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アグリーワールド4

だから正臣が店を辞めた時、臨也は実を言うとほんの少しだけ寂しかった。少なくとも、部屋の蛍光灯が一つ点かなくなってしまったその次くらいには。

「嬉しいなあ、正臣君が俺のことを気にしてくれるなんて。でも残念、俺は脱走犬でね。ご主人様は変わってないんだよ」
「……は?」
「明日にはまた店に戻る。お迎えが来るだろうから」
「まさか、逃げたんですか? あのアンタが? 俺はてっきり……」
「君みたいに自分で自分を買えるほど、俺はお安くなくてね」

部屋付きはこれだから面倒だ。あの店から後腐れなく縁を切れる唯一の方法。
それは、自分を誰かに買ってもらうことだ。

当然だが、人気が高いものほどその値段も高い。そして店の稼ぎ頭の臨也は、ちょっとやそっとの額では身請けできないほどに桁外れの値段が付けられていた。店を辞める一、二ヶ月前から、正臣が店や客に反抗的な態度を取っていた理由はこれだ。わざと自分の価値を下げていたのだろう。
そして正臣は自分で自分を買った。並の精神ではできないことだ。少なくとも臨也には無理だ。自分で自分を引き摺り下ろすなんて、とてもできそうにない。
それは我ながらみっともない矜持だった。生きる邪魔にしかならない枷だった。

「違います。そうじゃなくて、だってアンタなら、いくらでも買い手はいるでしょう」
「そうだね」
「使い物にならなくなる前に、適当な人に買ってもらう。それが一番賢いやり方だって、アンタが自分で言ってたんですよ。それをまさか、逃げ出すなんて」
「俺もヤキが回ったらしい」

ある日思った。そうだ、ここを出よう。そうして自分の好きに生きよう。
どうして唐突にそう思ったのか分からない。ただ衝動的に、ここを出よう、そしてそれは今しかない。まるで何かに憑りつかれたみたいにそう思った。

店から脱走しようとする馬鹿というのは定期的に出てくる。それが成功する確率がどんなに低くても、その後にどんな仕打ちが待っていても、そういう無謀を考える人間は一定数いる。
そしてそれは臨也にも当て嵌まったということなのだろう。

今考えると本当に馬鹿だ。成功するとでも思ったのだろうか。自分と他は違うとでも思ったのだろうか。
臨也が逃げ出したとなれば、店側は血眼になって臨也を探そうとするに決まっている。それが分からないわけではなかったのに、所詮は臨也もその他大勢の馬鹿と同じだったということだ。
もう盛りのついた犬を馬鹿にできない。本当にどうかしてしまった。

「ねえ正臣君、沙樹ちゃん、かわいいね」
「…………」
「君のこと、凄く好きみたいだ。それで感謝もしてる。君のおかげで、世界が綺麗に見えるって」
「……馬鹿にしてた癖に」
「うん。ねえ、正臣君」

俺はどうするべきだと思う?
そんな質問をして何になるだろう。臨也は少しだけ考えて、正臣の真っ直ぐな目をじっと見返した。昔からこういう目をする子だった。正臣の目に臨也はどう見えているのだろう。

また考え直して、臨也はそばに落ちている肥料の入った袋に目を落とす。今日は夕方から雨が降りそうだから、水はやらなくていいと言われていた。

「そういえば俺、仕事中だったよ」

正臣はキョトンと目を大きくして、それからガシガシと乱暴に頭を掻いた。別に好かれたいとは思っていない。客以外の人間から好かれたって何の意味もない。本気でそう思っていた。
深く溜め息を吐いて、正臣は臨也に背中を向けた。これで多分見納めだ。そう思うと、どうしても最後に声を掛けずにはいられなかった。

「正臣君、きっと君は、初めからこっち側の人間じゃなかった」

正臣は足を止める。臨也さん。正臣は臨也を呼んで、首だけこちらを振り返った。
面倒な子だな。自分で呼んでおきながら、その胡乱げな目を見て改めてそう思う。

「アンタはいつまでそうやって、自分の生き方に言い訳していくつもりなんでしょうね」

言うだけ言ってさっさと行ってしまう正臣に、臨也は思わずありがとうと呟いていた。
それはまるで、自分を肯定してくれているように臨也には聞こえた。










コンコン、と玄関の扉を叩く音がして、臨也はまとめた荷物もそのままに立ち上がった。昨夜は一晩中雨が降っていたが、今日は快晴だ。
空気も暖かく、空も綿菓子みたいな白い雲が浮かんでいる。憎たらしい快晴だ。

せめて土砂降りの雨だったなら格好もついたのに、全く皮肉なものだ。
臨也はドアノブから手を離して、仕方なく目の前の男と目を合わせた。どうせならいっそ殴り倒してしまおうか。そんな風に思えたのはほんの一瞬で、そうすれば今度はもっと都合の悪い人間が臨也を追って来るだけに決まっている。

「やあ臨也、御機嫌よう」

扉を開ければ、想像通りの人物が憎たらしいほどの笑顔で立っている。新羅は臨也の部屋を覗き込むと、満足げに頷いた。

「ちゃんと待っててくれたみたいだね」
「……当たり前だ」
「ここで大人しくしてたってことは、きっと腹は括ったんだろうね?」

何をとは新羅は言わない。言われなくとも臨也には分かっている。

「殺されたら堪らないからな」
「はは、まあまあそう言わず」

緩い風が吹いて、ふわりとカーテンが舞い上がる。差し込んだ光が部屋に差し込んで、臨也はその穏やかな光に思わず目を細めた。
なんて美しい世界だろう。そして臨也の生きる世界の、なんて醜いことだろう。

「そうだな、まずは行ってほしい所がある」

帰ったらきっとまずは折檻だ。夜に体を売って、昼に眠りにつく。そうして汚い世界で生きていく。
だが仕方ない。その生き方を臨也が選んだ。今さらになって、他の誰かのものになろうと思えない。そうするのが賢いと頭では分かっているのに、もうそんな風に思えなくなってしまった。

こんな筈じゃなかった。誰かに抱かれるたび、それとは違う人間の顔が浮かぶ。名前を呼ばれるたび、あの低い声が蘇える。
抱き合ったことなんて一度もないのに、人ごみの中に馬鹿みたいにあの姿を探す。この世界では愛が人を殺す。

「行こう、臨也」

生きてくんだ。
醜い世界で、それでも。








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アグリーワールド



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