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愛をおしえて/前編

「これが“い”」
「……い」
「そう。んで、これが、“ざ”」
「ざ……うん」
「そうそう。んで最後に、これが“や”」
「や。……いざや?」

久し振りに臨也が机から顔を上げると、静雄が柔らかい表情で頷いた。

「そう、お前の名前」





臨也がこの家で生活するようになってから、もう随分と時が流れたように感じる。静雄は相変わらずだった。相変わらず、臨也に手を上げることもなくただそばにいて、たまに家をあけて、でも必ず帰って来て、そうして思い出したように臨也に「好きだ」と言う。
臨也も相変わらずだった。相変わらず静雄の愛が理解できなかった。ただの怠惰ではない、理解しようとはした。それでもまだ分からないというなら、多分臨也にはもう無理なのだろう。これから先どうやっても、「愛」だなんてものを理解できそうな気がしない。

それでも静雄は優しかった。多分、これが「優しい」ということだろうと思う。ずっと初めと変わらない態度のまま臨也がこの家の生活に慣れてくると、今度は様々な知識を臨也に与え始めた。
たとえば洗濯機の回し方。たとえば花に水を上げるタイミング。野菜の切り方。幼虫がサナギになって、蝶になること。月が光っているのは、自ら輝いてるのではなく光を反射してるから。朝と夜が来るのは、地球がグルグル回っているから。

一つ知るごとに、また他のことを知りたくなる。あれは、あれは、と臨也が聞くたびに、静雄は一つ一つに丁寧に答えていく。たまに分からないことを聞いてしまうと戸惑うように「ちょっと待て」と言って、難しい顔で本と睨めっこをして、そして聞いたことに答えてくれる。しつこくて鬱陶しいかもしれない、と思うこともあった。実際そう訊ねてみた。だが静雄はすぐに否定して、お前がこの世界に興味を持ってくれるのが嬉しい、と逆に喜ばれてしまった。
多分そういう人なのだろう。静雄のような人間は臨也の周りにこれまでいなかったから、静雄の行動の理由は臨也には理解できないことが多い。

ただ一つだけ、臨也に思うことがあるとすれば、答えを教えてもらうばかりの自分が少しだけつまらなかった。
だから思ったのだ。あの本が自分でも読めたら、静雄に聞かなくとも自分で答えを見付けられるようになるのではないかと。そう思い本を開いてみても、丸かったり角ばっていたりする文字がたくさんあってとても臨也には理解できそうにない。だから今度は、本を読めるようになりたい、と静雄に言った。言ってしまってから、これは質問じゃないなとすぐに気付いた。
静雄に何かを「お願い」したのは初めてかもしれない。何もせずただ家に寄生しているだけの癖に、図々しいと呆れられるかもしれない、ぶたれるかもしれない。だが静雄は驚いたような顔をした後にすぐに笑って、「じゃあまずは平仮名からだな」と臨也の頭をクシャクシャと撫でた。

鉛筆とノートを買って来て、そして二人で机に向かって。まず初めに教えてくれたのが。

「――いざや」
「そう、自分の名前くらいは自分で書けるようになっとけ。それから漢字は……あー、まあ後でいいか」
「かんじって?」
「なんかゴチャゴチャして複雑なヤツだ。今はまだ平仮名でいい。ほら、もっかい書いてみろ」

いざや。

貰った鉛筆で、貰ったノートに書いていく。見本の字と比べて、臨也の字は随分と歪だった。同じように書いているはずなのに不思議だと首を傾げると、静雄はそのうち臨也もちゃんと綺麗に書けるようになる、と笑う。
何度も何度も、教えてもらったばかりの自分の名前を夢中になって書いていった。それが紙を埋め尽くすほどになると、黙って見ていた静雄が慌てたように制止をかける。

「待て、待て。そろそろ他の字も……」
「じゃあ君は?」
「あ? 俺?」
「君の名前はどう書くの?」

静雄はパチパチと数回瞬いて、それから新しいページをめくると丁寧に「しずお」と書いていった。見本の字と比べると、やっぱり少し歪だ。見本の通りの字を書くのは見た目以上に難しいのだろうか。静雄の書いた字をじっと見ていると、あんま見てんじゃねえ、と頭を軽く小突かれた。

しずお。

まっさらなページに、今度は静雄の名前を書いていく。臨也の字は、静雄のそれよりももっと歪だ。何度何度も書き綴っていくうちに、静雄が「ひらがな」の書かれた表のある文字に丸をつけ出した。初めは「いざや」に、次は「しずお」に。

「お前は頭が良いみてーだから、こんなもんはきっとすぐに覚える」

最後に「お」に丸をつけ終わると、静雄はたくさんの文字が書かれた表に目を落としながら言った。

「そしたら次はカタカナ、最後に漢字。……漢字は気が遠くなりそうだな。まあ、最低限は俺が教えるから、後は追々覚えていきゃあいい」
「うん」
「俺は特別学があるわけでもないし、お前みたいに頭が良い訳でもない、教えられることなんて高が知れてる。お前はきっとすぐに俺を追い越す。そしたらもう、お前に俺に俺は必要ないかもな」
「……何の話をしてるの?」

教えられることがなくなったら、静雄は臨也の前からいなくなる。それはまるで、そう言っているように聞こえた。
臨也が静雄の顔を覗き込むと、「なんでもない」と頭をまぜくられる。最近の静雄の癖だった。

初めの頃こそ、自分の頭より高い位置に手がくるのが怖かったが、決して臨也を殴らない手のひらに少しずつ慣れていって、今ではなんとも思わない。全部慣れだよ、と静雄は言った。ほんの少しでも、あせる必要はないから、こういう生活に慣れていけばいい。もう一生消えないと思っていた手足の痣や傷も、今ではほとんど見えないくらいに癒えた。悪夢も最近はあまり見ない。
そういえば好きなものもできた。たまに見せる、静雄の笑った顔が好きだ。あれはとても優しいのだ。

「つーか、お前、アレだな。まずは鉛筆の持ち方からだな」
「持ち方なんてあるの?」
「あるよ。箸にもあっただろ、あれに似てる」
「……俺、箸持つの嫌だ。すぐ君が怒るから。全部スプーンでいいのに」
「良くねえよ」

よく見とけ、と静雄が鉛筆を持った。そういえば臨也と持ち方が違う。箸の持ち方に似てると言われれば、確かにそうかもしれない。
この家に来た時、臨也はそもそも箸なんてものを使ったことがなかった。食事に初めて出された時はただの細長い棒が二本置いてあるようにしか見えず、用途も分からなかったので一つを手にとって食材に突き刺すと、大慌てで静雄に止められた。思えば、あんなに慌てた様子の静雄を見たのはあれが初めてだったかもしれない。

臨也が見よう見真似で鉛筆を握り直すと、静雄は何とも言えない顔をする。

「あー……まあ、様になっちゃいるか」
「書ければ何でもいいんじゃないの」
「良くねえよ。後で恥かくのはお前だぞ」
「でも、ここには君と俺しかいないよ」

事実を言っただけのつもりだったが、静雄はピクリと動きを止めて目を細めた。怒らせただろうかと思い慌てて謝ると、お前は悪くない、と顔を上げる。

「臨也、外はまだ眩しいか」
「……分からない、多分」
「そうか」

手を伸ばされて、「あ」と思った時にはもう静雄の腕の中に収まっている。静雄はたまにこういうことをする。ああいやだ、と目を瞑ると、またいつものように「愛してる」と言われた。そんなことを言われても臨也には分からないのに。

最近では首を振るのさえ苦痛だった。分からない。何度言われたって、臨也には静雄の愛は理解できない。いつかは静雄も悟るのだろうか。臨也には何を言っても無駄なのだと。そしていつかは、その「愛」すらも失うのだろうか。














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愛をおしえて


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