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僕の生きる意味 後

 あの日。
 臨也が統制室で幽に見つかったあの日。

 幽が臨也を連れて来たのは、かつて自分達が育てられた培養室だった。静雄と幽が自立している今、中には誰もいない。一号と二号の成功に浮かれたのは良いが、それ以降はまた失敗作を量産している状況だ。だから余計に焦っているのかもしれない。新人類にも老いと衰えは当然あり、いつか死んでいなくなる。
 そうなればこの国はまた元通りだ。元通り、科学技術と言うエサをぶら下げた弱小国家に過ぎなくなる。
「――で、何? わざわざこんな所に連れて来てさ」
「誰にも聞かれたくない話なので」
 臨也が扉を抜けて培養室に足を踏み入れた途端、さっきまで開いていたはずの扉が触ってもいないのに閉まって鍵がかかった。室内の電気だけを残して、監視カメラや空調などの全てのシステムもシャットダウンする。
 まるで手品か何かを見せられているようだ。だが今なら分かる。全て幽が統制室のコンピュータを使ってやったのだろう。
 この男には、"考えただけ"でそれができる。
「話って?」
「シズオの……兄のことです」
「ヒュウ、驚いたな」
 臨也は大袈裟に目を丸くして見せた。
「君にもまだ、アイツが自分の兄貴だって認識はあったわけだ」
「茶化されるのはあまり好きじゃありません」
 好きも嫌いもないような声色で言って、幽は臨也を振り返った。 「生まれた時から一緒なんですよ、これでも。子供の頃はよく遊んでもらいましたし。 ……臨也さん、貴方とも」
「ハハッ」
 聞きたくなくて、臨也は話を遮った。
「美しき兄弟愛だねえ。でも、アイツは、君が自分の弟だって覚えてるのかな?」
 臨也のことだって忘れている。幼い時間のほとんどの時間を共有しておきながら、静雄は数年後に再会した臨也のことをすっかり忘れていたのだ。それどころか覚えようともしない。肉体の代わりに脳が退化でもしているのか、静雄は人の顔と名前を覚えられないほどに記憶力が低下していたし、更に言えばおよそ人間らしい振舞いを知らなかった。
 普通の人間は何時間も時計ばかりを見ていられない。だが静雄にはそれができる。他に何か指示や命令でもされない限り、いつまでだってそうしている。しかもいつだって顔に表情がない。昔は怒ったり笑ったりしていたはずだ。静雄は感情の起伏が激しい方で、臨也は静雄の表情がコロコロ変わるのをよく見ていた。それが今や、泣かないし笑わない。まるでお人形か何かのように。
「覚えてないでしょうね」
 挑発するように笑う臨也の視線を、やはり幽は無表情に受け止めた。こいつもおよそ人間らしくない。兄弟そろって、忌々しい。
「俺に関する記憶は消されてますから。正確には、『覚えていない』というよりは『記憶から消去された』と表現した方が正しいですが」
「……は?」
「俺に限らず、兄は幼少時に出会った人間の記憶はほとんど全てを、邪魔だという理由で消去されています。もちろん臨也さん、貴方の記憶も」
「悪いけど、もう少し分かりやすく説明にしてくれるかな」
「――兄の頭には」
 統制室でしたのと同じように、幽は右手の人差し指で自分の頭を指差した。
「俺と同じ、チップが埋まっています」

 時が、止まったようだった。
 臨也は吟味する。幽が言っていることの意味を。目の前の化け物が言っている言葉の意味を。
 コイツが言いたいのは、つまり。

「兄の脳は統制室のコンピュータから完全に管理が可能です。記憶、感情、知能、全てを我々の都合の良いようにコントロールしていました」
 淡々と言いながら、幽はビー玉でも埋っているかのような目で臨也を見る。
「勿論、兄がこちらのシステムに介入することはできないようにしたうえでの、一方的な働きかけです。まあ、たとえ相互の干渉が可能だったとしても、兄はそんなことができるような知能レベルに達していませんし、そもそも自分の頭にそんなものが埋まっていること自体を知らないんですけど」
 まるでマウスか何かの話をしているようだ。
 ――昨日、投薬実験でマウスに新しい薬を打ってみたんだけどさ、そしたらすぐ動かなくなって、ソイツ、死んじゃったよ。ハハッ。
「怖いから、と上は言ってました。まだ子供で従順なうちは便利な道具で済みますが、本来兄は自分の感情を持つ人間です。成長して自我を持って、反発心を覚えて下手な反抗なんてされたら、こんな研究所あっという間に壊されて、自分達が殺されてもおかしくない。だから完璧に自分達の支配下におこうとしたんです。理に適ってるでしょう」
 反抗心を抱かない程度に知能を押さえて、兵器としての役割以上の知識は与えない。下手に人間に情を持っても困るから、必要以外の人間を記憶しないよう調整もした。
「なるほど」
 我ながら穏やかな声が出たことに、臨也は内心で驚いた。
「そうだね、本当に。とても合理的な考え方だ。 ――糞みたいで、反吐が出る」
「だから貴方にお願いしたい」
 静かな声で幽は言った。
「貴方の計画に、兄も連れて行ってください」
「……俺の計画?」
「貴方がこの国から出る計画を立てていることは知っています。研究所のネットワークに侵入して情報を探っていたことも、この国の外交網を閲覧していたのも臨也さんですよね。外国とのトレードもそのブラフでしょう。この国から出るための。それに兄も連れて行ってください」
「意味が、分からないんだけど」
「こんな国にいたって幸せになれない」
 初めて幽の声に感情が乗った。語尾が少し、ともすれば聞き逃してしまうほど僅かに、掠れて震えた。
「使い潰されるだけだ、こんな国。兄はこの国ではただの道具でしかない。他人を殺し続けるだけの人生に、意味があると思いますか。だって兄は、自分がなぜ人を殺しているのかも、人を殺すということがどういうことなのかも、それにどんな意味があるのかも、何一つ分かってないんですよ。臨也さん、貴方に言われなくたって、兄はもうとっくに"お人形"だ」
「だったら君がどうにかしてあげたらどうだ」
 お人形の静雄を臨也が持っていたって持て余すに決まっている。だが幽は首を振った。
「それは駄目です」
「どうして? まさかそんな綺麗ごとを言っておいて、責任だけ俺に押し付けようなんて思っちゃいないよな」
「兄の記憶を消したの、俺なんです」
 幽は言った。
「一号の暴走が不安なら脳ごとコントロールしてしまえばいい、と上に言ったのも、その手術をしたのも、記憶の消去や感情の制御をしたのも、全部俺です」
 俺がやったんです、と繰り返した。
「やってみたかった。俺のこの研究がどこまで通用するのか、成功するのか失敗するのか、俺は実験がしたかったんです。マウスやモルモットなんかじゃない、人間で。俺の研究が通用するのか、試してみたかった」
 たったそれだけの理由で、幼い頃を共に過ごした兄の頭を弄って、自分の記憶すら消去した。神も仏もないとはこのことだ。一体どの世界に、やってみたいからってだけで、自分の兄貴の頭をオモチャにする弟がいる?

 化け物め。
 咄嗟に罵ろうとして、臨也はそうしなかった。言われるまでもなく、幽自身がそれを分かっているような顔をしていたからだ。こんな国にいても幸せになれない。自分では兄をどうにもしてあげられない。これはそういう意味だ。
「消した記憶は、もう戻りません。兄はきっともう二度と俺を思い出さない。でも、それでいいんです。こんな国から脱け出して、色んな世界を見せてください。そうして自分で色んなことを考えてほしい。いつか、自分のしてきてことが何だったのか気付く時が来るかもしれない。それはとても残酷なことなのかもしれないですけど、それでいいんです。それが正しい在り方なんです。だって兄は、道具なんかじゃない……自分で考えて、行動する、ちゃんと生きてる人間なんですから」
 いつも寡黙を貫く幽がそんな風に考えていたことを、臨也は全く知らなかった。まるで機械のような男だと思っていたのだ。圧倒的なギフトの代わりに、どこかに感情を置き忘れてきてしまった兄弟。臨也はずっとそんな風に思っていた。
「……君、そんなに長い台詞言えたんだね」
「茶化されるのはあまり好きじゃありません」
「裏切るかもしれないよ? 俺は」
 幽はこれには答えない。
「この国を出たら、いつか、また兄を連れて来て下さい。俺のことなんて忘れたままでいいです。ただ、いつか……また昔のように、兄が自分の感情で笑っているところを見たい」
「ぶん殴られるかもよ、君」
「構いません」
 あまりにも潔く言い切るものだから、臨也は思わずクッと喉元で笑ってしまった。
「いやあ、良かったよ、幽君。君は紛れもなく人間だ」
 臨也はパチパチと拍手をした。

「自分に都合の良いことばかり言う、その身勝手な傲慢さは、まさしく人間そのものだ」

 答えなかったが、幽はほんの少し笑ったようだった。










「……夜に、なりそうだね」
 またオレンジの海を視界におさめて、目を細める。とうとう波が臨也の足元を濡らした。
 そろそろここから離れたほうが良い。近くに見える研究所を視界に収めて、臨也は他人事のように考えた。そろそろ幽が動き出すはずだ。一体何をするつもりなのかは知らないが、この研究所からなるべく遠くに静雄を連れ出すことが、幽から頼まれた臨也の仕事だった。
「もう十九時だ」
 静雄が言う。相変わらず、お粗末な脳は自分に課された「仕事の遂行」と「時間」にしか執着が湧かないらしい。だがそれも今夜までだ、と幽は言った。静雄の脳を縛り付ける全てから解放する。何をするつもりなのかは知らされていない。だが、臨也にはおおよその見当がついていた。静雄の脳に埋まっているというチップ。アレを直接取り除かないんだとしたら、あとはもうやれることなんて知れている。
 ――そうすれば臨也さん、今度こそ兄は貴方との思い出を積み上げなおせる。
「ねえ、シズちゃん」
 はたして臨也はそんなことを望んでいるのだろうか。
 とっくに自分のことなんて忘れたこの男ともう一度、やり直すものなんてありはしないのに、もう一度一緒に生きようとすることにどれだけの価値があるというのだろう。
 臨也は静雄を見る。静雄もまた、こたえるように臨也を見る。
「俺さ、実はずっと、夢があったんだ」
「夢?」
「そう、夢」
 この国を出て行こう。
 臨也はずっとそう思っていた。
 こんな国に留まり続けていたってつまらない。みじめにただ消費されていくだけ。臨也は静雄と同じ研究室の中で、"失敗作"として産まれた子供だった。いや、たとえ成功作と呼ばれたままだったとしても、こんな国にいたってくだらない。つまらない。

「ずっと前から叶えたかったんだ。もっと小さな子供だったときから」

 かつて子供だった臨也は静雄に言った。いつか一緒に世界中を旅しよう。そしたら静雄は言ったのだ。お前と二人ならそれもいい。確かに言った、そう言った。他の誰に指示されたわけでも命令されたわけでもなく、自分の言葉と意思でそう言って頷いた。
「だから、ねえ、シズちゃん」
 既に自分がただの人間だと気付いていた臨也にとって、その途方もない夢だけが支えだった。
「俺の夢に付き合ってよ」
「…………」
 波の音が聞こえる。あっという間に暗くなる。
 静雄は黙って臨也を見ている。真っ直ぐに見つめてくる。あの頃とはもう何もかもが違っているのに、その顔だけが変わらないように見えて、臨也は自分が泣きたいのか笑いたいのか分からなくなってしまった。
「……ああ、いいぞ」
 立ち尽くす臨也に、静雄は大真面目な顔で頷いた。ああ、そうだ、この世に神や仏なんていやしない。
「今日の、二十時までならな」







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僕の(君と)生きる意味




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