[携帯モード] [URL送信]
知らなかった幸せ 前
 船内放送に気が付いて、臨也はパチリと目を開けた。どうやら室内のベンチでうたた寝をしてしまっていたようだ。海の景色を眺めている静雄が隣にずっといたはずだから荷物は盗られたりしていないようだが、少し迂闊だったと反省する。
「やぁっと着いたかあ」
 五日ぶりに地に足をつけて、臨也はうーんと伸びをした。日数だけ見ればそこまで長くはないが、広くはない船内で毎日同じ人間の顔ばかり見る船旅にはさすがに飽きていた。静雄は初めて乗る船に興奮していたようだが、やはり地面に足をつけているのが一番だ。
「――皆さま、ようこそ我が国にいらっしゃいました。幸せな滞在をお楽しみください」
 船から入国審査の検査場までの案内人がそう告げるのを聞きながら、臨也は後ろの港を振り返る。潮風とともに潮の香りが鼻をくすぐって、前髪を揺らした。



 ――"世界一幸せな国"。
 この国は数十年も昔からそう呼ばれていた。
 とある有名な雑誌が毎年発表する『全世界の幸福度指数ランキング』で、この国が毎年一位を獲り続けているからだ。「自分は今幸せだと思うか」「またこの国に生まれたいと思うか」という二つの質問を各国の国民に行い、その回答結果によってランキングが集計され誌面で発表されている。臨也たちがたった今訪れたその国は、このランキングが創設されてから数十年、一度もトップの座を譲ったことがなかった。
「その上、国外の人間の訪問をほとんど受け入れないことでも有名だから、"未開のユートピア"とも呼ばれてるんだよ」
「へえ」
 臨也の説明に、静雄は透明なビニールの袋に入ったクッキーをぼりぼり食べながら頷いた。どうやら臨也が寝ている間に船内で買ったらしい。臨也もも一枚もらって食べてみたが、なかなかに美味しかった。
「ま、この国が世界で唯一の島国だからできることだけどね」
 地続きの隣国を持たないこの島国は、徹底的な鎖国政策を敷いている。貿易も限られた国と港でしか行わず、徹底して余所者を排除していた。他国からの干渉を許さず、また他国に干渉することもしない。それがこの国のやり方で、臨也も入国するのは今回が初めてだった。同船していたのもこの国と利害関係の深い各国要人がほとんどだ。

「貴方が折原臨也さんかしら?」

 港に降り立ってから暫く待っていると、腰まである黒髪が特徴的な女性が声をかけて来た。愛想のない顔に涼やかな目で臨也と静雄を値踏みするように見ると、腕組みをしてこちらの返答を待っている。
「そうです。貴女がガイドさん?」
「……矢霧波江よ」
「波江さんね。はじめまして折原です。こっちはシズちゃんだ、よろしく」
「ええ、そう」
 まるで名前を覚える気のないような顔で頷いて、波江はくるりと体を翻した。
「ついて来なさい。ホテルまで案内するわ」
「あ、ねえちょっと、色々と聞きたいことがあるんだけど」
「それは歩きながらだとできない話なのかしら?」
「…………」
 どうやら一筋縄ではいかない女性のようだ。やれやれと溜め息を吐いて臨也が歩きはじめると、じっと海に目を注いでいた静雄も残ったクッキーを袋ごとカバンに押し込みながらついて来た。
「この国に滞在する条件は覚えてるわね?」
 一切振り返らず早足に歩きながら、波江は事務的に聞いてくる。
「ああ、アレ? あの条件を全部覚えてる人っているの?」
 鎖国政策を敷いているこの国は基本的に余所者を受け付けない。臨也が入国を許可されたのは、あくまでも商人としてだ。
 それですら気の遠くなるほどびっしりと文字の書かれた誓約書を何枚も読まされ、腱鞘炎になるのではないかと思われるほど何度も何度も確認のサインとチェックをさせられた。あの乗ってきた船でだって、乗船する前にまた条件の確認をされたのだ。臨也はもううんざりだった。
「君たちは手荷物検査を何回やれば気が済むんだ? 俺ならまだしも、シズちゃんの荷物を確かめる意味ってなんだ? まだ読んでない絵本を取り上げられてめっちゃ落ち込んでたんだけど? おかげで俺がずっと相手させられる羽目になったんだけど?」
「本の類の持ち込みは禁止だって聞かなかったの?」
「本? 八割がたふわふわした絵で埋まってるあれが本?」
「……なんでそんなもの持ち込んだのよ貴方」
「うちのシズちゃんは文字を読むのが苦手なんだ!」
「知らないわよ」
 この国は多くのものを持ち込み禁止に指定していた。
 まずは本、雑誌、写真など他国の情報が載っている媒体は禁止。カメラ、レコーダーなどの記録媒体も禁止。食べ物の持ち込み禁止。指定以外の医薬品持ち込み禁止。電波を発する機器の持ち込み禁止。禁止、禁止、禁止。とにかく禁止。むしろ何がオーケーなのか言ってくれた方が早いくらいだ。
「……その上ずーっと君の監視がついてくるわけだろ? どうにかなりそうだよ全く」
「あら。だったら宿泊なんてせず次の出向便で帰ったら?」
「それは嫌だね。せっかくごねて滞在許可を貰ったんだから」
 世界一幸せな国。
 それが一体どんな国なのか単純に興味があった。
 たまに流れてくる情報によると、文明や科学技術はほとんど進んでいない。世襲国王の完全な独裁体制。それでも、世界トップレベルの造船技術と豊かに産出される天然資源でこの国は国民の生活を支え、強制労働や徴税は一切していない。それがこれまで一度も国王に不満が出なかった大きな理由だ。





 波江に案内されて街中の様子を見て、臨也は驚いた。
 ある程度の想像はしていたが、あまりにも生活の水準が低いのだ。

 まず大衆層に電気と水道が普及していない。国民は砂と煉瓦造りの家に住んで、水は近くの河までわざわざ汲みに行っている。料理もガスではなく火窯を使っていて、肉を食う文化はあるようだが味付けの幅は極端に狭く、ソースや化学調味料は一切ない。電気が使えないから当然冷蔵庫の類もない。試しに出店で売っていた干しイモを買ってみたが、あまりの味気なさにすぐ飽きてしまった。
 洋服は着ているが洗濯機もアイロンもないから、薄汚れてだらしなくよれている。国民は自分たちが生活することに一日の時間を使っていて、娯楽という観念からはほとんど無縁のように見えた。たまに大人の男たちが酒の瓶を持ちながら歌い歩いているのを見る程度だ。
「……ここだけ大昔にタイムスリップしたみたいだな」
 玄関先で一人の少年が家畜の鶏の頭を跳ねている光景を見て、臨也は顔を顰めた。車が普及していないから、道の整備だって進んでいない。
「ユートピアっていうか、未開の大地って感じだけど」
 それでも、国民の全てが自分たちの暮らしになんの不満も疑問も持っていないのは明らかだった。
 臨也たちのガイドとしてついて来た波江はこの街の市長だ。その波江が街中を歩くたびに、国民たちが笑顔で手を振るのだ。ただのパフォーマンスにも見えず、慕われているのは一目瞭然だった。
「人気者だねえ」
「そうね」
「それについても聞きたいんだけどさ……あ、ちょっとシズちゃん?」
 視界からいなくなったと思ったら、静雄は少し前に通った路上販売の屋台の前で足を止めて、じっと売り物に視線を注いでいた。
「あーもう……波江さん、悪いけど少し待っててくれる?」
 やれやれと息を吐いて、臨也は来た道を数歩戻った。
「シズちゃん、何してんの? 置いてくよ」
「……これ」
 静雄が言うので、臨也も屋台に目を向けた。その瞬間ギョッとする。
「え……何、これ」
「この国の特産品だよ!」
 色黒の屋台のオッサンがニコニコしながら声をかけて来る。それに答えられないほど、臨也の頭の中は真っ白になって全身が凍り付いていた。
「これが?」
 ――虫、だった。
 殻を持って足が六本生えている虫が、こんがりと黄金色に油で揚げられている。それが屋台のケースいっぱいに詰められて、屋台の主人である男が笑いながらスコップを突っ込んでザクザクと中をかき混ぜていた。中の虫と目が合ってしまったような気がして、臨也は咄嗟に目を逸らす。
「うちの国ではメジャーな食べ物だよ。栄養も豊富だし、みんなおやつ感覚で食べてるんだ」
 言いながら、主人は実際にその虫を一匹指でつまんで口の中に放り込んでみせた。なるほど、この国では虫を食べる文化があるということだ。
 分かった、それはいい。
 食虫文化のある国は、他にいくらでもある。
 問題はだ。
「なあこれ、××××だよな」
「そうだよ。××××だ!」
 静雄の問いに笑顔で答える主人を見て、臨也はその場で吐きそうになってしまった。
 こんなものを食べる人間がいるなんて信じられない。口に入れるどころか触ることすらおぞましい。顔を青くする臨也をよそに、静雄は顔色一つ変えずに主人に尋ねた。
「××××って美味いのか?」
「おいしいとも! きちんと食用に育てているから汚くないしね。うちでは国民食だよ。君は××××を食べたことはないのか?」
「ないな」
「じゃあ試してみるといい!」
「試さなくていい!」
 気前よくその国民食とやらを渡してこようとするのを遮って、臨也は静雄の手を取ると強引に波江のところまで連れ戻した。後ろから「また後でな!」という声が聞こえてくるが、二度と行くかと固く誓う。

「君たちは正気か!?」
 少し離れた場所で待っていた波江のところに戻ると、堪えきれず臨也は叫んだ。
 ××××を食う? 口に出すのすら憚られるアイツを、言うに事欠いて国民食だと? どこが幸せな国だ!
「正気のつもりだけれど」
「ねえ、ちょっと、まさかとは思うけど、これから行くホテルとやらでもアレが出るんじゃないだろうな」
「馬鹿ね。出ないわよ」
 波江は呆れたように言って、さっさと歩き出した。
「そうかそれを聞いて安心した。 ……いや待ってくれ、他の虫が出てきたりはしないだろうな?」
「……どうかしらね」
「いや、何も君たちの国文化を貶そうってんじゃないんだ。ただ、俺には俺の育った国の文化ってものがあるんだよね」
「多分、貴方が想像しているようなことにはならないから大丈夫よ」
「どうだか」
 道端で子供たちが追いかけっこをしている。おそらくテレビゲームなんて見たこともないのだろう。楽しそうにキャアキャア騒ぎながら臨也の横を駆け抜けていった子供の背を見て、臨也は目を細めた。




第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!