまっすぐに臨也のことを見ていた。

「ああ、それでいい」

泣きたいね、シズちゃん。

臨也はそっと、静雄に向かって自分の小指を差し出した。静雄はそれをキョトンとした顔で見てから、慌てたようにぎこちない動作で自分の小指を持ち上げる。臨也が小指と小指を絡ませると、静雄は不安そうな顔でじっと臨也を見た。

「それじゃあ、約束」

触れた小指から温度が伝わる。窓から差し込む夕日が、静雄の顔に薄暗い影を作っていた。でも大丈夫だ、朝になる。どれだけ夜が長く感じても、寂しくても、一人ぼっちでも、いつかきっと朝になるよ。

だから、ほら。


指切った。







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また恋してよ




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