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恋に酩酊


もう止めよう。

夜闇は深海にも似る。臨也の声が冷えた空気と共に溶け込んでいくと、隣でもぞりと人の身じろぐ気配がした。頭から被った布団が視界を覆って当人は見えない。顔を見られてはいけない、という根拠のない危機感が多分にあった。見える筈のないことを知っていて、それでいて目を開けることさえ壗ならないからだ。
それでも首筋のあたりにチリチリとした視線を感じる。そんなような気がする。或いはそう思い込みたいのかもしれない。

もう止めよう。

臨也はもう一度繰り返した。上体を起こしたのだろう、背後にいる男に向かって、確かめるように同じ言葉を繰り返した。

「……臨也」
「もう止めよう」

声が震えてしまわないよう最小限の音量で、最大限の気を遣う。布団にくるまったままでは静雄の顔は視認できない。気配だけで感情の推移を知覚できるほどの技量も臨也にはない。
臨也、と呼ぶ静雄の声が掠れた、ような気がした。今まで話題にすら上らせなかったことを言い出しているのだから、静雄が動揺するのも無理のない話ではあった。そこに救いを見ようとするのは滑稽かもしれない。臨也は静雄の顔さえ正面から見れない。

――俺を抱いてみない?

今思えば安っぽい誘い文句であった。だがその時の臨也には、たったそれだけの台詞が一大事だったのだ。

そのままに「愛している」と言うには今更過ぎた。臨也は静雄に触れられればそれで良かった。体だけで良かった。どうにかこの気持ちに折り合いをつけたかった。臨也は静雄を愛していたのだ。
そしてこの体を明け渡そうというのは、我ながら頭の足りない手段だった。言葉にできなかった。してはいけない気もした。そもそも静雄は臨也を心底憎悪していて、臨也自身がその理由を十分に心得ている。気持ちまで欲しがろうというのは虫の良い話だった。だから体だけで良かった。

結果として静雄は乗って来た。
臨也だって馬鹿ではない、殴られることも視野に入れていたが、一度も手を上げることはなく静雄はそのまま臨也を抱いた。臨也の家で、臨也を抱いた。いつしかそれは習慣のようになったが、愛の言葉は一度もなかった。それで良かった。それで臨也は満たされる筈だった。
だが気付いたのだ。回を重ねるごとに、距離を縮められた気になるごとに、これは所詮気持ちの伴わないお遊びでしかない。臨也にとっては愛を得るための手段であるセックスも、静雄にとっては性欲を吐き出せるただの行為でしかない。

それでも良かったのだ、確かに。臨也は静雄を愛していた。例え相互に釣り合わない気持ちだろうと、触れられればそれで良かった。いくらだって我慢できると思い込んでいた。

「……臨也、理由は」
「理由? そんなのはシズちゃんが一番良く分かってる筈だ」

声がこもるのは都合が良い。静雄の声が聞き取りにくいのも、顔が見えないのも、全てが都合がいい。
夜の空気は冷たいから。それだけを言い訳にして、臨也は布団の中で体を丸めた。


――彼女がいるんだって。

どうして聞いてしまったのだろう。いつものように池袋に来て、門田に会って、最近の静雄は何故か機嫌が良いらしいという話を聞いて、狩沢が無邪気にそう言った。
本人から聞いた、と言う。静雄が直接そう言った訳ではないが、それとなく話を振ったらそれらしい返答が返ってきたと。それは単なる勘違いだと切り捨ててしまえばそれだけの話ではあった。事実その後も静雄は臨也を抱いた。だが、臨也にはもう我慢の限界だった。

抱いてみないか、と言い出したのは自分だ。それでももう無理だった。今回の狩沢の話がただの勘違いだったとしても、いつか「その日」は必ず来る。
そうすれば静雄は臨也とのこの関係を終わらせようとするだろう。それは当り前のことで、それが臨也には耐えられそうもなかった。

人間の欲求には果てがない。だったら、せめて自分から終わらせる。

「もう終わりだよ。もういい、もう十分だ」
「……それは、別れようってことか」

――別れよう。
そんな恋人のような言葉を使ってくれた。それだけで泣きそうなくらい嬉しいと言ったら、静雄は臨也をどう思うだろうか。

どうせ体だけの関係でしかない。気持ちなんてはじめからない。それでもそんな言い方をしてくれるのは、静雄も少しは臨也に情を感じていてくれていたのかもしれない。それだけでいい。そう思えるだけで、もう十分だと思えた。

「うん……うん、別れよう」
「臨也」
「別れよう、シズちゃん」

布団にくるまる臨也に、静雄の手がそっと触れた気がした。最後に顔を見たい、そう思っても体は動かない。夜闇は深海にも似る。呼吸までもが不自由になりそうで、薄く口を開いた。
互いに深く沈黙する。唇がカサカサに乾いていく気がした。いくらかの時間が経つと、小さく名前を呼ばれる。静雄は布団越しに囁いた。

「楽しかった」

それが別れの言葉であるのなら、臨也の恋は確かに報われた。














――そして、このままここで本当に話が終わったのなら、或いはこれも美談の内だったのかもしれない。

『臨也、やってくれたね』
「……は?」

事態は常にいきなり急転する。静雄に別れを告げてから数日後、消沈した気持ちを抑えられないまま漫然とい日々を過ごしていた臨也の携帯に唐突な電話を寄越してきたのは新羅だった。
藪から棒に何の因縁だと思わずにはいられない。ここ最近は何もしていない筈だ。セルティとの接触も全くない。

「新羅、文句を言う相手を間違えてないかい?」
『なんだって!? ここ最近平和島静雄を振ったイザヤって人間が君以外にいるってのか!? 間違えようがないだろ! 僕もセルティもいい迷惑なんだ! 謝れ!』
「ちょっ、は? 何言って……は!?」

事態が全く呑み込めず混乱するしかないのだが、そもそも新羅は臨也の話を聞いていない。臨也が説明を求めようとするのを遮って一気に捲し立てた。

『いいか! 君が一体どういうつもりで静雄と別れたのかは知らないけど、その軽率極まりない行動のおかげでこっちは多大な被害を被ってるんだよ! 君のせいだ! セルティが静雄に付きっ切りになって全然僕に構ってくれなくなっちゃったじゃないか!』
「お前のことはいいよ! マジで意味が分からないんだよ! 何? 俺がシズちゃんを振った? は? これ以上俺の心の傷口に塩を塗り込むのは止めてくれる?」
『じゃあ今すぐ撤回しろ! シズちゃん愛してるって言え! 今から静雄とかわるから!』
「はあ!? 馬鹿! やめろ!」

大声で制止したが、ここで新羅の声が唐突に途切れる。まさか、と最悪の事態を予測して慌てて電話を切ろうとしたが、それよりも電話口の向こうから自分の名前が呼ばれるのが先だった。

『臨也……』
「シ、シズちゃん?」

新羅あいつ後で殺す!

何が楽しくて、事実上は振られた相手と電話しなければならないのだろうか。臨也はまだ静雄が好きで、傷も癒えていない。いっそこのまま電話を切ってしまおうかとも考えたが、それをしなかったのは静雄の声がどこか憔悴していたからだ。

「……シズちゃん?」
『どうしてだ臨也……』
「な、なに? なんかあったの?」
『俺が何をしたっていうんだ……』

これは多分、臨也に気付いていない。
静雄の声は、これまで臨也が聞いたことがないほどに力がなかった。これがあの平和島静雄だろうか。なにがここまで静雄を弱らせたのか、臨也が直接問いただすまでもなく、静雄は一人事のように喋り続けた。

『何が悪かった? ずっと好きだったんだよ、本当に好きだったんだよ。やっと両思いになれたと思ったのに、結局ろくに理由も聞けないまま……何が悪かった? 分かってる俺のせいだ、俺は不器用だから、いつだって大事にできてるか不安だった。いや、そもそもあいつにとっては初めからただの暇潰しだったのかもしれねえ。それでも愛してる。愛してる……臨也』
「――シズちゃん……」

それは多分、臨也が聞く初めての静雄からの愛の言葉だった。

ずっと思い込んでいたのだ。これは臨也の一人相撲で、静雄は臨也など見てはいない。そう思い込んでいた。静雄が好きでもない男を抱ける筈がない。それは分かっていたのに、浮かれて期待して、後から絶望を見るのが嫌だった。

「シズちゃん」
『どうしてだ臨也、どうして』
「シズちゃん!」

うわ言の様に喋り続けていた静雄が、ピタリと口を閉じた。それから恐る恐る、確かめるように「臨也?」と呼ぶ声が聞こえてくる。

「うん、俺だよ、シズちゃん」
『臨也……なんで』
「新羅が電話くれたんだ。ごめんねシズちゃん、今、聞いたから」
『……臨也、俺は、まだ』
「うん、ちゃんと聞くから。だからさ、俺の話も聞いてよ」

お互いに言葉が足りなさ過ぎたのかもしれない。言わなければ伝わらないこともあるのだ。臨也は携帯を握りしめた。

「ねえシズちゃん、俺はね――」





――それから、臨也と静雄はまた改めて「お付き合い」をすることになったのだが。
後日事の顛末を知った新羅から、再度臨也に電話がかかってきた。

『ああ、丸く収まって本当に良かったよ。ずっと静雄の恋の相談を聞かされ続けてきた身としては嬉しい限りだ。なにせ静雄ときたら、高校の頃から君を隠し撮りした写真に毎日語りかけるほどに君のことが大好きだったからね』
「……え」

なにそれ怖い。
















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恋に酩酊
(酔狂な僕らには酔狂な恋がお似合いなのさ)


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