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世界が僕らを祝福する

「……あら。珍しいこともあるのね」

深夜に傷だらけになって帰宅した臨也に、波江は大して心配をする風でもなく淡々とそう呟いた。





珍しいどころではないと、苦々しく臨也は思う。

怪我をすること自体は珍しくない。臨也がいつも相手にしている化物は本当に「化物」だから、いくら臨也が技術的な体術を習得してしていたとしてもどうしても限界はある。腕を掴まれればそれだけで骨が折れる気がするし、振りかぶられた標識は掠っただけで皮膚を裂く。
化物、とたまらず臨也は吐き捨てた。忌々しい、昔から、臨也の邪魔ばかりをする、唯一思い通りにならない存在。平和島静雄。

「あなたその顔、まさか転んで顔面から地面にダイブでもしたのかしら?」
「……あながち間違いではないよ、残念なことにね」
「ふうん。痛そうね」
「痛いとも。全く、もう少し手加減して貰いたいよね……」

俺は化け物じゃあないんだから。
鏡で自分の顔を確認しながら、頬にできた馬鹿にでかい傷に眉を顰める。それでも顔面骨折になんてことにはならなかったのだから、これでも手加減はしていたのかもしれない。
――いや、動揺していつものように力を奮えなかっただけか。
先刻の不測事態を思い出して、臨也はもう一度袖で唇を拭った。何度も何度も、このマンションに辿り着くまでに百回近くは繰り返した行為だ。


キスされた。いや、それともあれは、キスをしたということになるのだろうか。

いつも通りの喧嘩だった。駆ける臨也を静雄が追う。その手には標識を握って、臨也も右手にナイフを握った。
静雄は咆える。臨也は嘲笑する。あまりにも単純でシンプルな殺し合い。懐に飛び込んで、その首を掻っ切ってやろうと思ったのだ。それなのに静雄が少し仰け反って、しかも顎を引いて下を向いたものだから、そのまま――。

「……クソッ」

苛立ちもそのままに、壁に拳を叩きつけた。触れたかどうかさえ曖昧な、ほんの一瞬の接触。直後に静雄は臨也の頭を掴んで、そのままアスファルトに叩きつけた。
そうしてすぐにその場を去ってくれたのは有り難かったが、臨也の気分は最悪だ。もう一度、唇を袖で拭う。

「あなた、さっきから口を気にしてるけど、どうかしたの?」
「……聞かれたくないところを突いてくるね」
「あっそう。それで、どうかしたの?」

思い出したくもない忌々しい事故だ。どうせ波江も大した関心は抱いていないはずだから、無視していればこの話題はなかったことにされるだろう。
臨也は静雄の顔を思い出して、やはり堪え切れず再度唇を拭ってしまった。それを秘書が観察しているとも知らずに。

「もしかしかして、奪われたのかしら?」
「……は?」
「間抜け顔ね。まさか図星なの?」

思わず舌打ちする。その行為が問いの肯定を意味すると遅れて気付き、また舌打ちした。忌々しいと言ったらない。ほんの一瞬の出来事でしかなかったのに、臨也はあの感触を未だに忘れられずにいる。

「……化物のくせに」
「あら、しかもお相手は平和島静雄?」

もうこの秘書に知られても構いはしない。臨也はイライラとした足取りで救急箱を引っぱり出すと、中から消毒液とガーゼを出した。みっともない格好になってしまうが、傷を晒しているよりはマシだ。

「イラついてるわね」
「分かってるなら放っておいてくれないかな」
「あなた、意外と不器用よね」

臨也は訝った。さすがにあの闇医者には劣るだろうが、不本意ながら怪我の処置なら手慣れている。そもそも、消毒とガーゼごときに手先の器用さは関係ない。

「私だったら、誠二以外の人間とキスしたって全然気にもならないわ」

臨也の機嫌はますます降下した。





別に、あれがファーストキスだったわけではない。もはや不要になったガーゼをゴミ箱に投げ捨てながら、臨也は思う。交際経験はそれなりにあったし、それに伴う性行為もそれなりに経験がある。それがどうしたことか、あの仇敵との僅かな接触が未だに忘れられない。
臨也は指先で自分の唇に触れて、それからまた袖で拭った。最近は何度も繰り返してしまうこの行為のおかげで、唇は荒れ気味だ。

パソコンと向き合う。静雄の顔を思い出す。あの時あの男はどんな顔をしていただろうか。瞠目した瞬間に地面に叩きつけられた臨也は、思い出すまでもなくそれを知らない。

『……君、最近池袋に来ないね』

電話口で新羅が言った。
運び屋に仕事を頼もうと電話をすると、当然だが常に新羅が先に出る。今の臨也には、「池袋」という単語さえ不愉快だった。静雄に繋がるもの全てが忌々しい。

「そうかもね。用がないなら、あんな場所行かない」
『そりゃあそうだね。君がいない方が平和でいい』
「あっそ。なら感謝するんだな」
『うん? なんか機嫌悪い?』

思わず舌打ちする。これも最近、癖になってきてしまっている。

「関係ないだろお前には」
『ないね。興味もない』
「……じゃあ切るぞ」
『そういえば最近、静雄も機嫌悪いんだよなあ――』

静雄の名前が出て来た途端、臨也は電話を切った。

そういえば、あの日から臨也は静雄に会っていない。勿論会わないに越したことはないのだが、ここまで顔をあわせない日が続くのも久々かもしれない。
臨也は唇に触れた。そしてまた、拭う。





どんなに避けていても、実際に自分が出向かなければならなくなる用事というのはある。臨也は重い足を引き摺って、池袋を歩いていた。静雄に出会わなくていいのならそれが一番だ。あの男は目立つから、こっちが先に見付けられれば回避できる。

「お、もうこんな時間かあ」

聞いた声だ。足を止めて、声のした方を向くと、案の定静雄とその上司、そして最近仲間になったロシア人がいた。幸いなことにこちらには気付いていない。
さっさと逃げようと思ったのだが、どうしたことか足が動かなかったのでそのまま三人を観察した。視線の先の三人は、臨也に気付くことなく会話を進めていく。

「そろそろ昼飯にすっか?」
「そっすね。腹も空いてきた気がします」
「肯定です。今日の取り立て残り六件、空腹での遂行は回避を希望します」
「んじゃあ、どうすっかな。昨日はマックだったから、そうだな、今日は……」

この時、静雄が臨也のほうにふと視線を向けた。思わず身体が臨戦態勢に入るが、静雄の視線はそのまま臨也を通り抜けてまた他の二人に戻っていく。
臨也は拍子抜けした。気付かなかったのだろうか。これまでそんなことはなかったし、サングラスのせいで静雄の視線は把握しに難いから判断しづらい。

ただ、こんなことはこれまで一度だってなかった、ということだけは分かる。臨也はそれからも三人を観察し続けていたが、結局誰も臨也に気付くことなくその場を立ち去ってしまった。
それは、臨也が無事に新宿に帰宅できることを意味する。





一人で相撲を取っているようだ、と思う。臨也は自分の頬に触れて、そこにあの日の傷が全く残っていないことを確認した。ただ、日に日に唇だけが荒れていく。今日なんかは、見かねた秘書がわざわざ臨也のためにリップクリームを買って来た。それほどまでに目に余る、ということなのだろう。

夢見も悪い、と思う。具体的な内容は起きると全て忘れているので断言はできないが、ただ、何か良くない夢を見たということだけぼんやりと分かる。
あの日から、平和島静雄という名前の化け物に呪いをかけられたようだ。臨也は唇に触れる。また拭って、秘書から貰ったクリームを適当に付ける。

「女性は恋をすると美しくなるんだよ」

いつだったか、旧友である闇医者が言っていたことを思い出した。そしてそのまま、それはあの首無しのデュラハンの話になったのだ。
クリームを塗った唇が気持ち悪い。臨也はコートを着て、マンションを出た。池袋に行こう。





すると今度は容易く静雄に見付かるのだから、人生とは分からないものだなと思う。臨也を見付けた途端追って来る静雄から逃げて、それでも人気のない路地裏に辿り着くと臨也は足を止めた。
クルリと振り返れば、静雄が戸惑うように足を止める。珍しく手には何も持っていないのを確認すると、どうにも愉快な気分だった。

「化物」

ここ数日間の鬱憤を、この一言に全て込める。化物、化物、臨也が愛しているのは人間であって、化物ではない。

「んだと手前。つーかなに立ち止まってんだよ。なんか企んでんのか」
「呪いを解いて貰おうかと思って」
「……あ? 何のことだ?」

ああ、本当に大嫌いだ。

臨也は口許に笑みを浮かべて、そのくせ何も言わずに静雄を見た。静雄は怪訝な顔をする。臨也がただ黙するなんて奇異なことをしているのだから当然だ。

「なんだ手前、気持ちワリーな……」
「俺は君が大嫌いだ」
「ああ?」
「単細胞な君は忘れたかもしれないけど、俺は忘れられないんだよ」

唇に触れる。堪らず拭う。この動作に思い当たったらしく、静雄は渋面を作った。

「思い出させんじゃねえよ。折角忘れかけてたってのによぉ……」
「そう、なら良かった。俺だけ覚えてるなんて不公平だからね」

静雄の方眉が、ピクリと動いた。肌を刺すような苛立ちが心地良い。今なら微笑みかけてやっても良かった。化物、俺はお前を愛せない。

「……よし、やっぱ殺す」
「忘れたいんだ、忘れたくない」
「手前、また訳の分からないことを……」
「あれは事故だった」

臨也は言う。静雄は臨也を睨んでいる。
憎悪も殺意も甘い甘い、蜜になる。さてそれでは、この掃いて捨てたい苦い気持ちは何だろうか。

臨也は名前を知らない。唇に触れる。今度は、拭わなかった。

「知りたい。実験してみたくない? 今度は、故意に」
「……お前、は、何を……」
「呪いを解きたいんだ」

君のせいで、俺の人生は滅茶苦茶だよ。

「俺は君が嫌いで、君も俺が嫌いだ。だけど、もしかしたら」
「……いざ、」
「もしかしたら」

黙って互いを見つめる。
あの静雄が臨也を前にして沈黙すると言うなら、既にそれが答えだという気もした。長い長い追いかけっこの末にやっと、臨也は想像していたのとはまた別の答えを見付けようとしている。それは自分達の間に、今とは違う結末を用意するだろうか。それは幸か不幸か。


もしかしたら、今日は良い夢が見られるかもしれない。














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世界が僕らを祝福する
(この気持ちをなんと呼ぼうか)


あきゅろす。
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