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君がくれたもの全て
静雄の家には基本的に客は来ない。いつも臨也は静雄と二人きりで、静雄が出かけてしまえば臨也の一人きりになる。だから、静雄が「今日は昼から客が来るぞ」と言い出したのには驚いた。

「誰? 前に一回来た、弟?」
「……いや」

ああ聞くべきじゃなかった、とすぐに臨也は後悔する。最近は慣れてきてしまったのか、以前と比べれば随分と静雄に突っ込んだことを聞くようになってしまった。そうすれば静雄は大抵のことは答えてくれたが、たまにこうやって、何とも言えないような顔をして言い淀むことがある。それは多分、聞かれたくないことに臨也が触れた時だった。

「あ、ごめん」
「……アイツじゃねえ。まあ、悪い奴じゃねえから、変に気を張るなよ」

もういつも通りの静雄だ。だから臨也もいつも通りに答える。

「……俺、その人来たらベッドに潜ってるから」
「お前な……いや、まあいいか。とにかく俺以外の奴が来てもビビるなよ」

無理だよ、と言いかけて、その言葉は寸でのところで呑み込んだ。困らせたい訳ではないのだが、臨也も静雄という人間に慣れてきたせいかつい我が侭を口にしてしまう。静雄に捨てられれば今度こそ生きてはいられない。





昼頃になると、珍しく家の戸を叩く音がした。静雄が言っていた来客だろう。見付かる前に臨也が慌てて寝室に逃げ込むと、それから遅れて玄関の戸が開く音がして、すぐに話し声が聞こえてきた。女だろうか。なんだか随分と騒がしい気がする。
何にしても、他人なんかとは関わり合いたくなかったのでそのままベッドに潜り込んで息を潜めた。帰ってくれるまでこうしていようと思ったのだが、数分もすると聞き慣れない男の怒鳴り声が聞こえてきて、それと同時に大きな足音がこちらに近付いて来た。

「――なに?」
「イザイザー!」

鍵をかける前の扉が勢いよく開かれて、布団から飛び出してしまった。部屋の中に見たことのない女が入って来る。思わずベッドの上で後ずさると目が合って、二コリと笑われたかと思うとそのまま両手を胸の高さあたりで握られた。

「ひっ」
「イザイザでしょ? 君が噂のイザイザなんでしょ!?」
「なに、誰……」
「狩沢あ!」

また知らない、今度は男の声だ。次の瞬間にはもう部屋の中に入っていて、あっという間に女を臨也から引き離した。オールバックの背の高い男だ。両手を掴まれて動きを塞がれた女は、何かを叫びながらジタバタと暴れている。そうこうしている内に静雄がやって来た。

「狩沢、手前なあ……」
「悪い静雄! 俺が目を放したせいだ!」
「はなしてよドタチン! 私まだイザイザに何もしてない!」
「もう十分しただろうが! 頼むから大人しくしててくれ!」
「……いや俺が悪い気もする……って、聞いてねえか」

言い争いを始めた二人を尻目に、溜息を吐きながら静雄が臨也のほうに歩いて来た。「悪いなあ」と謝りながら、臨也の頭をポンポンと撫でる。

「まさか乗り込んで来るとは思わなかった」
「……何、アレ。誰なの」
「あー、まあ後でな。とにかく悪かった」

まだ心臓がバクバクいっている。誰だアレは。知らない。静雄以外の人間をこんなに間近で見るのは久し振りだ。誰だろう、まさか、臨也を"買い"に来たのだろうか。それとも、あの家から逃げ出したことがバレたのか。嫌な汗が流れる。
嫌だ、まだ捨てないでほしい。もうあの生活には戻りたくない。今の静雄との暮らしを知ってよく分かった。あの家は地獄だった。今のキラキラした世界に比べれば、なんて薄暗く狭い世界だっただろう。もう戻りたくない。その為なら何だってする。何だって――。

「……臨也」

温かな手の平が臨也の額に触れる。穏やかな声で名前を呼ばれて我に返ると、静雄が臨也の顔を覗き込んでいた。それを見て何故かまた女が騒ぎ出す。静雄が言った。

「どうした? 顔色が悪いな」
「……別に、何でも」
「キャーッ! 何々!? 二人ってそういう関係なの!? 二人きりの愛の巣で愛を育んでる感じなの!? 私にもその様子をもうちょっと……むぐっ」

捲し立てていた女の口を、もう一人の男が塞ぐ。静雄も臨也から手を離して、呆れたように息を吐いていた。

「狩沢は相変わらずだな……」
「すまん静雄、俺も手一杯だ」
「いやいい。やっぱり場所を変えて、外に出よう。それなら大丈夫だろ。いいな、狩沢」
「えー! まだシズちゃんとイザイザのラブラブ事情を聞いてないー!」
「狩沢! お前はもうちょっと自重を覚えろ!」

騒ぐだけ騒いで、見知らぬ男と女は静雄と共に部屋を出て行った。出て行く間際、静雄には「一時間で戻る」と頭を撫でられた。アレは好きだ。優しいから。
三人分の声が完全に聞こえなくなってから、臨也は壁に掛けてある時計を見る。時計の見方も静雄から教わった。今はお昼の少し前だ。静雄が戻ると言ったのだから、きっと静雄はまたここに戻って来てくれるのだろう。いつだって、静雄が臨也に嘘を言ったことはなかった。


静雄がいないとすることがない。平仮名とカタカナは全て覚えてしまった。今は漢字の練習をしているところだ。それと併せて数字の計算もやっている。臨也がやりたいと言ったことは、静雄はできる範囲なら全て答えようとしてくれていた。臨也に触れる手も優しい。だから静雄のことは好きだ。拾ってくれた恩人だとかそういうことを抜きにしても、多分静雄のことは好きだと思う。なのに静雄の言う"好き"の意味は分からなかった。臨也にはまだ、この世界は眩しすぎる。
そういえば、さっきの二人は結局誰だったのだろう。女をあんなに間近に見たのは久し振りだ。もう一人の男とは違って、なんだか変なことばかり言っていた。臨也と静雄に変な呼び方をしていたし、それに"愛"がどうのこうのとも言っていた。何を言いたかったのだろう。女というのは、ああいう訳の分からないことを言うものなのだろうか。

静雄がくれた本を読んで時間を潰していると、一時間もせずに静雄が帰ってきた。扉が開く音がして、臨也は玄関に駆け寄る。

「おかえり」
「……ただいま、臨也」

これも、静雄から教えてもらったものだ。正直どういう意味があるのか臨也には分からないのだが、これを言うと静雄が嬉しそうな顔をするので、外から静雄が帰って来た時にはなるべく言うようにしている。
靴を脱ぎながら、土産がある、と静雄は鞄の中に手を入れた。臨也はこの"おみやげ"が好きだ。外の世界から面白いものを持って来てくれて、退屈を紛らわせてくれる。この前は変な形をした人形だった。その前は様々な風景を取った写真だった。更にその前は、白くてふわふわした甘い食べ物だった。

「何?」
「図鑑だ」
「ずかん? 何それ?」
「お前、動物に興味があるみたいだったから」

静雄は分厚い本のようなものを取り出すと、そのまま臨也に手渡した。表紙に書いてある漢字は読めなかったが、平仮名で「どうぶつずかん」とルビがふってある。ドアップで映っている毛がフサフサの動物は、いつかテレビの中で見たことがあった。名前は忘れてしまったが、他の動物を捕まえて食べていたのが印象的だった。

「本当なら動物園とかに行くのが早ぇんだろうけど、お前は嫌がりそうだからな。うちで何か飼う余裕もねえし」
「……写真がいっぱい載ってる」
「図鑑だからな」
「うわ、何これ、変な形」
「そりゃヘビだ」
「これは? 鳥?」
「コウモリっつうんだよ、鳥じゃねえ。書いてあるだろ」
「……読めない」

簡単なものならともかく、臨也はまだ漢字のほとんどを読めない。臨也が言うと静雄は少し気まずそうな顔をして、それじゃあ一緒に読むか、と家の奥に入って行った。臨也もその後を追う。
何日か前、たまたま見たテレビが動物特集というものをやっていた。生まれてからほとんどの時間を薄暗い地下の中で過ごした臨也は、人間以外の生きた生物を見たことがほとんどない。ネズミならときどき見かけていたが、それだけだ。だから人間とは全く違う姿をしている動物は臨也にとって珍しかった。食い入るようにテレビの画面を見つめていた臨也を、静雄は覚えていたのだろう。

立ったまま本の中の動物に夢中になっていると、座って見ろ、と静雄に手を引かれた。いつもご飯を食べる部屋に入って、ソファに2人で並んで座る。臨也が図鑑に見入っていると、静雄は時たま横から口を出した。それはこの辺にもいるとか、それはこの国では見られないとか、そういうことを言いながら2人でずっと図鑑を眺めていた。

「……こういう動物って、ここでは見れないの」
「まあ、ライオンだの象だのがその辺ウロウロしてたら困るしな」
「ふうん」
「……お前が、外に出てもいいっつうなら、いくらでも見せてやるけど」

臨也は答えない。静雄が好意でそう言ってくれているのは分かっていても、それでも頷けなかった。静雄もそれを分かってくれているから、それ以上は何も言わずにいてくれている。
甘えていると思う。臨也はそれを自覚し始めていたし、静雄が望むなら何だってこたえたいという思いもある。

愛だ、とそういえばあの女は言っていた気がする。触れることも見ることもできないのに、臨也は静雄が一番望んでいるものはこれだと知っている。だって何度も繰り返すのだ。愛してる。その度に臨也は分からないと言うしかないのに、そしてその度に静雄は悲しそうな顔をするのに、それなのに何度だって繰り返した。愛してる。愛してるんだ臨也。
同じ言葉を繰り返すだけなら臨也にだってできる。でもそれでは意味がないと言うことも知っていた。いくら臨也が「俺もだよ」と言ってみても、静雄は余計に悲しそうな顔をするだけで、少しも嬉しそうにしない。それじゃあ意味がなかった。静雄が笑ってくれないなら、何をしたって臨也には意味がない。

「……ねえ」
「あ?」
「シズちゃんって何?」

あの女が静雄のことをそう呼んでいた。臨也のことは、確かイザイザと呼んでいたと思う。静雄は静雄だし、臨也は臨也だ。
静雄はほんの少し困ったような顔をすると、躊躇いがちに言った。

「……まあ、愛称っつーか、あだ名っつーか」
「あだ名って?」
「あー、つまりこう、親しみを込めて、人の名前をちょっと変わった呼び方をすること、か?」
「親しみを込めるって?」
「……仲良くするみたいな意味だ」
「ふうん」

臨也は自分の膝に乗せた図鑑に目を落とした。まだ実際には見たことのない動物の写真が載っている。少し考えてから、臨也は顔を上げた。

「……シズちゃん」
「あ?」
「シズちゃん」

静雄は呆気にとられたように口を開けたまま何も言わなくなってしまって、臨也にはそんな静雄が少しだけ可愛く見えた。相変わらずセックスはしない。それは愛ではないからと、キスすることすら嫌だと言う。だから体を開くことしかしてこなかった臨也にできることなんて限られていて、それでも静雄に何かを返したかった。
でも黙りこくっている静雄は、臨也の今の行動を快くは思っていないのかもしれない。ごめん、と謝ろうとした。でも口を開けて言いかけた瞬間に、臨也はもう静雄の腕の中にいた。

「何?」
「待つから」
「……何を?」
「待ってるから、臨也。だからいつか」

その先は聞かなかった。聞けなかった。

静雄が臨也に教えてくれるもの、与えてくれるもの、こうやって抱き締めてくれること、名前を呼んでくれること。その全てが、臨也にとっていつの間にか手放しがたいものになっていたのだ。
愛だとかなんだとか、そんなこと言われたって臨也には少しも分からない。でもこの気持ちだけは本当だった。できればそばにいたい。こうやってずっと、静雄のそばで生きていたい。こんな風に思う自分が信じられなかった。生きるのも死ぬのも変わらないと思っていたのに、静雄の近くにいるだけで世界が煌めき出した。

「臨也、愛してる」

だから思うのだ。きっとどこへだってついて行く。本当は待ってくれなくたって、望んでくれるなら海の底でも躊躇わない。こんなに光に溢れた世界だった。静雄が気付かせてくれたのだ。愛すら分からない臨也に教えてくれた。
優しい声で名前を呼んでくれる、たったそれだけのことで。













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君がくれたもの全て(もしかしたらそれこそが本物の)


あきゅろす。
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