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その夜は静雄の夢を見た。臨也が静雄を拾った日の夢だ。力のない身体を拾い上げて、まるで寄り添うように肩を貸した。
何故あんなことをしたのだろう。辺りは夜の暗闇で、まばらな街灯だけが唯一の光だった。何故あんなことができたのだろう。引き摺るように歩かせて、うっすらと開かれた瞳が濁り切っていたことも、掠れた声が少しも温かくないことも、すぐに分かったのに。
見捨てるなんて行為がどれだけ容易いのかも、臨也は判っていたのに。

何故、あの身体を棄てることをしなかったのだろう。





静雄を恨んでいるのかと問われれば、臨也の答えは多分「NO」だ。臨也はほとんど妹を覚えていない。臨也が売られたときまだ五歳にも満たなかった妹の成長した姿は、テレビのニュースで初めて見た。
ああ、こんな風に育ったのか。そんな風にぼんやり思い、驚愕はしても些かも悲しんでいない自分に更なる衝撃を受けた。

欠損している。父親に売られ人買いの荷台に詰め込まれたあの時から、恐らく臨也はそこに何かを置き去りにしてきてしまったのだろう。
それは多分、人が“気持ち”だとか“心”だとか呼ぶものだ。尊いものとして扱うものだ。だが臨也はそれをどうにも持ち合わせていないようで、人の感情というものを些かも体得できなかった。

静雄が人間のクズなら、差し詰め臨也は人間の欠陥品だ。
無辜といえるほどに臨也は潔白でない。それは非望だ。だから静雄ばかりを非難するのはアンフェアに思えた。そんなことを考える時点で、臨也はどこかおかしい。

人間の心が知りたかった。喜び、悲しみ、幸福、不幸。だが頭で考える感情は必ず本物には成り得ない。
いつだって先行するのは理性だった。人間には意識されない無意識があるのが普通だと言うが、ひょっとするとそれさえ臨也にはないかもしれない。分からない。

「多分、お前に足りないのは、本心を曝すことだよ」

ドライブ感覚で窓の外を眺める。時刻は既に大幅に昼を回っていて、外の空気は見るからに熱く乾燥している。
この日の門田の仕事は全て終わった。臨也はそれに付き合って、そしてまだ門田と一緒にいる。

今は、再び門田の家に向かっていた。臨也がそうしてくれるよう頼んだ。家に置くのは一日だけの約束だったが、頼めば門田は断らない。

「心がない人間なんて、いるはずないだろ」
「そうだね。それは知ってるんだ」
「お前は、ただ、言い訳してるだけなんじゃないのか?」
「何に? 愚問だ。俺は見付けたいだけさ。自分で落としたものと、追いかけっこしてるんだよ」

門田はブレーキを踏んで、赤の信号に従った。
門田はいつも生真面目な運転をする。それは臨也の周りにはないものだった。臨也の周りには、常に薄汚いカビのようなものがこびり付いている。そうして取れない。門田は潔癖だった。綺麗だった。
隣にトラックが停まっている。不自然に大きなトラックだ。それに何が乗っているのか、臨也は知っていた。かつて自分もあれに乗った。懐かしいな、と思わず呟く。門田は何も言わなかった。

信号が青に変わって、車は発進する。

「追いかけっこなら、逃げてるのはお前だろうな」

ポツリと言った。そうかもしれないと臨也は思う。門田の言うことはいつも的を射ている。鬼は誰だろうね、と臨也は返した。門田はハンドルを両手で握りながら、さあそれはお前にしか分からない、と言う。

「人間の心が知りたい」

心が人間を模るなら、臨也は自分を人間と呼称して良いか分からない。臨也は自分を客観する。今の自分は嘆いているのか、歓んでいるのか、何が自分にとって最も利益を成すのか。
人間が好きなんて嘘だ。ただ妬ましいだけ。自分以外の人間が、全て幸福の中にいるように感じられた。憎かったのかもしれない。人間が好きなんて嘘だ。

トラックが横道に逸れた。空が重量を増している。臨也はふと思いついて、家を出た時から切っていた携帯の電源を入れた。同時に携帯が震えて、臨也は表示された画面を食い入るように見詰める。

「……ドタチン。やっぱり、俺の家に帰して」

唐突な申し出のはずが、門田は文句も言わず黙ってハンドルを切った。それは心得ていたかのような躊躇ない動きで、臨也は携帯を握りしめながら笑ってしまった。
ズキリと左手が痛む。これだから生き飽きない。たとえそれが矛盾のようだとしても。

「……ねえドタチン、君に分かるかなあ。……人の幸せってさ、美徳でも悪徳でも、心の豊かさの中から生まれるんだよ」

門田は答えない。臨也も答えを求めない。流れる視界に意識を向ける。生きるということは人の重荷だ。
ふと、門田が唐突に「だったらきっと、お前は誰より幸せになれるよ」と呟いた。へえ、そうかな。優しいね、ドタチン。臨也は言って、携帯を握り締めたまま、また少し笑った。





家に戻ると、静雄は電気もつけずに大量の酒瓶と一緒に部屋に転がっていた。ご丁寧に部屋まで荒らされている。先日も同じ目に遭って漸く片付け終えたばかりだというのに、あっという間に見るも無惨な姿に逆戻りしていた。

「シズちゃん」

静かに部屋に踏み込むと、ミシリと嫌な音がした。静雄は気付かない。飛び散った酒瓶の欠片に注意しながら近寄っていくと、頭はボサボサで顔は赤くしたまま仰向けに寝転がっているという、なんとも情けない格好だった。
部屋が嫌に酒臭い。静雄自身もそうだろう。一体どれだけ酒を浴びればこんな状態になるのだろうと思うと、臨也は静雄を無様にも哀れにも思う。

「シズちゃん」

やはり返事はない。呼び掛けても答えないこの人でなしに一体何を望もうと言うのか、それは臨也も知らない。
また殴られるかもしれない。今度こそ殺されておかしくない。それでもどうしてもこの男を捨てきれない惰性は、これこそが臨也の欠損の原因だという気もする。

ふと、静雄の睫毛がピクリと動いた。目覚めたのだろうかと注視していると、静雄の目蓋がのろのろと上がっていく。

「……臨也……」
「シズちゃん、よくもまあここまで散らかしてくれたね」
「どこ行ってたんだ」
「病院だよ」

静雄は顔に腕を乗せて、欠伸を噛み殺すような仕草をした。

「病院……どっか怪我でもしたのか」
「君が俺に殴りがかって来たんじゃないか」
「ああ……そうだったな……」

確かにそうだった。独りごちながら、また目蓋を閉じる。何もかもが堕落的だった。このうす暗い部屋からは、生命の臭いが感じられない。

いつだって、臨也と静雄はここでセックスをした。寝室に行けばベッドはある。だが静雄はいつもここで臨也を犯した。
床が固く背中が痛い。そうでなくとも全身が痛い。臨也が泣いても叫んでも静雄は止めない。いつもそうだった。臨也はポケットの中の携帯に触れる。

「……ねえ、君、俺に電話かけたよね?」
「…………」
「この部屋から俺の携帯にかけてきたの、シズちゃんでしょ?」
「……さあ……分からない……」
「君だよ。そうじゃなかったら、一体誰だって言うのさ」
「知らない。ねむい……」

むずかるような声に、臨也は自分の力が抜けていくのを感じた。静雄のすぐそばまで寄って行って、顔が見えるようしゃがむ。それを静雄は気配で察したようだった。

「臨也、ねむい」
「良いことなんじゃないの。君にとっては」
「臨也」

子供が駄々を捏ねるような口調だった。もうそんな年齢でもないし、自分達はそんな関係でもないだろうに。

「もう、勝手にいなくなるなよ……」
「それこそ、勝手だ」
「俺はあやまらないからな。……絶対、あやまらないからな」

まだ夢なのか、まだ意識はその手にあるのか。臨也は静雄を理解しない。それでも静雄は淡々と、ただ言葉ばかりを繋げている。

「考えたんだよ……お前がいない間に、色々……俺なりに、考えてた」
「……何を?」
「お前はいつかきっと、俺をうらぎる」
「……そうかな」
「ああ」

嫌に断言する静雄に、臨也は口を噤むしかなかった。

そんなことない、そうかもしれない。自分でもよく分からない。そして自分のことさえ分からない臨也に、静雄の考えていることなど分かる筈がない。これまで一度だって、臨也が静雄を理解できたことはなかった。
静雄はまた、言葉を繋げる。

「だけど、ゆるしてやる。俺が、ゆるしてやる」
「……そう」
「ばかだなあ、俺は……勝手にしんじてたんだよ……お前なら、多分だいじょうぶだって……勝手にしんじてた……」
「そう」

餓鬼だね、と臨也は言った。静雄は何も言わなかった。その態度はいかにも静雄らしく、もう一度臨也が声をかけてみた時には既に、寝入ってしまっている後だった。





何が最善なのか、自分にとっての利となるのか、臨也には最早分からなくなっている。それは唯一と言っていいアイデンティティの崩壊だ。それでも心は痛まないのだから、臨也はもう笑うしかない。
今なら臨也は静雄を殺せる。いっそ殺せば楽になれる。それを分かっていて、臨也は何もせずに静雄を眺めた。殴られた身体は今も痛い。癒えない傷は今もある。それでも臨也は、恐らく静雄を殺せない。

汝、隣人を愛せよ。

どこかで聞いた言葉を思い出して、あまりの馬鹿馬鹿しさに息を吐く。痛みが頭を麻痺させた。ツキリと左手が痛み出す。

もしこの痛みが臨也と静雄を生かすというなら、生きることとは、痛みを感じるということなのかも知れない。













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逃亡者
(暗い闇から逃げ出して、)


あきゅろす。
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