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アグリーワールド3
朝日が部屋に差し込む頃に目覚める。それを新鮮に感じてしまうのだから、臨也はやはり自分が寂しい人間であるように感じてしまう。
昼間外に出て動き回ること自体が数年振りだ。墓場のような世界だと思っていたのに、光が当たっているとういうただそれだけで、なるほど、確かに世界は美しくも見える。

ドブネズミみたいに生きてきたから、多分それだけのことが物珍しく思えるのだろうと思う。
昼に眠って夜に目覚める、そんな生き方では分からないことがある。太陽の光を温かいと感じられたのはいつ振りだろうか。どうせならこの中で生きたい。地上に出てしまった後じゃあ、またマンホールの下に潜り込む気にはとてもなれない。

「今日が最後ですよね?」
「よく覚えてるね」

車椅子の少女は今日も来た。箒で落ち葉を集める臨也のそばにやって来て、いつものように屈託なく笑う。

「臨也さんがいないと、寂しくなるなあ」
「だったら安心だね。あと六日延ばしてもらったところだ」
「え? 本当?」

嬉しそうに声を上げて、沙樹は身を乗り出した。不自然なくらいの喜びようだ。どうしてそんなに臨也に拘ろうとするのか分からない。ただの気紛れや暇つぶしにしたって、話し相手ならこの病院には掃いて捨てるほどいるだろうに。
そもそも沙樹には恋人がいるはずだ。そっちに相手をしてもらえばいいのに、なぜ臨也に構おうとするのだろうか。

次の日もその次の日も、やっぱり沙樹は臨也に会いに来る。臨也が花壇に水をやっていても、その辺りのゴミを拾っていても、木の枝の間引きをやっていても、必ず臨也を見付けて会いに来る。大した執着だった。臨也も感心せずにはいられない。

「君、もしかして恋人と上手くいってないの?」
「どうしてですか?」
「毎日俺に会いに来るから」
「……あはっ」

言った途端に沙樹は笑い出す。元々箸が転がっても笑い出すような子ではあったが、こんなに愉快そうに声を上げるのは珍しい。

「臨也さん、変なの。大丈夫ですよ。心配してくれたの?」
「……いや、なんで君がそういう発想になったのか分からないんだけど」

本当に分からない子だ。沙樹はクスクスと笑って、いつも以上に上機嫌そうにしている。
リアカーで腐葉土を運ぶ臨也に車椅子で着いて来て、その内鼻歌まで歌いだした。思わず立ち止まってしまうと、鼻歌を止めてキョトンと臨也を見返す。

「その歌……」
「ああ、平和島静雄のビューティフルワールドです。音痴だから恥ずかしいんですけど」
「その歌、好きなの?」
「はい。凄く」

沙樹は嬉しそうに頷いた。

「特に歌詞が好きなんです。『君がそう望むからこそ世界は美しい』って、初めはよく意味が分からなかったんですけど、段々そういうものなのかもなって思えるようになってきて。ちょうど手術が終わったばっかりだったから、余計にそう思ったんです、きっと」
「……そういえば、死んでる筈だったって前に言ってたね」
「はい」

沙樹はそれ以上何も言わなくなって、臨也もまた歩みを再開した。後れて沙樹もついて来る。頭にはさっきの歌が離れない。

ビューティフルワールド。最近になってますます人気を得ている平和島静雄のデビュー曲だ。
音楽をほとんど知らない臨也でも知っている。だってその曲は、静雄が臨也にくれたものだ。静雄から直接聞いたのはどのくらい前になるだろう。ラブソングと言えるのかも怪しい歌詞で、ただひたすら世界の美しさを歌っていた。
だからあの時の臨也は思ったのだ。くさい曲。所詮は綺麗事だ。

待っていると静雄が言った。臨也が聞いたわけではないが、そう言っていたらしい。
だがもうこんなところまで来てしまった。今更になって、あの背中に追いつけると思えない。今や平和島静雄の名前は街中の至る所で聞くことができる。随分と遠くまで行ってしまった。手を伸ばしてももう掠りもしない。

「私、本当に嬉しいんです。生きてるだけで嬉しい。もう死んでもいいって思ってた時もあったのに、その時はどの花を見たって同じ色に見えたのに、今は意地でも生きてやるって、そういう気分で。花が咲くのも楽しみで」
「ふうん。単純なんだね」
「その方が生きやすいんです」
「賢く生きるのは大事だと思うけど」
「今、わざと話を逸らしましたよね?」
「うん。よくできました」

君がそう望むからこそ世界は美しい。自分の足で立って歩く臨也の後を、沙樹は車椅子で必死について来る。たまに立ち止まって振り返ると、嬉しそうに、そしてからかうように笑って、臨也を何とも言えない気持ちにさせる。

あと三日だ。
あと三日で、臨也は自分の生き方を決め直さなければならない。

新羅の言いたいことは分かる。正式な手続きを踏んで店から完全に抜け出す方法を、確かに臨也は知っている。そして臨也には多分それができる。少し前の自分ならそうしたかもしれない。たとえそれが結局また自分の自由を奪うことになるとしても、いつまでもあんな場所に留まるよりはマシに思えた。
でももう無理だ。きっと無理だ。この世界は愛が人を殺す。

臨也は半分諦めかけていた。もうほとんど意味を成さなくなってしまった仕事を今も続けているのは、せめて今見えるこの世界を少しでも記憶に収めておきたかったからだ。





明日で世界が終わる。
いつものように臨也が病院の庭で花壇の土を弄っていると、今日はいつもより幾分低い声が臨也の名前を呼んだ。聞き覚えのある声に振り返ると、やはり見覚えのある顔が後ろに立っている。

「やあ、久し振り」

先にこちらから軽く声をかけてみると、まさに不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。「老けるよ」臨也は軽口を叩いてみた。冗談のつもりだったのだが特に笑いを取ることもなく、むしろいよいよ不機嫌の色を濃くしていく。相変わらずだ。なぜだか臨也は安心した。

「やっぱり、正臣君はそうこなくっちゃね」
「何言ってんですかアンタ」

ああ、懐かしい。ずっと君を待っていたような気さえしてくる。

「今日は沙樹ちゃんじゃないんだね」
「……気付いてましたか」
「うん、そりゃあね」

ハンドスコップを花壇の煉瓦の上に乗せて、臨也はズボンの土を払いながら立ち上がった。口には穏やかな笑みが浮かんでくる。
嘘でも偽りでもなく、正臣に会えたということが自然と臨也にそうさせていた。会いたいと思ったことは一度もないのに、分からないものだ。

「何か用? 悪いけど、俺はこれでも仕事中でね」
「時間は取りません。ただ、アンタが飼われるなんて、一体どんな男を見付けたのかと思って」
「おや」

何て可愛いことを言ってくれるんだろう。
自分が嫌われていることは十分承知しているが、こういうところがあるから臨也のほうは正臣を嫌いになれない。捻りのない減らず口も下手くそな皮肉も、つまらない日々を消費するだけの臨也の心を楽しませてくれる。
子犬がキャンキャン吠えているようで可愛らしい。恐らく怒るだろうからやらないが、その頭を両手で撫でてあげたいくらいだ。








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アグリーワールド



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