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また恋してよ/前編

「おはようございます、折原さん」

静かな声で名前を呼ばれて、臨也は窓の外から病室の扉に目を移した。真っ白なナース服に身を包んだ、妙齢の女性が姿勢よく立っている。この病院のベテランナースだ。

「いつも早起きね」
「ええ、まあ」

朝日がまだ眩しい。臨也がまた窓の外に視線を移すと、ツカツカと看護婦が近くまでやって来て何も言わずに布団を剥ぎ取った。下に隠れていた臨也の両腕がそれで剥き出しになって、それから遠慮のない溜め息が降ってくる。
誤魔化せないかと思って、臨也は「今日もいい天気ですね」と言ってみた。すると、それにかぶさるように遠くから子供の声が響いてくる。この病院の前の道路は近くの小学校の通学路になっているのだ。

「折原さん、こんな調子じゃあ退院なんてさせてあげられませんよ」
「それ、なんとかなりません?」
「お友達を心配させてるのが、いい加減分からないのかしら」

思わず臨也が黙ると、看護婦はもう一度息を吐いて臨也の腕を取った。昨夜できたばかりの生傷を見て、眉間に皺を増やす。

「平和島さん、今日もいらっしゃるといいわね」

手際よく臨也の腕に消毒液をしみこませたガーゼを当てあがら、淡々と看護婦は言った。黙っている臨也を、突き放すような冷たい目で見る。目尻に皺があった。一体どれだけの時間をこの病院で過ごしているのだろう。聞いたら教えてくれるだろうか。そんなことを考えている間に、あっという間に新しい包帯を腕に巻かれてしまった。
次に病室の窓が開けられると、新鮮な風が一気に病室に流れ込む。同時に、子どもの声も大きくなった。窓の外に身を乗り出した看護婦が目を細める。

「あら、今日は本当に良い天気ね」
「……そうですね」

ああ、まだ眠い。





臨也の病室の窓からは、外の景色がよく見えるようになっている。景色と言っても寂しい住宅街と道路が伸びているだけで、人通りもほとんどない。見ていてあまり楽しいものではないのに、臨也は空に電線が引っ掛かっているのをぼうっと眺めるのが好きだった。

もしこのまま死んだりしたら、一体どれだけの人間が臨也のために泣いたりしてくれるんだろう。友達が、家族が、ただの知り合いが、それともあるいは、顔も見たことがないような全くの赤の他人が。病室の窓から見える風景に、人はほとんどいない。ただ、朝になるとその寂れた風景もにわかに活気づく。近くに小学校でもあるのだろう。登校してくるたくさんの子どもたちが、走ったり歩いたり、笑ったり騒いだりしながらコンクリートの道路の上を通って行く。臨也はいつもその喧騒を聞いている。ねえ、俺もその仲間に入れてくれない? そんなことを考えてみたりして、そのあまりの子供っぽさに自分で笑ってしまう。
腕の傷は、いつも消えない。消えないように自分でしている。ナイフの切っ先が肌を裂いて血が出ると、それを見て「痛い」と感じると、それでようやく生きてると感じることができた。そんなわけないだろ、といつだったか腐れ縁の旧友が言った。そんなことしなくたって君は生きてるよ、臨也。だから臨也も言ってやった。ねえ新羅、君って本当に分かりきったことしか言えないんだな。

こんなことしなくたって臨也は生きているし、これからも生きていける。そんなこと知っている。だから臨也のやっていることに意味はない。いや、もしもこんな行為に意味があるのだとしたら、これはきっと当てつけだ。

「臨也?」

臨也の病室の窓から見える道路のその少し先には、この病院に一番近い駅がある。だから、そこから見える風景から目を離さなければ、静雄がやって来るのなんてすぐに分かる。
静雄が来るのが分かると、臨也はすぐにベッドの中で体を横にして、そっぽを向くようにシーツの中で丸くなる。そうすると静雄は臨也の枕元に置いてある小さな椅子に座る。そうして、臨也の背中にとりとめのない話をする。たまに返事をしてやると嬉しそうにするものだから、今日こそはずっと黙っていようという決心はいつも崩されてしまう。

「あったかくなってきたな」

いつもは開けっ放しにした窓を勝手に閉めるのに、静雄は今日はそうしなかった。背中の後ろで、静雄が窓の外を眺める気配がする。

「なあ、まだ退院できねえのか」
「……君に関係がない」

そうだな、と静雄が言った。もしかしたら困った顔で笑っているかもしれない。でも臨也にそれを確認することはできない。いつも静雄に背中を向けている臨也は、もう長いことその顔をこの目で見ていなかった。

「海に行こうって言ったの、覚えてるか」

忘れるわけないだろ、とこれは声に出さずに言った。この病室に通いだしてすぐ、静雄が臨也に言ったのだ。あたたかくなったらうみにいこう。返事こそしなかったが、忘れるわけがない。静雄が言った言葉の一つ一つを、臨也が忘れられるわけがなかった。

――気持ち悪い。





臨也は随分と前から静雄のことが好きだった。だけど好きなだけでいいと思っていたから、それを口に出したことはなかった。そのまま死んでもいいとすら思っていた。なのに、ある日いきなり、自分の口が勝手に「好きだよ」と言っていた。静雄はそんな臨也にすぐさま「気持ち悪い」と言った。当たり前だ。自分自身ですら気持ち悪いと思ったのだ。 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。時間を巻き戻せるならそうしたい。静雄のあの嫌悪を剥き出しにした顔を見た時、本気で死にたいと思った。いっそ死んでいなくなってしまいたい。だけど本当に死ぬのも怖かった。自分がこんなに怖がりの臆病者だなんて、臨也は知らなかった。だから腕を切るのだ。そうして思う。死にたい、でも生きたい。

良かった、俺は今生きてるんだ。

静雄が臨也の病室に来て声を掛けていくたびに、泣きそうになる。こんなにみっともなくて情けない姿見られたくなかった。優しい声で臨也に話しかける静雄の顔を見るのが怖い。自分の顔を見られるのが怖い。何もかもが、怖くて怖くてたまらない。 何を考えてここまで来てくれるのだろう。何を思ってこんな臨也のことを気にかけてくれているのだろう。気持ち悪いと言った、あの言葉のままに、いっそ臨也のことをずっと軽蔑してくれていたほうが良かった。

「どこへも行くなよ」

ベッドの上で動かない臨也に、静雄はそう繰り返すようになった。そのたびに思う。そんなのいつも臨也が思ってることだ。
ふらりと病室にやって来ては、適当なことを言って適当な時間に帰っていく。日が落ちて暗くなりかけて病室にたった一人、窓からその背中を見送る臨也の気持ちなんて、静雄にはきっと分かりっこない。

好きだ、と言うのだ。
臨也のことを気持ち悪いと言ったその口で。

もうどうしたらいいのか分からない。千回信じてくれと言われたって信じられない。なのに信じたいと思ている自分もいる。顔を見る勇気もないくせに、でももしかしたら、本当に臨也のことを好きなってくれたんじゃないかって、そんな風に夢を見ている自分のことが気持ち悪くてたまらないのに。

「好きだ」

それなのに静雄は言うのだ。

「好きだよ、臨也」

そんなの嘘だよって、言ってやりたいのに言葉にならない。




あきゅろす。
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