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生きてて良かった/前編

何もかも白い。床も壁もベッドのシーツも、そしてカーテンも。静雄は病室の扉を閉めて、いつものように窓側の枕元に腰掛けた。ベッドからは黒い後頭部がのぞいている。思わず触れようと腕をのばしかけたがすぐにやめた。その代わりただ一度だけ名前を呼ぶ。振り向いてくれないことは分かっているし、どんなにここに座って待っていたって声を聞けることすら滅多にない。
開いた窓の隙間から冷たい風が吹いて、静雄は小さく身震いした。もう春になるのにまだ寒い。

「まだ寒いな。風邪ひいてないか?」

風が吹くとカーテンが舞い上がって、そのたびに視界を白く遮られる。来るといつも開いたままになっている窓を静かに閉めて、静雄は改めてベッドのほうに向きなおった。

「今日は仕事が昼に終わったんだ。いつもより回収が上手くいって」

それでも静雄はかまわなかった。返事すらくれないつむじをじっと見て、ただ一人で語りかけ続ける。

「聞いたぞ。お前、また腕切ったらしいな」

ろくな反応もしてくれない人間に会いに、毎日のように病院に通い続ける静雄は傍目には健気に見えるらしい。看護婦からは名前を憶えられてしまった。お友達思いなんですね、と言われるたびに何とも言えない気持ちになる。友達なんかじゃない。誰かのことを思ってやってるんじゃない。
もし静雄がそんなにできた人間だったなら、そもそもこんなことにはならなかった。ベッドの上で丸まったまま動かない背中をずっと見つめ続けるだなんて、こんなに惨めな思いをすることもなかった。

「やめろよ、病院抜け出したりすんのも、もっと監視が厳しくなるだけだろ」
「……どうして、それが君と関係あるの」
「心配なんだ。俺は、ただ……お前が、傷付いたりするのが」
「帰りなよ。君がいるの、嫌なんだ、すごく。迷惑なんだよ。帰りなよ」

もうずっと長いこと拒絶され続けている。たとえ何も言わなくたって、その白い背中が静雄の存在をはねのけているのは知っていた。自業自得なのだ。見てくれていないことだって知っているのに、それでも静雄は無理やりにでも笑うようにしていた。

「そうだな。 ……また来る」

臨也は何も言わない。背中の丸い曲線に触れようとして、それはやっぱり止めてしまった。立ち上がって静雄がその場を去ろうとしたって臨也は何も言おうとしない。病室を出るその瞬間まで、臨也は静雄を見ようともしなかった。


臨也が入院してもうどれだけの時間が流れただろう。自分で自分の腕を切って、意識を失っているのを見た誰かが救急車を呼んだ。新しいものから古いものまで、臨也の左腕は切り傷だらけだった。馬鹿なことに全て自分でやったのだ。臨也にはどうやら自傷癖があるらしいと、それを見て初めて分かった。傷そのものは数日で塞がってしまうのに、だから臨也は今になってもまだ病院から出てこない。本人は退院したがっているようだが、周囲がそれを許さなかった。放っておけばまた同じことをくり返す。新羅がそう言った。出血のショックで意識を手放したのは実はあれで三度目なのだと、押し殺したような声でそう語った。

「生きてて良かったよ。今回は本当に危なかった」

あと少しでも病院に連れて行くのが遅れていたら死んでいてもおかしくなかったらしい。それを聞いたらぞっとした。今で何度も殺し合いじみた喧嘩をしてきたのに、本当に臨也が死ぬなんて考えたこともなかった。

「こうしないと生きてけないんだって言ってた。死にそうになってるくせに、馬鹿みたいだ」

それでも新羅は臨也を無理やり病院に押し込めようとしなかったし、その腕の傷を他の誰かに喋ることもしなかった。語りながら静雄に寄越していた穏やかな目線に、静雄を責める意図はなかっただろう。これは自分たちの問題で、他の誰に何を言われる必要もない。そんな風に駄々を捏ねられる子供時代はとっくに通り越してしまっていて、だからこそ静雄はいっそ誰かに責めぬかれて、そうして許しを乞いたかった。

青白い顔で病室にいる。一度だけ、病室に訪れた静雄を寝入っている臨也が出迎えたことがあった。いつも向こう側を向いている顔が白かった。左腕は包帯で巻かれて、いつの間にか前よりずっと細くなって、浮き出た鎖骨が妙に生々しかった。こんなに真っ白な部屋でこんなに痛々しい姿になって、こんな風になるまでどうして何も言わなかったのだろう。
責められて謝りたい。そう思っていたって怖いと思う気持ちも捨てられない。宙ぶらりんなままだから、指先ですらその背中にも触れられないのかも知れない。触れたいと思うたびにいつも思う。でもこいつはそんなこと望んじゃいない。いっそ詰ってくれた方がまだ良かった。天井を向いた臨也の寝顔が静かに静雄を責めているようで、耐え切れずにすぐ病室は出てしまった。


病的に細い腕を見ると、いつもそのうち死んでしまうんじゃないかと不安になる。ポッキリ折れてしまいそうだ。こんな腕でナイフを振りかざしていただろうか。もう記憶を辿ることすら億劫になる。

「死ぬなよ」

気付いたらそんな風に漏らしていて、その時だけは臨也ももぞりと身動きした。今日は自分の腕を切らなかっただろうか、今日は病院を抜け出そうとしなかっただろうか。そんなこと不安ばかりを抱えながら枕元に座っている。今日はここにいてくれる、でも明日はいないかもしれない。自分の考えに押しつぶされそうになっているくせに考えるのを止められない。
こっちを見てくれなくてもかまわない。だからせめてどこにも行かないで欲しい。考えるだけで堪らなく苦しくなるのだ。息苦しくて堪らなくなる。

「死のうと思ってるんじゃないよ、馬鹿だなあ。いつだって俺は、生きるのに必死だよ」

頼りない体に取り縋りたくなる静雄の気持ちなんて臨也が知るはずもないし、だから自分の腕を切り続ける臨也の気持ちを静雄が知るはずもない。

「生きる意味って考えたことある?」

臨也がほんの少しだけこちらに顔を向けてくれて、青白い頬が静雄にも見えたが表情までは分からなかった。こっちを見て欲しい、と言ってもきっとそうしてくれない。触れたいと願った指先がピクリと動いただけで、静雄だって何もできずに今日も真っ白な部屋で臨也の枕元に座っている。

「俺はね、あるよ。君は信じないだろうけど、ねえ、何だと思う?」
「……さあ。教えてくれ」
「君と会えたことだよ」

心臓を直接つかまれたみたいに苦しくなって、堪らず静雄は両手で顔を覆った。苦しくて吐きそうだ。だが向こうに顔を向けた臨也は気付かないまま、同じ調子で喋り続ける。

「君と会えて、君を好きになって、良かったって思ったんだ。信じないだろ?」
「好きだ、臨也……好きだよ」
「生きてて良かったって思った。本当にそう思った。信じないだろ?」
「臨也、聞いてくれ」
「帰りなよ。君がいたって仕方がない」

少し開けた窓の隙間から風が入って、柔らかくカーテンが舞い上がる。外はあんなに良い天気で、暖かい日差しも差して、光で満ちてて、なのにどうしてこんなに惨めで泣きたいくらい寂しいのだろう。信じてると言ったって信じられることはない。好きだという言葉は届きもしない。触れる勇気すらないのだから自分の意気地のなさには嫌気が差す。













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生きてて良かった


あきゅろす。
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