ビューティフルワールド/中編 こういう風に生れたんだから仕方ない。薄汚い街に生きてるんだから仕方ない。今更どう生き直せばいいのか分からない。そういう風に生きている。死んだ方がマシな世界で、死人みたいに。 臨也は部屋のカーテンをほとんど開けない。元々日当たりが良いわけでもないし、外の様子なんて見たって少しも面白くない。客を入れていればますます開けない。丸一日カーテンを閉めたままの日が何日も続くことなんてザラだ。 「だからアンタの部屋はいっつも湿っぽいんスよ」 「そう? 俺は嫌いじゃないなあ」 いつものようにバーで客を待っていると、珍しく正臣が話しかけてきた。一応の肩書きは職場の後輩だ。まだ入って来て一年ほどだが、部屋を与えようという話が出ているあたり仕事は上手くやっているらしい。横に長いソファに座っていた臨也の隣に腰を下ろす。 「今日は?」 「お客さん待ちだよ」 「へえ。アンタ最近、予約入れなくなりましたね。店の中でも噂なんすよ? あの金髪イケメンに骨抜きなんじゃないかって」 「そういう営業妨害は困るなあ。俺は一体どこに訴えればいいのかな?」 正臣はおかしそうに喉を鳴らすと、通りかかったボーイからカクテルを貰った。臨也も勧められたが甘い酒は好きではないので断る。正臣は受け取った酒を一気に仰ぐと、空のグラスをそのままボーイに返した。 「で、アンタ、まさかマジ?」 「邪推は止めてくれ。俺がアイツになんだって? 恋だの愛だのくだらない。俺はそういうのにうつつを抜かす気はないんだよ、正臣君、君とは違ってね」 正臣には恋人がいる。病持ちで今も病院のベッドから抜け出せない彼女だ。正臣はその治療費のためにここで働いていた。愛しい愛しい彼女を救うために、今日まで知らなかった男に大人しく抱かれ続けているのだ。 これほど美しい愛もなかなかないだろう。その話を初めて聞いたときは、あまりの美談に本人を目の前にして大笑いしてしまったものだ。その時から臨也は正臣に嫌われている。それも臨也にはどうでもいいことだ。 「臨也さん、俺はアンタが大嫌いだ、死んでほしい」 「ありがとう」 「でも別に、アンタを今の立場から引き摺り下ろしたい訳じゃない」 「そう。君は優しいね、反吐が出る……ん?」 他愛ない普段通りの会話を楽しんでいると、突然店の奥で誰かが叫んだ。声のした方に目を向けると、赤の短いドレスに身を包んだ女が真っ黒なスーツの男二人に引き摺られていく。臨也にはすぐに分かった。また見せしめのショーだ。自然と店の人間の視線がその女に集まっていく。適当な場所で服を剥がされて、余興として折檻されるのだろう。 売り上げが悪ければ何をされても文句は言えない。この店は客を喜ばせるためなら何でもする。この店に入った時点で人権なんてものは皆無だ。ここはそういう所だ。文句を言う奴は覚悟が足りないだけ。 この店では金が全てだ。 客も金を持っているほど優遇され、店側も客から金を絞り取ることしか考えてない。稼ぎがない人間は悲惨だ。とにかく体を売る。一日に何度も、一度に何人も、どんな仕打ちにも耐えるしかない。稼ぎが少なければ折檻も待っている。客を選んだり贅沢を言えるようになるのは、大金を店に入れる一部の人間だけだ。 だから臨也は恵まれているほうかもしれない。同じ店の中でも、格差というものははっきりと存在する。臨也は正臣のように金を稼ぐ具体的な理由がある訳ではないが、それでも地べたを這いずるようなことだけは御免だった。 ただでさえロクでもない生き方だ。歩く死人も同然だった。だからせめて、最期に膝を吐くのはドブ沼以外が良かった。死ぬことに躊躇いがある筈がない。躊躇うことが死を意味するからだ。 「客に足を取られると死にますよ」 「ありがとう。後輩の君にアドバイスされるなんて、俺も落ちたもんだなあ」 バシッと鞭の音が響いた。それと同時につんざくような女の悲鳴が店中に響き渡る。女の泣き叫ぶ声に合わせるように、周りの人間がそのショーを囃し立て始めた。なにも珍しい光景ではない。ここではこれが日常の一部だ。 「心配してくれなくても、俺はあっちへは行かない」 「……俺は心配してるわけじゃ」 「恋なんて糞ったれだ」 誰もあの女を助けない。客は面白い余興を笑い飛ばすだけだし、店で働く同じ立場の他の女でさえ、あれが自分でなくて良かったと安堵すらしているに違いない。そういう世界だ。初めから死んでいるような世界だ。そんな世界で今更、望むものなどありはしない。常識という固定概念すら通用しないのだ。 今日は静雄は来なかった。 臨也と静雄との仲を面白半分に邪推する者は多かった。確かに、静雄を贔屓していると言われると言い訳がない。静雄は見るからに貧乏そうだし、実際臨也は静雄から金を貰ったことはないから、余計そういう目で見てくる人間が多いのかもしれない。 だが仕事に影響はさせていない。静雄といる時間の分、臨也は更に働いている。いつもは手を出さないような趣向にも手を広げているくらいだ。だから今のところ、店側から臨也が何かを言われることはない。少なくとも今は。臨也がこの店に金を入れる、今の内は。 好奇の噂通り、臨也に静雄に恋慕の情があるのかと問われればそれはお笑いだった。ただの暇潰しだ。でなければ、あんな金も学もない男の相手を好き好んでする筈がない。 「……ああ? 手前、そこ怪我してんじゃねえか」 静雄もまた、臨也の恋人面をすることはなかった。そんなものだ。男の癖に部屋まで貰っている臨也をやっかむ馬鹿な女は多い。この機会にこの店から臨也を追い出そうと画策する奴が出てきてもおかしくはなかった。 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。脳味噌の代わりに胸に脂肪があるような馬鹿な女に、臨也が大人しく嵌められてやる訳がない。やろうと思えば、その馬鹿をむしろ追い出してやることもできる。第一、臨也と静雄の間には邪推されるような関係はない。 静雄は臨也の部屋に来ると、まず第一にベッドの上に腰掛けて窓のある方を向きながら煙草をふかす。臨也は黙って、静雄の長く筋張った指を見ている。今日は途中で手招きしてきたので寄って行くと、足首あたりを指差されてこう言われた。怪我をしている。 「そう? この前のが、まだ残ってんのかもね」 「この前ってなんだ」 「さあ、俺も覚えてないや。なにせ俺は引く手あまたの人気者だから」 茶化すように言って静雄の隣に座る。静雄にしては珍しく、吸っている途中の煙草を灰皿に押し付けた。 まだ夕方にもなっていない。定職のない静雄が臨也に会いに来る時間はいつもまばらだった。 「お前、変なプレイにも手出してんのか」 「プレイって……君からそんな言葉が飛び出るなんて驚きだよ。笑うとこかな」 「危なくねえの」 「何を今更。ここはそういう場所だよ?」 静雄がまた口を開いたが、まるでそれを遮るように男の絶叫が響き渡った。この前は女だったが、今度は男と言うことだろうか。二階にある臨也の部屋にまでこの声が伝わるとは、よほどの大音量で叫んでいるんだろう。防音はしっかりしてはいる筈だが、店の外にまで漏れてはいないだろうか。臨也が顔を顰めるのと、静雄が顔を上げたのは同時だった。 「なんだ?」 「……ああ、君は気にしなくていい。いつものことだ、いつものショータイムだ」 「ショー? これが?」 一拍おいて、また絶叫。相変わらず声がでかい。多分知った人間の筈だが、誰だろうか、よく分からない。 「何のショーなんだ。楽しいのか?」 「周りはね。客をたくさんとれないとああなる。まあ、公開処刑だね」 「……お前もか?」 「そうだね。金を稼げなくなりゃ終わりだ」 軽く首をすくめると、普段あまり表情を変えない静雄が不快そうに眉を顰めた。こんな場所に「間違って」来てしまったような人間には理解できないのかもしれない。静雄が知らなかっただけで、ここは初めからそういう場所だ。 「何度も言うけど、ここはそういう場所だ。こういう世界なんだよ」 「楽しいのか」 「楽しいもんか。楽しいはずないだろ」 自分でも思わぬことを口走って、臨也はハッと息を呑んだ。曲がりなりにも客相手に、こんなことを言うのは初めてかもしれない。だがそんなことはどうでも良かった。静雄が黙って臨也の話を聞いているということが、今最も重要なことだった。 「ねえ知ってる? 俺たちはさ、客から金を巻き上げるのが仕事なんだよ。媚び売って、身体売って、運が悪けりゃ踏み倒される。俺たちみたいな無法者は泣き寝入りだ。そうやって必死に稼いで、その稼いだ金の七割は店に持ってかれる。七割だよ、七割。そしてろくな金額じゃなきゃ折檻される。客に飽きられたら、年食って客の相手ができなくなれば、身体を安売りし過ぎて穴がガバガバになって使いものにならなきゃ、簡単に売り飛ばされる。そういう世界だ。そういう世界なんだよ」 一思いに話し終えても、やはり静雄は沈黙したままだった。下手な慰めが欲しくて言ったわけではない。そんなことをされれば、臨也は二度と静雄と会おうとはしないだろう。では何故こんな話を静雄にしてしまったのかというと、それは臨也にも分からなかった。 静雄は黙っていた。黙って、カーテンの閉まったままの窓をじっと見ていた。 「はは、君にする話じゃなかったかな」 「……お前よお」 やっと口を開いたかと思うと、静雄はすくっと立ち上がって窓に向かって歩いた。目の前まで行って立ち止まると、臨也を振りかえる。 「このカーテン、いっつも閉めてんのな。開けねえの?」 「……必要以上には」 「ふうん」 言った瞬間、静雄は一気にカーテンを全開にした。力任せに引っ張られた布が頼りなさげにはためいて、窓から差し込んだ日差しに部屋が一気に包み込まれる。 突然のことに声も出せず、臨也はただ息を呑んだ。静雄は黙って窓の外の景色に視線をやって、その場に佇んでいる。臨也は戸惑うばかりだった。 「なに、なんなの?」 「……なかなか良い景色じゃねえか。俺はなあ、いつかあそこに映ってやるのが夢なんだよ」 あそこ、と言って静雄が指差したのは、この部屋から見える巨大ビルの大画面だった。普段は企業のCMを流しているが、稀にアーティストの新曲を披露する場にもなる。街中にその曲が響く。街の人間の鼓膜を平等に揺らす。 あそこに映るということは、一流の仲間入りを果たしたということとほぼ同義だ。あそこは表立った舞台だ。煌びやかで、埃を被った薄汚い世界とは無縁の場所だ。 「……でか過ぎる夢は、自分を惨めにするだけじゃないかな」 「夢なんてでかくてナンボだ。お前はこんな薄暗い部屋にずっと籠もってってから、んなことも分かんなくなってんだよ」 「君が無謀なだけだと思うけど。常識外れもいいとこだ」 静雄は鼻で笑う。もう一度ビルに視線をやると、ベッドに腰掛けたままの臨也を見下ろしてニヤリと笑った。 「そうだな。折角だから、お前に一曲やるよ」 「……は?」 「喜べ、初披露だ。音源がねえからアカペラだが……まあいいな」 戸惑う臨也の答えを待たず、大きく一呼吸。どうすることもできないままに、静雄はそのまま歌いだした。ありきたりな歌詞ばかりが耳に残る。しかし途中で遮ることもできず、臨也はただ静雄の歌に耳を貸した。 「くっさい曲」 歌を夢にしていることだけは前から聞いていたのに実際に歌を歌っているのを聞くのは初めてだなと、窓を背に歌う静雄を見ながら頭の片隅でぼんやり思った。 -------------------- ビューティフルワールド |