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待ち望んだ先の未来で 前
 あ、また聞いてる。

 とりあえず仕事がキリの良いところまで終わって、パソコンの前で一息ついた。休憩にお茶でも淹れようかと臨也が書斎を出ると、リビングのソファに腰掛けた静雄がヘッドフォンをつけながら本を読んでいた。以前までは音楽なんてほとんど興味がなかったのに、英語の勉強なら洋楽がいい、と言った臨也のアドバイスを律儀に守っている。いや、守っているというよりは、むしろ音楽そのものを気に入ったようだった。このシンガーなら発音が良くて聞き取りやすいと渡した洋楽のCDを、ここ一、二週間は毎日聞いている。一昔以上も前に人気だった、アメリカ人の兄妹デュオだ。

「シズちゃん」

 後頭部に声を掛けてみる。どうせ聞こえないだろうと思っていたのに、静雄はヘッドフォンを外しながら振り向いた。

「……あ? なんか言ったか?」

 聞こえていたとは意外だ。

「お茶淹れようと思ってるんだけどさ、シズちゃん飲む?」
「ミルクティーがいい」
「はいはい」

 ここ最近の静雄のブームだ。

「おい」
「何?」

 臨也はカウンターキッチンに向かう足を止める。

「砂糖も入れろよ」
「……はいはい」

 言われなくても分かってるよ、とは言わず、かわりに臨也は苦笑した。





 静雄が臨也を追いかけてアメリカに来てから、そろそろ半年以上がたった。逃げるように日本を飛び出した臨也を追いかけて、去年の秋に「好きだ」と告げられた。それから、これからずっとそばにいてほしい、とも。
 臨也には断る理由がなかった。日本にいる頃からずっと静雄のことが好きで、好きで好きで仕方なくて、逃げ出した先のこの土地でも断ち切れなかったほどだ。全くどうしようもないほどの遠回りをしてしまった。出会った時はまだ二人とも青春を謳歌するうら若き高校生だったと言うのに、臨也も静雄ももう三十が目前だ。
 いや、これだけの時間をかけて、ようやく想いを叶えることができた、といった方がいいのかもしれない。叶うはずのない恋だったのだから。

「シズちゃん、仕事の調子はどう?」

 静雄は数か月前から小さな出版社で働き出した。日本の書籍も翻訳して出版している会社だ。そこで静雄は日本担当の営業と、簡単な校閲のようなものを任されているようだった。あの静雄が営業だなんて笑ってしまうが、人に恵まれたようでなんとか上手くやっている。
 昔とはもう違うのだ。こちらに来てから、臨也は静雄がかつてのように怒っている姿を見たことがなかった。

「英語に苦労してるみたいだけど、ちょっとは慣れた?」
「あー……」

 何か思い出すことでもあるのか、静雄が言葉を濁した。

「なに? なんかあった?」
「……この前、取次会社の社員の注文を俺が聞き間違えたまま発注ミスしちまって……怒られた」
「あらら。大丈夫だった?」
「同僚が一緒に謝ってくれた」
「へえ」

 良かったねえと臨也が言うと、静雄は照れたのを誤魔化すようにカップを傾けた。
 日本でも大分頑張っていたようだが、やはり言葉の壁がまだ高いらしい。こっちで仕事を探すのにも随分と苦労していた。辞書があれば読み書きはどうにかこうにかできるようだが、スムーズな会話となるとまだまだ難しい。困っているのを知っていたから、臨也も勉強になればいいとCDをいくつか渡したのだ。歌詞を見ながら曲を追うのは、案外いい勉強になる。

「まあ、言葉は慣れだよ。シズちゃんだって、最初にこっちに来た時よりかは発音も大分良くなってると思うよ、俺は」
「……世辞はいらねえ」
「お世辞じゃないよ。会社の人にも言われない?」

 これまた心当たりがあるのか、静雄はちょっと言葉に困ったように口を閉じた。
 本当に、職場の人間には恵まれたらしい。

「良かったねえ」
「……ああ」

 今度は静雄は頷いた。

「幽君にも負けられないもんねえ」

 これには少しムッとした顔をする。

「……幽は関係ねーだろ」

 2週間ほど前まで、静雄の弟である幽がアメリカに来ていたのだ。ドラマのロケだったらしく4日しか滞在しなかったうえ撮影はフロリダの方だったから、ほんの数時間程度しか会えてはいない。嬉しそうにいそいそと出かける静雄の背中が記憶に新しい。臨也からすればむしろよく会う時間を作ったものだと感心するが、この兄弟は結局どちらもブラコンなのだ。
 臨也も来ないかと誘われたが、丁重にお断りした。幽に挨拶しておくのも悪くなかったが、せっかくの兄弟水入らずなのだし、邪魔するのも悪かった。仕事が忙しくなりつつあったから、というのもある。ここのところ繁忙期で、もう3日ほど家から出ていない。

「幽君、英語上手だねえ」

 アメリカのドラマの、ゲスト出演だった。
 その回の放送が昨日あったばかりで、普段ドラマなんてあまり見ない静雄が噛り付くようにテレビを見ていた。日本人役としての登場だったが、英語を話すシーンもいくつかあった。決められた台本の台詞を練習したうえで喋っているとはいえ、見事に流暢な発音だった。臨也も舌を巻いたほどだ。

「シズちゃんも負けてらんないね」
「……うっせ」

 兄としてのプライドもあるだろう。臨也がクスクス笑うと、静雄は悔しそうにそっぽを向いた。


 夕飯の準備でもしようかと臨也が冷蔵庫を開けると、一番目立つ真ん中に赤いものがたくさん入った透明な容器がある。静雄が幽から貰ったものだった。
 梅干しである。
 静雄がアメリカに来て一番苦労したのは、実は言葉ではなかった。食生活だったのだ。
 もともと洋食嗜好で外食ばかりしていた臨也とは違って、静雄は日本では和食が中心だった。アメリカの大味な味付けにも、スーパーに並んでいる穀物にも、そして何より日本にはあって当然だったものが見当たらないのも、ショックが大きかったようだ。それで、梅干し。
 静雄はこっちに来てからも定期的に幽と連絡をとっている。あの仲の良さを考えれば当然で、そして臨也には言わないようなこの暮らしの不満を愚痴っていてもおかしくなかった。  そう、静雄は文句も不満も言わない。
 それが臨也には余計不安だった。
 何もない筈がないのだ。それなのに黙っているというのが、なんだか気を遣われているようでむず痒かった。

「オイ臨也」

 眼鏡をかけた静雄が、手に雑誌を持っていつの間にか臨也の背後に立っていた。首には耳から外したヘッドフォンをかけている。

「わっ、何? ビックリした」
「これなんだけどよ」

 よく見ればインテリアの雑誌だ。包丁から手を話して、静雄の開いたページを覗き込む。

「これ、新しい部屋に入ると思うか」
「何? あ、本棚ね」
「床に積み上げるだけだとそろそろ不便なんだよ」
「不便じゃなくても買うよ本棚くらい……」

 来月の終わりに、引っ越しを考えている。
 元々この家は臨也が一人で暮らすために借りていたものだったから、静雄と二人暮らしをするのには少し不便なのだ。先月に二人で話し合って、部屋の数が今より一つ多い家に引っ越すことに決めていた。
 なんだか新婚みたいだなあ、と馬鹿なことを考えたりする。
 現実は新婚どころかオッサン二人が引っ越しの相談をしているだけなのだが、そんな妄想をするくらいでバチは当たらないはずだ。

「んー、引っ越し先の見取り図がないと何とも言えないけど、そのくらいなら入るんじゃない?」
「もうちょっと大きいのもいけると思うか」
「えー……どうだろ。ていうかコレ組み立て式だよね。君できるの?」
「難しいのか?」
「難しいとかじゃなくてさ、壊すだろ君」

 ぐっ、と一瞬静雄が言葉に詰まったのを見て、たまらず噴き出してしまった。
 キレて暴れる、ということがなくなっただけで、静雄の怪力自体はまだ健在だ。その証拠に、今もたまに気が抜けるとモノを壊したりする。一昨日もマグカップの取っ手を壊してしまっていた。その度本当に申し訳なさそうな顔で「悪い……」と項垂れるものだから、臨也としては怒るどころかかわいいなあくらいにしか思わないのだが、やはり本人としては気になるのだろう。

「笑うな」

 少し意地悪を言ったせいか、静雄が拗ねたような顔をする。

「嘘だよ。俺も手伝うよ」
「……頼む」

 こんな意地悪を簡単に許してくれるほど君は優しくなったんだよ。
 本当はそう言ってやりたいが、さすがにそれは恥ずかしいので口にできない。

「もうちょっと色々見てみるか」
「うん。それがいいね」

 熱心に雑誌を見つめる静雄を見ていると、なんだか胸の内側からじわじわとざわつく。

「あのさ、シズちゃん」
「あ?」
「俺、ずっと思ってたんだけど」

 雑誌に目は落としたまま、静雄は言う。

「んだよ」
「うん、あのさ」

 これは言っていことなのか分からないのだが。

「……俺でいいのかなあ、って」

 言った瞬間、静雄が目を丸くした。

「は?」

 ――臨也の記憶が正しければ。
 静雄には、これまで恋人という存在がいなかった筈だ。少なくとも臨也が日本にいた頃はそうだった。臨也と恋人の関係になると言うことは、そしてずっと一緒にいる覚悟をしてくれているということは、静雄にとって臨也は生涯でたった一人の恋人ということになってしまうのだ。

「俺はな、臨也」

 静雄はため息交じりに言う。

「なんかもう面倒臭ェから、お前の"そういうの"には、付き合わねえことにしてる」
「……そういうのって?」
「そういうのは、そういうのだ」

 なんだそれ。全く答えになっていない。
 臨也の不満が分からないわけではないだろうに、静雄はそれだけ言って話は終わりと言わんばかり踵を返そうとした。

「シズちゃん」
「なんだよ」

 足を止めて臨也を見る。

「俺、わりと真面目に言ったんだけど」
「あー、なんだ。怒らせたか?」
「じゃなくて」

 静雄と違って、臨也はこれまでにたくさんの恋愛を経験している。これで最後にするつもりではいるけども、どうしても不公平な気がしてしまうのだ。静雄がもともと男が好きじゃないストレートだと思うと、余計に。

「分かった」

 静雄はパタンと雑誌を閉じて、そばのカウンターに置いた。
 臨也の話をちゃんと聞く、というサインだ。

「なんつったらお前は満足するんだ?」
「それ、俺に聞いたら駄目だろ」
「だってお前面倒臭ェんだよ。なんつったら納得する? 不安なのか、それとも不満なのか」
「え、分かんない」

 臨也が言うと、静雄は呆れたような顔をした。
 実際よく分からないのだ。わざわざ臨也を追いかけてこんな場所まで来てくれた静雄を、今さら疑う気はない。不安はない。
 でも男同士だ。もともと男も女も恋愛に関係なかった臨也と静雄とでは違う。恐らく恋人と言っていい関係なのに、いまだにキスの一つもしたことがないのは、それが大いに関係しているに違いない。ただそれでも臨也は良かった。絶対に実ることはないと思っていた恋だったから、今こうして静雄と一緒にいられるだけでも信じられないくらい幸せだ。だから不満もない。
 ただ、臨也を選んだ静雄の選択が本当に正しかったのか、臨也は今も分からないでいる。

「ただ、俺はさ……」
「なんだよ?」
「なんていうか、こう、ほら」
「分かんねえよ」
「えーっと、そう……申し訳ない? みたいな」
「はあ?」

 何言ってんだコイツ、と言わんばかりに静雄は顔を顰めた。

「いやだってさ、シズちゃんが英語に苦労してるのも、アメリカの食生活にうんざりしてるのも、幽君と滅多に会えないのも、元々は俺のせいっていうか」

 わざわざ異国の地で生活を共にしているのは、元を返せば臨也が日本から逃げ出したからなのだ。静雄なら無理にでも連れ戻しそうなものだったのに、それもなくこうして臨也と大人しくアメリカで暮らしている。

「だから悪いなーってか」
「……そうなるのかなぁ」

 正直自分でも、このモヤモヤとした気持ちの正体が分からない。ただ本当にモヤモヤするのだ。

「お前アッチでは散々俺に迷惑かけたくせに、今さら何言ってんだ?」
「うっ」
「お前がいなきゃ俺はもうちょっと平和な人生がおくれてたんだが」
「ぐっ」

 初めて出会った高校時代からは勿論のこと、静雄への恋心がバレて開き直ってからの臨也の猛アピールもかなり静雄を疲れさせていたことを知っている。仲が悪かった時は四六時中喧嘩して、開き直ってからはほとんどストーカーのように付きまとっていた。挙げ句どうやらこの恋は不毛だと悟った臨也は、数年前静雄に黙って渡米し逃げ出そうとしたのだ。
 こうして思い返してみても、静雄が今こうして臨也のそばにいることがほとんど奇跡のようなものだとしみじみ思う。結局臨也は渡米する直前に静雄に見つかって、その時にした「会いに行く」という約束を静雄が守ってくれたことになる。
 だから臨也は、その件に関して静雄に文句を言われてしまうと言い返せず黙り込むしかなかった。

「なあ」

 そんな臨也を見て、静雄は困ったように笑って見せた。

「なのに俺、お前が好きなんだよ。スゲーだろ?」

 ほらこういうことを言ってくる。
 指の先からあったかくなっていくような感じ。

「だから今日はそれで納得しとけ。な?」
「……シズちゃん、俺の相手すんの面倒臭がってるだろ」
「だから初めからそう言ってるだろ俺は」

 恨みがましく言ってみても、静雄には軽く笑われて流されてしまう。ずるい、と思うのに、静雄の前だとどうも上手い反論が出てこないのだ。

「ああ、それと」
「なに?」
「今日は俺が飯作るから、代われ」

 これが幸せだと分かっているからかもしれないな、と臨也は思う。幸福というのが一番人の思考を停止させる。
 ただ、このモヤモヤは恐らく罪悪感なんてものじゃなさそうだということは、臨也には既に分かっていた。




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