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ビューティフルワールド/後編

日常なんていつまでも続かない。そんなものだ。



ある時突然、静雄が店に来なくなった。一週間経っても、二週間経っても、ある時突然来なくなった。これまでこんなことはなかった。何故だか理由は分からない。臨也に飽きたのか、住む場所を変えたのか、それとも他に何か理由があるのか、それを知る手段はない。

「飽きられたんじゃないスか?」

正臣はそう言って鼻で笑う。そういう考えを持つ人間は多かった。客に執着してタダでヤらせた挙げ句捨てられた哀れな男。周囲の臨也に対する評価は一様にこれだ。
これに臨也は怒ることも憤ることもしない。周りには勝手に言わせておけばいいのだ。むしろ仕事は以前よりやりやすくなった。頭空っぽの男達がここぞとばかりに臨也に群がるようになってきたのだ。面白いので全部適当に相手をしてやっている。益々臨也に人が集まる。すると今度は店の人間達が嫉妬する。更に臨也の評判を下げるようなことを言い触らす。単純の一言。笑わないではいれない、ここはそういう世界だ。

誰かを貶めて、自分だけが這いずり上がれるようもがいている。ゴミ溜めみたいな世界のくせに、どうにか外形だけ取り繕って生きている。見透かすまでもない人間の心に飽き飽きだった。だから静雄に惹かれたのかもしれない。この店に来るどんな客とも違う世界を生きているようで面白かった。考えが読めないことの方が多かった。一緒にいて楽だったのだ。気取ることも偽ることもなかった。互いのことなんてほとんど知らなかったが、それがかえって良かったのかもしれない。

「臨也君、最近あの金髪に捨てられたんだって?」

こんな風に言い寄って来る馬鹿も増えた。捨てられるも何も、はじめから臨也と静雄の間にそんな関係はないというのに。

「さあ……。はいって言ったら、慰めてくれる?」

下卑た笑みを浮かべる男を上目遣いに見て、その首に両腕をまわす。唇を重ねると服の中に手を入れてきた。まだバーの中だというのに性急なものだ。思わず噴き出しそうになるのを何とか堪えて、感じているように適当に声を出してやる。それだけで喜ぶのだから単純と言ったらない。

「あっ、待って」
「……なんだよ。待ったなしだぜ」
「だってここ」
「いいだろ別に」

良くねえよ糞野郎。ほんの二、三回相手をしてやっただけで何か勘違いをしているらしい。どうやって丸めこもうかと思案していると「ああそういえば」と男は手を止めた。

「……何?」
「臨也君がご執心だった、あの金髪君だけどさ」

手前は空気も読めねえのか、と臨也は心底呆れた。脳の代わりにスポンジでも詰められているのだろうか。なんにせよ、この男とは今日でさよならした方が良さそうだ。

「なんかさ、聞いた話だと、スカウトされたらしいね」
「……スカウト?」
「どっかのレコード会社に気に入られたらしいよ。それでこんな所とはオサラバってわけだ。まあ将来を考えれば、君とのことがバレたら色々ヤバそうだし。縁を切られたってわけだね」

口を開けて固まる臨也に気を良くしたのか、男はニヤニヤしながら「傷付いた?」と囁いた。殴り倒してやりたい衝動を抑えつけて、臨也は「別に」と笑顔を貼り付ける。

「だって、君が慰めてくれるでしょ?」

足枷にしかならないこんな世界、見切りをつけられるならそれを選択するのが正解だ。そもそも静雄はこっち側の人間ではなかった。約束もわだかまりもない。切れる縁さえ初めから存在しない。
俺なら君を邪魔者にしないよ、と男が笑った。臨也も笑い返してやる。邪魔なのはお前の方だよ。





あの日あの男が言っていたことはあながち嘘でもないらしい。静雄が姿を見せなくなってから約一ヶ月、この店に出入りしていた金髪の男が、とある有名な音楽プロデューサーの目にとまったという噂が流れ始めた。
臨也に向けられる好奇の眼差しはますます加速する。
可哀想な男。ヤり逃げされた男。都合の良いだけの男。言いたいだけ言えばいい。せっかく臨也を扱き下ろせるチャンスなのだから、これを逃がす手はないだろう。何を言われたって腹は立たないし、ましてや自分が惨めになるなんてこともない。その中に真実がないなら。

「君のお気に入りだった静雄君。最近来ないけど、来月あたりデビューするらしいね。びっくり」

客の相手を終えいつものようにベッドの上でぼんやりしていると、部屋に新羅が入って来る。新羅の顔を見るのも久し振りかもしれない。静雄が来なくなってからは多分初めてだ。

「臨也、君は知ってたの?」
「知らなかった。こちらこそびっくりだよ」
「だろうと思った」

背もたれのない小さな椅子を持って来ると、新羅は臨也の正面に腰掛けて臨也の右腕を取った。そういえば新羅にも恋人がいる。名前はなんだったか忘れたが、この店でまともな恋人がいるのは珍しいので覚えている。

「俺は静雄君をほとんど知らないんだけどさ」

右腕の次は左腕だ。今日の相手は男色である以外普通の性癖だったのでほとんど無駄だと思うが、一応形式だけだ。いきなり尻の穴に指を突っ込まれるよりはずっといい。

「普通そうな人だよね、この店に来るにしては珍しくさ。あんまりこんなとこでは見ないタイプっていうか。君が興味持つのも頷けるっていうか」
「新羅。言いたいことがあるなら言えよ」
「うん、あのさ臨也。もしも俺が、静雄君から君に伝言を預かってるって言ったら、どうする?」
「――は? 何だよそれ。初耳なんだけど」

そもそも新羅は静雄と会ったことはない筈だ。新羅は臨也の腕から手をはなすと、困ったようにポリポリと頬を掻いた。

「一ヶ月くらい前だよ。静雄君が朝早くに来てさ、たまたま、外に出ようとしてた僕と会ったんだ。彼は君に会いに来たんだと思うよ、本当はね。でも君はまだ寝てたし、起こして来ようかとも思ったんだけど、そんなことまでしなくていいって。それで、代わりに伝えといてくれって。伝えるのはいつでもいいって言ってたし、俺もまさかこんなことになるとは思ってなかったから、それで軽く引き受けちゃったんだけど」
「……彼はなんて?」
「“待ってる”、だってさ」
「……待ってる」

繰り返して、最後に会った静雄の記憶を引っぱり出す。この部屋の窓から見えるビルの、大画面。あそこに映りたいと言っていた。常識外れも甚だしい。そんな大それた夢は見るだけ無駄だ。あの時はそう思ったし、今でもそう思っている。

「伝えるのが遅くなったのは、一応謝るよ。俺も勝手に動けない身分だからさ。でもほら、待ってるって言ってくれてるんだし、君のほうから会いに行ってみるってのもいいんじゃないかな」

勝手なことを言ってくれる。臨也は笑い飛ばした。

「新羅、俺はね。彼とセックスをしたことはなかったよ」

新羅の後ろに窓がある。いつもカーテンに閉ざされた窓。あの日静雄があれを開けて、あの向こうに夢があるのだと言った。臨也にはそうは思えない。いや、臨也にとってはそうでなくとも、恐らく静雄にとってはそれが真実なのだろう。
だが、臨也と静雄とでは住む世界が違う。そしてこれから多分ますます離れていく。臨也はこのゴミ溜めの世界に残されたままだ。

「金を貰わないのなんて当たり前だ。こんな糞みたいな仕事でも、俺にだって一応プロ意識はある。でもね、俺はしたって良かったよ。“したって良かった”んだ。でも彼はそうはしなかった、それが答えだ」

静雄の顔を思い出す。いつも同じ顔だった。何を考えているのかちっとも分からない顔だった。

「彼はね、新羅。俺を選ばなかった。俺を選ばなかったんだ。それだけだよ」
「……そうかな。彼は待ってただけなんじゃないかな」
「誰を? 何を?」
「君を。君が来てくれるのを、彼はずっと待ってたんじゃないかな」
「ハッ、馬鹿馬鹿しい」

新羅は苦笑する。臨也は自分からベッドに横になると、何か言われる前にすぐまた口を開いた。

「それより早く診ろよ、新羅。今日はさっさと寝たい」





それからも静雄に会わない日は続いた。だが静雄の名前は街に浸透しつつあるようで、ふとした機会にその名前を耳にすることは多い。まだ好奇の噂話にとどまる範囲だが、その内本当に歌手として売り出し始めるのかもしれない。臨也にはもう関係のない話だ。周囲の人間も臨也と静雄の関係は忘れ去りつつあるらしく、時たま嘲笑を貰う程度に落ち着いている。
新羅は何も言わない。静雄の話は一切しなくなった。あの性格からいって気を遣っているというわけではないだろう。だがそのほうが都合がいい。人からとやかく言われるのは煩わしい。

正臣は店を辞めた。例の彼女に手術を受けさせるためだけの金を稼いだらしい。こんなところだから正式な挨拶があった訳でもない、あくまで噂だ。正臣が店を辞めた、それだけが事実だ。
臨也はいつまでここにいることになるのだろうか。放っておいても、時が経てばいずれここにはいられなくなる。いつまでもできる仕事ではない。店を放り出されるか、それともどこかに売られるか。ここにとどまり続ければ辿る道は限られている。

「だからってさ、体を張ることはないんじゃないかい?」

新羅の世話になる機会も増えた。確かに最近は無茶なことにも手を出しているが、そもそも体にガタがきはじめているのかもしれない。新羅は臨也に忠告はしても心配をすることはない。臨也もそれを知ってるから、新羅にはある程度の信頼をおいている。
診察の最中、寝てていいよ、と新羅は言う。そういうの止めてよ、と臨也は言った。ベッドに寝そべりながら、もう会わなくなって半年ほどになる静雄の顔を思い出す。多分もう会わないだろう。会う必要もない。愛も欲も打算もない関係だった。このまま互いに忘れていくだけだ。


きっともう二度と会わない。それでいい。


なんだか頭が痛いような気がして目を開けると、室内は暗く他に誰もいなかった。新羅の診察中に、つい本当に寝てしまったらしい。そばに人がいるときはいつも大体寝付けないのだが、そもそも寝不足気味だったのと相手が新羅であったことが重なって寝てしまったのだろう。
体を起こして、まだ少し重い頭を引き摺って時間を確認する。午前二時前。ということは三時間ほど眠っていたことになる。当然この街はまだ眠らない。店もまだ騒がしいだろう。このまままた寝てしまっても良いが、妙に目が冴えてしまってそれもできそうにない。

部屋を出てバーまで行くと、案の定店はまだまだ盛況だった。慣れた筈のその雰囲気に今は何故だか馴染めない。途中何人かに声をかけられたが、気分が乗らず適当にあしらって店を出た。
外に出るのは随分と久し振りの気がする。街の明るさと喧騒は煩わしいが、夜の冷えた空気は存外に悪くない。少しだけ歩いてみようと思い立って、特に目的があるわけでもなく街をさまよう。

自分から思い付いたこととはいえ、あまり店から離れるわけにもいかないし顔見知りに会うと面倒なので、どことなく足取りは重い。深夜でも賑わう街はいつ見ても醜かった。人に酔いそうになる。やはり慣れない気紛れなんて起こすものではない。
歩いてばかりでも仕方がないと踵を返そうとすると、街が俄かにざわめいた。ちょうどビルの大画面の映像が切り替わったらしい。どちらにしろあまり興味はない。やはり帰ろうと臨也が足を踏み出すと、ちょうどこちら向かってに歩いて来ていた二人の女が画面を見上げた。

「……ん? 何この曲、初めて聞いた」

街に新しい音楽が流れ出す。髪の短い方の女が呟くと、長い方の女が声を上げた。

「あー、アタシ知ってるよ! 最近デビューしたばっかの、平和島静雄のさあ――」

臨也は立ち止まって顔を上げた。美しい服に身を包んだ二人の女は、軽やかに臨也の横を通り抜けて行く。

「ビューティフルワールド」

画面いっぱいに静雄の顔が映し出されている。聞こえてくる音楽は、いつか聞いたのと全く同じメロディーだった。お前にやるよ。あの時静雄がそう言った。だからこれは、きっと臨也の曲だ。静雄の口から曲に合わせて歌詞が紡がれる。あの時聞いたのと少しも変わらず、躊躇わず真っ直ぐ。

「……相変わらずくっさい曲」

右手をポケットに突っこんで、やけにキラキラ光っている大画面を食い入るように見つめた。どれだけ唇を噛んだって、もう間に合わないことは分かっている。それでももしかしたら、手を伸ばせばまだ届くのかもしれない。望まないよりは、少しは可能性は上がるのかもしれない。臨也の目に薄く張り付いた涙の膜が、汚れきった夜の街を美しく煌めかせるように。













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ビューティフルワールド
(君がそう望むからこそ世界は美しい)


あきゅろす。
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