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生きてて良かった/後編
気持ち悪い、と言ったのだ。深夜の路地裏で、いつものように自分は標識を持って、臨也はナイフを握り締めて、殺意しかなかった。いつもの殺し合いだった。静雄の振りかざした標識を軽々と臨也が避けて、静雄越しに見える夜空に多分目を細めた。きっといつも通りの夜だった、なのに臨也が唐突に言った。好きだよ。まるで息を吐き出すように、そのくらい自然と臨也の口からついて出た言葉だった。
そんなことあるわけない。咄嗟にそう思った。そんなことがあっていいわけがない。なぜだか咄嗟にそう思ったのだ。臨也自身も驚いたような顔をして、そしてそんな臨也に気付けば静雄は気持ち悪いと言っていた。臨也が好きだと言ったように、それはあまりに自然と口をついた言葉だった。だって自分たちは憎み合っているはずで、互いに抱く感情は憎悪と殺意しかないはずだった。ずっとそんな風に思っていた。そこに僅かの好意も挟んでいい筈がないと、その時の静雄はなぜかそんな風に思った。


どうしてあんなことを言ったのか分からない。だってもしも臨也が静雄のことを好きになったら、そしてそれを静雄が認めてしまったら、これまでに憎み合ってきた自分たちの全てを否定してしまうような気がした。
このままでいい。何かを変えようとしなくていい。だから好きだなんて言って欲しくなかった。どうして今さらそんなことを言い出すのか静雄にはちっとも理解できなくて、いつもいじょうに臨也のことが憎たらしくてたまらなくなって、気持ち悪いと言っていた。

「……冗談だよ、馬鹿だなあ」

そう言った臨也の腕にはまだきっと傷なんて一つもなかった。いつもより抑揚のない声に静雄は気付かないふりをして、これからも変わらない日が続くことだけを勝手に願い続けていた。

それからも、いつも通りの日は確かに続いていた。臨也はもう静雄に好きだなんて言わなくなったし、会えば喧嘩ばかりする日ばかりが続いた。何を考えながら静雄と接していたのだろう。
上辺だけの世界に胡坐をかいていただけだったのだと静雄がようやく自分のしたことに気付いたのは、臨也が倒れたと聞いた時だった。自分で自分の腕を切ったと新羅から聞いて、これ以上ないくらいに後悔した。馬鹿だった。他の何を聞き出したわけでもないのにそう思った。

「なあ、もう少しあったかくなったら、海に行こう」

隙間から吹き込む風がほんの少し暖かくなった。夕暮れの光がカーテンをぬって部屋の中をオレンジに染める。臨也は何も言わずにシーツにくるまり続けている。

「泳ぎたくねぇなら、それでいい。いてくれるだけでいいんだ。なあ」

約束が欲しい。守ってくれなくたっていい、ただ約束をしたい。そうしないと不安で押し潰されそうでたまらない。嫌いなんかじゃなかった。でもそういうことにしていないと自分が保てそうになかった。たったそれだけだった。本当にたったそれだけのつもりだったのだ。
帰りなよ。そう言う臨也の声だけが寂しく響く。こんなに冷たいものだなんて知らなかった。たったこれだけのことなのに、こんなに深く突き刺さるなんて知らなかった。

――いつか思い出になる。

好きだと言った。初めて病室に訪れたその日、臨也の背中に向かってそう言った。長く沈黙したあと臨也は信じないとただそれだけ言って、その日はもう何も言わなかった。何度言ったって同じことで、臨也にはもう伝わらないし届かない。
いつか思い出になる。いつだったか臨也が言った。きみとおれが憎みあっていたことも、おれがきみにすきだと言ったことも、きみがこうしておれのところに来るのも、いつかきっと思い出になる。だから泣かなくたっていいし、悲しむひつようなんてどこにもない。

臨也がまだ自分のことを好きでいてくれるのだとそれで分かって、静雄は自分たちの馬鹿さに本当に泣きそうになってしまった。遠回りにもなっちゃいない。多分ここから前に進むことなんてもうない。笑い合っている自分たちを想像できない。
ただ好きなだけじゃ駄目だなんて知らなかった。傷付けたいわけじゃなかった。言い訳する相手もいないのに、誰かに責められているわけでもないのに、どうにかして楽になろうとしている自分はまだ幼い。これじゃ駄目だと分かってるのに、静雄のことを好きでいてくれる臨也にまだ縋ろうとしている。
この気持ちごと思い出にしたくないのだと、どう言ったら伝わるんだろう、分かってくれるのだろう。毎日のようにひたすら白い病室に通い続けて、応えてくれるかも分からない人間にとりとめのない話をし続ける。最後には帰ってほしいと拒絶されるだけなのに、止められそうもなかった。罪悪感なんかじゃない、だって嫌いなんかじゃなかった。


生きてて良かった。たまにでも喋ってくれる臨也の声を聞くたびに、そこにいてくれる臨也を見るたびにそう思う。何もしてくれなくたっていい、ただそこにいてくれるだけでいい。
臨也は馬鹿だと笑うだろうか。それも悪くないかもしれない。もうずっと臨也の顔をまともに見ていない。

その日もいつものように静雄が病室に入ると臨也は寝ていて、シーツの中で丸まっていた。少し考えて、窓はしめずに枕もとに座る。風はもう心地いい季節になっていて、柔らかい日の光が白い病室に差し込んでいる。

「……どこへも行くなよ」

姿を見るだけで泣きたいくらい安心する。どこにも行かないで欲しい。許してくれなくていいから、せめてそばにいて欲しい。

「好きだ」

気が付いたらそんなことを言っていて、誰が聞いているわけでもないのに慌てて口を閉じた。たとえ臨也が起きていたって独り言のようなものなのにおかしな話だ。風が吹くとカーテンが舞い上がって、静雄のすぐ隣を行ったり来たりする。病室はひたすら静かで、無性に寂しくなってしまって今日はもう帰ろうと静雄は椅子から立ち上がった。

「……もう帰るの?」

一歩踏み出そうとすると細い声が聞こえて動きを止めた。見下ろしたシーツの中のふくらみは動かない。それでも声だけが聞こえてきて、静雄は信じられない気持ちで臨也を見下ろした。

「いつもそうだね。俺が寝てると、いつも、すぐに帰ろうとするよね」

もう声なんて届かないと思っていた。静雄が何を言ったって、最後には帰って欲しいとそれだけを言われて、それをはねのけるだけの勇気がなかった。もうどれだけその体に触れていないだろう。
違う、多分、静雄が臨也に触れたことなんてなかった。一度だってなかった。

「行くなよ。ずるいよ。意気地なし」

本当にその通りだと思うと自分が情けなくて、そしてすっかり小さくなってしまったその体が愛しくてしょうがなかった。やり直せるなんて思わない。やり直したいんでもない。いま抱えているこの痛みも淋しさも全て、いつかきっと思い出になる。この温かさだけを抱えて、虚しさだけをおいていきたい。でも忘れたいんじゃない。
どう言ったら伝わるんだろう、分かってくれるんだろう。言葉だけじゃのせきれない気持ちを抱えている。理解しなくていい納得してくれなくていい、ただ分かってほしい。嫌いなんかじゃなかった、あんなことを言いたいんじゃなかった。本当はもっと、もっと先に、言いたい言葉があったのに、それを言うだけの勇気が自分になかった。

「まだここにいろよ。どかに行こうとするなよ」
「……ああ」

どんな顔をしながら言ってくれているのだろう。自分の声が情けないくらい震えていて、それがおかしくて笑おうとしたのに上手くいかなかった。

「ああ、ここにいる、ずっといるからな」

静雄はまた椅子に座り直して、何も言わなくなってしまった臨也の丸い背中をじっと見つめる。臨也、と名前を呼んでももう返事は返ってこない。それでももう一度名前を呼ぶと、かすれた声でうるさいと言った。たったそれだけで目頭が熱くなる。
たとえば今もう一度好きだと言ったって臨也は信じないんだろうし、これから先も静雄が信じられることなんてないかもしれない。それでもいい。それでもいいから、今度はそばにいてほしいと言ってくれないだろうか。そう考えていると堪らない気持ちが胸からこみあげてきて、静雄はふわりと舞いあがった白いカーテンを引き寄せると自分の瞼に押し付けた。













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生きてて良かった(君が好きで良かった)


あきゅろす。
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