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愛をおしえて/後編

朝目覚めると、臨也はいつも静雄の腕の中にいる。あたたかい腕だ。泣きたくなるくらい優しい腕だ。多分きっと、静雄はこのまま臨也を抱く気はないのだろう。その気持ちは臨也にはまだ理解できないが、静雄がそういう気でいるのだろうと分かるだけでも成長かもしれない。
静雄は臨也に何か見返りを求めているわけではない。静雄はただ、多分そう、「そういう人」なのだろう。





「……みょうじ?」

自分と静雄の名前を書けるようになって、それから毎日臨也は文字の勉強をしている。その間は静雄が隣にいてくれるのがいつもだった。特に何をするという訳ではない。ただ隣にいて、文字の読み方を一つ一つ教える。たまに、前に教えてもらった分を臨也が忘れて訊ねると、また答える。ただそれだけだ。
それだけでも、臨也には十分なように感じた。ひらがなを一通りを終えてカタカナに入っても、まだ隣にいてくれる。臨也が歪な字でナ行の字を書いていると、黙って見ていた静雄がふと口を開いた。

「お前、そういや名字ないだろ」
「……みょうじって何」
「俺の名前を言ってみろ」
「……へいわじましずお」
「そう。その『へいわじま』ってのを、名字っつーんだよ」
「……ああ。それなら一応、俺にもあるよ」
「あ? そうなのか? 言ってみろ」
「――折原」

聞かれたので素直に答えると眉根を寄せて、静雄は露骨に不快そうな顔をした。何が不服だったのか分からず臨也が首を傾げると、苛立たしそうに頭を掻く。

「お前それは……それはお前の名前じゃねえだろ」
「でも、そう呼ばれてたよ」
「それはお前があの家に買われてたからだ」

いつもより声に険がある。怒らせてしまったのかもしれない。
謝った方がいいのだろうかと逡巡していると、「ああ、悪い」と気付いた静雄が取り繕うように臨也の頭に手を置いた。手のひらからじんわりと伝わってくる体温は、静雄は臨也に対して怒っているわけではないということを伝えている。

無意識に緊張していたらしく、一気に肩の力が抜けた。よく考えれば、静雄が臨也に理不尽にキレるはずがなかった。

「そうだな、お前のせいじゃねーな。イラついて悪かった」
「……うん」
「あー、でもそうだな、どうすっかな。名前だけだと都合が悪いかもしんねえし。なんか適当に考えるか。……お前が『折原』がいいっつんなら、それでもいいけどよ」
「じゃあ、君と同じでいいよ」
「あ?」
「新しく考えるの面倒だし、みょうじは君と一緒でいいよ」

静雄にしては珍しいくらい、間の抜けた顔で臨也を見た。同じでは嫌だったのだろうかとも思ったが、表情から察するに怒っているわけではないらしい。
なんだろうと臨也も静雄を見返すと、それから数秒の間をおいて、我にかえったように静雄は口を開いた。

「ああ、いや、そうか……そうだな。一から考えるのも面倒か」
「……君が嫌ならいいけど」
「いや、そうじゃない。そうか、そうだな、同じでもいいのか。……いや、お前は嫌じゃないのか?」
「別に。なんで?」

純粋に疑問だったから聞き返した。むしろ、不快に思うのは静雄の方ではないかと思うほどだ。
臨也の問いに、静雄は珍しく「いや」と口ごもった。ここまで動揺した姿を見せるのは滅多にない。今日の静雄はなんだか変だ。いつもの静雄は、臨也が何を言っても大抵落ち着いた反応をする。

名字なんて臨也は何でも良かったが、静雄が嫌そうな顔をするなら「折原」は避けたかった。かといって代案がすぐさま浮かぶ訳でもない。
だから他に思い付くのなんて、静雄と同じ「平和島」しかなった。

「お前本当に、俺と同じでいいのか?」
「いいよ。同じ家に住んでるんだし、一緒でも変じゃないでしょ」
「……そうか、そうだな……俺が変に考え過ぎだな。それじゃあお前は、今日から平和島臨也だな」

そう言って少し笑った静雄は、気のせいかもしれないがどこか嬉しそうだった。だからだろうか、臨也もほんの少しだけ、嬉しかった。





今日は夕方頃に帰る。と言って静雄が家を出たのは、今日の昼を過ぎてからのことだった。
臨也は今も静雄が何の仕事をしているのか知らない。興味がない訳ではないが、詮索する気もなかった。今日のようにたまに家を空けるのは珍しくないが、帰って来る静雄はあまり良い顔をしない。仕事に関してはあまり触れてほしくなさそうでもあった。だったら臨也はそれでいい。下手な詮索をして静雄から捨てられてしまうほうが、臨也にはずっと怖かった。

「……遅いな」

静雄がいないとすることがないので暇だ。暫くは一人で文字の練習をしていたりしたが、それも飽きてきてしまった。一人だとすぐ飽きるのだ。歪な字も少しずつマシになってきて、特に初めに教えてもらった臨也と静雄の名前は大分きれいに書けるようになったのだが、見せる人がいないとつまらない。

夕方頃には帰ると言っていたのに、もう日は沈みきっていて外は暗い。念の為、と静雄は夕飯を作り置きしているが、手をつける気にはならなかった。最近気が付いたのだが、静雄と食べたほうが食事はどことなく美味しく感じる気がする。
前の家に飼われていたとき、食べるもの全てが味気なかったのはそのせいかもしれない。あそこの食事はいつも一人だった。あの家で食べていたものも、静雄の家で食べると違うもののように味が違う。

「遅い」

時計を見ては、遅いと呟く。そんなことをずっと繰り返している。静雄の帰りが予定より遅くなるのは珍しくないが、それでも今日はやけに遅い気がする。
臨也は時計を見て、また「遅い」と呟いた。さっきからこの繰り返しだ。もしこのままずっと静雄が帰って来なかったら、臨也はどうしたらいいのだろう。そんなことを考えるのが嫌で気晴らしにテレビをつけてみるが、あまり面白さは分からない。

遅い、とまた無意識に呟いた。夕方には帰ると言った。夕方頃には帰ると静雄が言ったのだ。また時計に目をやってみると、玄関の扉の開くような音がした。

「帰ったの?」

思わず立ち上がって訊ねた。扉の開く音はしたのに、部屋に入って来る気配がない。不思議に思って玄関の方へ行くと、やはり静雄が帰って来ていた。靴も脱がずにその場に立ち尽くして、臨也に気付くと顔をあげる。

「臨也……」
「どうしたの? 今日はいつもより遅かったね。俺さ、まだご飯食べてないんだ。だから……」
「臨也」

途中で臨也の言葉を遮って、静雄は手を伸ばすと臨也を強引に引き寄せた。いつになく唐突で、そのままその場に押し倒される。
やっと正面から静雄の顔を見れた気がすると、その顔は今にも泣き出しそうだった。それは初めて見る静雄の表情で、臨也は何も言えずに息を呑んだ。

「愛してる」

静雄が言った。愛してる。臨也の答えも待たずに、また繰り返す。愛してる。何度も何度も、それはとても上擦った声だった。それでも臨也の答えは決まっている。

「ごめん、分からない」

声が震えたのは多分気のせいではなかった。臨也の答えに静雄はますます顔を歪ませると、小さな声で確かに「どうして」と言った。
そんなことは臨也も知らない。どうして分からないのだろう。こんなに何度も繰り返される単純な言葉の意味が、未だに臨也には理解できない。

愛ってなんだ、どういうものだ。これこそ静雄に答えて欲しかった。愛って何。どうしたら理解できるの。

「どうして」
「……ごめん」
「どうしてだ、どうして分からないんだよ……っ」
「うん……ごめんね」

潰されてしまいそうなほどに、静雄はきつく臨也を抱き締めた。どうして、どうしてだ。何度も何度も同じ言葉を耳元で繰り返されて、それでも臨也に返せる言葉は何もない。
縋るように震えている。多分泣いている。そんな上っ面のことだけを分かっていても、本当に静雄にとって大切なものは何一つ分からない。何一つ、たった一つの愛の言葉の意味さえも。

「ごめん、ごめんね」

震える背中に恐る恐る手を伸ばして、それで臨也は自分まで泣き出しそうになっていることにようやく気付いた。きっと謝るだけでは届かない。願うだけでも叶わない。「どうして」と同じ言葉ばかりを繰り返して静雄が震える理由は分からないまま、人は身体の痛み以外でも「涙」を流せるのだと、そのとき臨也は初めて知った。













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愛をおしえて
(君のかなしみを僕にもちょうだい)


あきゅろす。
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