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春はまだ来ない/後編

「――捕まえる、ねえ」

 静雄が出て行った後の部屋で、男は淡々と一人ごちた。「無理だと思うけどなあ」ふわあ、とついでに欠伸もする。
 ついさっきまで静雄と話していた新羅は頭をかくと、つまらなさそうにな顔で鏡を外した。パチパチと数回瞬きをして、白衣もさっさと脱ぎ捨てる。

「だって、こーんなに近くにいたって全然気付かないんだから。ねえ、君もそう思うだろ?」

 眼鏡を弄りながら振り返りもせずに言う。その口元は笑っていた。

「もう隠れなくていいよ、帰ったから」
「……ねえ、俺を巻き込むの止めない? 見付かったら殺されるところだ」
「何言ってんの。そのスリルが堪らないんじゃないか、そうだろ? ――新羅」

 ニヤリという擬音の似合う顔で“新羅”が笑うと、それを見た“新羅”は呆れたように深く息を吐く。返して、と右手を出すと眼鏡が放り投げられた。慌ててそれをキャッチする。

「いやあ、ご協力ありがとう。制服姿のシズちゃんをこんなに近くで見たのは初めてだ」

 カツラを脱ぎながらカラカラ笑う。その顔は岸谷新羅そのものだが、カツラの下から現れた髪は静雄のそれよりずっと明るい金髪だ。声真似も止めた今、もうこれを岸谷新羅と勘違いする者はいないだろう。声は折原臨也そのものだった。

「臨也さあ、もしばれたらどうするつもりだったわけ? 静雄相当怒ってたろ?」
「ふん、あの筋肉ゴリラに、俺の完璧な変装が見抜ける訳ないだろ。実際ばれなかったわけだし」
「運が良かったんだ」
「違うね」

 臨也は両手で顔を覆って俯いた。数秒して顔を上げると、そこには新羅の顔に代わって臨也の顔が現れる。本当に大したものだと新羅は感心した。これでは静雄でなくともそう簡単には見破られない。そのうえ声真似まで完璧ときている。

「あの筋肉馬鹿、まだ俺のこと捕まえようとしてるんだね。無駄なのに」

 言いながら今度はコンタクトを外す。赤い目が細められて、新羅は思わず目を覆いたくなった。その目の色と髪の色があまりにミスマッチなのだ。

「ねえ臨也、その髪の色止めなよ。似合ってない」
「おや、またピンクに戻そうか? それとも緑がいいかな」
「趣味が悪い。別に黒髪のままでもいいだろうに」
「良くないよ。俺は死んでも警察には捕まりたくないんだ。死んでもね」

 臨也はひたすら人を騙す。金を騙し取るのではない、人の心を狩ろうとする。その結果金が付いてくるのだ。反吐がでるような人生だと、外からその生き様を眺めるだけの新羅も思っていた。それでも静雄のように臨也を更生させてやろうとは全く思わない。友情云々というより、無駄な努力と分かり切っているし、見返りが一切ないのも頂けない。

「最近では海外に飛ぶだけでも一苦労なんだよ。やな世の中だよね全く」
「良い世の中だよ。今は何やってるの?」
「大人しいもんさ。インサイダー取引で二億儲けた」

 臨也の「大人しい」は金額に関係しない。どれだけ人の心を引っ掻き回せたかが、臨也にとっては最も重要なことなのだ。ここまでクズだといっそ清々しいと新羅は思うのだが、どうも静雄は許せないらしい。そこがまた静雄の良いところでもあり、そして迷惑なところでもあった。

「そういえば、静雄が君にハメられかけたって怒ってたけど」
「……ああ、あんなのただのお遊びだよ。シズちゃんに化けて銀行の監視カメラに映っただけなんだから。どうせすぐに違うって分かっただろ? 後からだってばれるようなら完全犯罪とは呼べないよねえ」

 論点のずれを正す気にもなれず、新羅は臨也から白衣を取り返した。臨也は今にも鼻歌を歌いだしそうなほど上機嫌だった。別室に隠れていた新羅は、臨也と静雄が何を話していたのかは知らない。あの臨也が新羅に扮した状態でやたらな発言をするとも思えないから、静雄から何か言い出したのかもしれない。
 あの臨也の機嫌が良くなるのだから、ロクな話題だったとも思えないが。

「静雄と何を話したの?」
「詐欺ってのはね、新羅、そうと気付かれない内に姿を消すのが一番賢いんだ。あとは不必要な嘘を言わない」
「君の構ってちゃんも大概にしたほうが良いと思うよ」
「例えば結婚詐欺のコツは、絶対に“結婚”という単語は使わないことさ。相手をいかに錯覚させるかが勝負なんだよ」

 臨也は新羅から勝手に剥ぎ取った服を更に脱いでいく。国際指名手配までされているあの大物詐欺師の間抜けな下着姿に、新羅は溜め息しか出てこなかった。突飛で大胆な行動に躊躇がないのは昔と同じだ。大学時代、十人分の代返を自在に声色を変えて成功させたという死ぬほど下らない自慢話を臨也がしていたことを不意に思い出して、新羅は無意識に息を吐いた。

「臨也、いい加減戻ってきなよ」
「どこに? 住む場所なら世界中にある」
「君が何をどうしたって、静雄は君を諦めないよ」

 ふん、と臨也は鼻を鳴らす。見下すような顔を作った。

「今のシズちゃんに俺が捕まえられるもんか」
「捕まえてほしいの?」
「まさか」

 臨也は鼻で笑う。人を嘲るようなその目の奥に、新羅は外からでは測り切れない感情の渦巻きを見た。
 外見ばかりをコロコロと変えているが、根本的なところはいつまでも同じだ。いくらでも衣を重ねて外から見えないようにしているくせに、気付いて欲しいと叫んでいる。どれだけ叫んだって、伝わらなければ意味はないだろうに。

「アレは駄目だ、とんでもない臆病者だ。シズちゃんは怖がってるだけなんだよ。人間は変わるんだ、チーズだってバターだっていつかなくなる。俺はいつまでも同じ部屋でグズグズしてるのなんて御免だね。サンタクロースに会いたいなら、夜中にベッドの中で息を潜めるより、クリスマスツリーの下で待ち伏せする方がよっぽど効率がいい」
「静雄はロマンチストなんだ」
「それ、フォローのつもり?」

 臨也は呆れたように言う。もう既に着替え終わっていた。黒スーツなんてものを着ているせいで、ホストにしか見えなかった。

「そう言う君だって小心者だろう? 引っ込みがつかなくなったからって、本物の犯罪者にまでなる必要はなかったのに」
「別にそういう訳じゃない」
「そうかな。僕には、君が引き際を見失っちゃっただけに見えるけど」

 馬鹿みたいなサークルがあるんだ、と四月の大学入学当初に臨也が笑いながら言っていたことを新羅は思い出す。名目はテニスサークルだが、集まっているのはガラの悪い男ばかり。適当な女を誘っては、適当なアパートに連れ込んでいるのだと言っていた。
 ――強姦サークルってとこかな。馬鹿だよねえ、実に馬鹿。まともなやり方じゃあ女の子とセックスもできませんって、自分から言ってるようなもんだ。可哀相に。
 その時の臨也の愉快そうな顔といったらなかった。まさに獲物を見付けた獣の顔だ。そこに愉悦も滲ませて「俺、そこに入ってみたんだよね」、と臨也は言った。新羅はぎょっとしたが、勿論臨也が強姦だなんてモノに手を出す筈もない。たとえばか弱いと思ってた女の子がキックボクシングの名手だったら、たとえば女の子を犯そうとした瞬間何故か部屋が火事になったら。臨也は楽しそうに新羅に語った。
 ――まあ、これくらいのクズの集まりなら俺も罪悪感とか感じる必要ないし、好きにさせてもらうよ。楽しみだなあ、楽しみだなあ。自分たちが嵌められたって分かった時、あの人たちはどんな顔をしてくれるのかなあ?
 そして、これが過ちの始まりといえば始まりだ。何の事情も聞かされていない静雄からすれば、臨也はただガラの悪い連中とつるみ始めたようにしか見えなかっただろうし、臨也の策略でなくなったそのサークルは被害者のように見えただろう。
 臨也に騙されて、サークルが一つ潰された。
 何がややこしかったのかといえば、文字面だけ見ればこれはまさに真実そのものだということだ。臨也に哀れな女の子を救ってあげようだとか、犯罪者を裁いてやろうだとか、そういう意識が働いていなかったのも問題だったかもしれない。

 怒り狂った静雄は臨也を問い詰めたが、臨也は何かを釈明することもなくヘラヘラ笑うだけだった。そうするとますます静雄は臨也を何とかしようと躍起になる。だが勿論それで臨也が改心する筈がない。更に静雄は臨也を敵視する。それからだ、臨也が人を騙すことに腐心するようになったのは。
 大学まで辞めるからますます静雄が勘違いするんだ、と諭したこともあった。だが臨也はそれさえ笑い飛ばす。静雄の怒りも心地いいと言わんばかりの態度だった。最後にサングラスをかけて、臨也は新羅を振り返った。こうなってくるとチンピラだ。

「新羅さあ、昔、三人で花見したこと覚えてる?」
「え、そんなのやったっけ?」
「……だよねえ」

 臨也は頷きながら言った。「普通はそんなもんだ、大した思い出でもない」携帯を両手で開いたかと思うと、そのまま真っ二つに折った。

「シズちゃんがロマンチストなら、俺はリアリストだ。この間の株の買い占めて、どこの企業を牛耳ってやったと思う?」
「どうでもいいけど、その携帯ちゃんと持って帰ってよ」
「置いて帰らせてよ。もうコレを持ち歩きたくないんだ」
「君らしくないね。もしかして特定されたの?」
「念のため、だよ」

 口元だけで笑う。臨也は目的のためならいくらでも人を騙す、自分を偽る。世界中の警察にも追われ、決まった居場所すらなくなった。折原臨也は自分を誰にも見付けさせない。

「ねえ臨也、やっぱり髪の色戻しなよ」
「どうして」
「変装ならカツラで充分だろ」
「俺は完璧主義者なんだ」

 そう言う臨也の姿は少し寂しげにも見えた。そうであって欲しいという新羅の願望がそう見せただけかもしれない。あの臨也が、そう簡単に自分の中身を曝け出すはずがない。錯覚かも知れない。
 もう一度あの頃に戻りたい、という願望は少なからず新羅にもあった。思えばあの頃が一番楽しかった気がする。セルティがそばにいてくれる今も最高に幸せだが、静雄と臨也が喧嘩をしていてそれを自分が笑いながら見ている、そんな日常は今思えばたまらなく愉快だった。だから静雄の気持ちも分からないでもない。だが変わらないことばかりに執着するのは確かに夢を見すぎだ。だからそんな静雄に臨也が反発するのも、分からないでもない。眠っている間でさえ自分たちは変わっていく。

「もう帰るよ」

 新羅の声が新羅に言った。思わず驚いてしまったが、いつもの臨也の悪戯だ。新羅の変装に関しては、臨也は声真似まで完璧だった。内心うんざりしているのだが、それを悪用されたことはないので今のところ黙っている。
 臨也はニィと笑った。本当に帰るのだろう。

「それじゃあまた、百年後に」
「今度は何処に行くの?」
「何処にだっているさ。明日も明後日も、それから先も、君が気付いていないだけで、俺はいつだって君の隣にいるよ」
「静雄もかな?」

 臨也は答えなかった。

「じゃあね新羅、また明日。見送りならいらないよ」

 玄関の方へ歩きながら、臨也はヒラヒラと手振った。まるでちょっと忘れ物を取りに帰るだけのように、あっさりと部屋から出て行ってしまう。言われるまでもなく新羅は見送りなどしない。臨也の言う通り、ただ見付けられないだけで、多分臨也はいつだって自分たちの近くにいるのだろう。





「――完璧主義者なんてよく言うよ」

 自分しかいなくなった部屋の中で、新羅は一人呟いた。「何をとっても中途半端のくせに」
 久々に臨也が新羅の家にやって来たところに、何の因果か偶然静雄がやって来た。中で乱闘騒ぎになってはかなわないからとキッチンに押し込んだのに、臨也のほうからわざわざ静雄の前に出て行くのだから世話ない。新羅が準備していたのを横から臨也が奪ったコーヒーやらシロップやらが、静雄が出て行った時のままの状態でまだテーブルの上に残っている。

「ちゃんと見付けて捕まえてほしいんなら、いっそ毎日交番の前にでも突っ立ってればいいのに」

 テーブルの上に散乱したガムシロップの入っていた空のプラスチック容器を摘み上げて、新羅は更に続けた。

「俺はいつもコーヒーにはミルクしか入れないんだよ、臨也。君がそれを知らないとは思わないけど」

 静雄は多分、一生かかったって臨也を見つけようとするだろう。何てことはない、高校時代からやっていた鬼ごっこが、かくれんぼに変わっただけだ。それにしたって臨也の悪趣味は変わらないが、それでも静雄は臨也を見付けようとし続けるに違いない。その程度のことは新羅でさえ分かる。それなのに臨也は何を勘違いしているのか、自分から姿をくらましておいて自分たちのそばにいることに躍起だった。

「まあ、“お帰り”くらいのことは言ってやってもいいか」

 新羅は、空の容器をゴミ箱に放った。













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春はまだ来ない
(僕はいつでもここにいる)


あきゅろす。
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