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それからも、静雄は相変わらずだった。相変わらず臨也に暴力をふるうし、酒には溺れているし、自分の意の侭にしか行動しない。変わったことと言えば、臨也がより一層妥協を覚えたということくらいだ。静雄は臨也に髪を染めさせる。臨也にセックスを要求する。酒を呑ませろと喚く。臨也はそれを、全て聞いてやる。
従順な妻を気取っているわけではない。口答えだって当然する。すると静雄はキレて、臨也を殴る。臨也の痣が増える。静雄は謝らない。ただ、それだけだ。それだけのサイクルを、自分達はただ繰り返しているだけに過ぎないのだ。

さて、それではこの関係から何を得ただろうかと考えてみると、それは何もないようだった。何もないのに、臨也は自分の妹を殺した本人を囲ってやっている。
情が湧いたのかと問われると、それはまた違う気がした。姉を殺されたのだというあの赤毛の女ほどの憎しみは覚えない。ただ、それでは憎くないのかと言われれば、それもまた違うという気がする。

さてさて、分からないことばかりだった。その為にわざわざこんな人でなしを拾ったのだというのに、臨也こそ相変わらず自分を見つけられないでいる。





――追われてるんだ。

静雄はたまに、真夜中のベッドを抜け出して、寝室の廊下に蹲るようになった。いや、もしかしたら、これは以前からあったことなのかも知れない。ある時偶然トイレに目覚めて、初めて臨也が知ったことだ。
静雄は丸くなって、放っておけばいつまでもそうしている。一度気付くと、それは一週間に一度あたりの頻度で行われているようだった。

「……シズちゃん、何してるの」
「追われてる」
「誰に?」
「皆に」

静雄は顔を上げない。臨也はただ、丸くなった背中を見下ろしながら、適当な声をかけてやる。

「皆って?」
「皆だよ。皆俺を追って来る、何処にいたって、ほら、そこにも」

女がいる。静雄はやけに掠れた声で言って、頭を掻きむしった。喉から断続的に呻き声が漏れる。
その中に、臨也、と自分を呼ぶ声が混じっていた気がして、臨也は静雄と同じ目線までしゃがみ込んだ。といっても静雄の顔は見えない。俯いて、伸びた前髪が表情を隠した。

「いるだろ、そこに、追いかけて来てる」
「……誰もいないよ」
「嘘だ」
「どうして、情報屋の俺が嘘を吐くのさ。此処には、俺と君しかいない」

「――皆死ねばいい」

女なんて、皆死ねばいい。静雄は唸って、臨也の手首を掴んだ。殴られる、と思い咄嗟に身構えたが、静雄はそれからまた動かなくなった。
厳かに沈黙する。触れる手首からよく伝わった。静雄の手は震えていた。

「寝ようよ、シズちゃん。夢の中までは、追ってこないよ」
「死ねばいいのに」
「……シズちゃん」

憎しみ?
怒り?
それとも悲しみ?

心の豊かさが人を幸せにするなら、人を不幸にするのもまた同じ心なのかもしれない。
臨也には静雄は理解できない。それは努力の問題でなく、恐らくそれが今の臨也の限界だからだ。静雄のことなんて知らない。知りたいと思っているのかさえ分からない。

「……うん……そうだね……」

否定も慰めもできない。寂しい、という気持ちが、今初めて分かったような気がした。生きる意味なんて臨也は知らないし、そんなものが存在するとも思えない。生死の境が曖昧で、それでも生きることだけに取り縋っている。

「どうして俺達、生きてんだろうね」
「…………」
「生きてたってしょうがないのにね」
「……お前、は……」
「うん。なあに?」

優しく先を促しても、静雄が答えをいうことはない。おやすみ。手首を掴んだまま震える静雄の手の甲を、臨也はそっと撫でてやった。気休めでしかないただの傷の舐め合いだとしても、臨也はこの場に相応しい言葉を知らない。

こうしていつまでも、馬鹿げたことを繰り返すのだろうか。どうしようもない。狂っている、腐っている。
互いの手を握って、馬鹿みたいに体だけを寄り添わせる。朝日が昇るのを、その日はそうしてじっと待った。





「――ねえシズちゃん、ちょっと外に出てみない?」
「……はあ?」

静雄は臨也が買ってやった高価なシャツをしわくちゃにして、何をするでもなく煙草を吸っているところだった。
晴れていた。静雄の機嫌が悪くなかった。臨也の見えるところに、目立つ痣がなかった。それが全て重なって、臨也は突拍子もなくそう言った。

「馬鹿かお前。出るっつっても、分かってんのかよ。俺はなあ」
「うん、だからさ、いいじゃないか今はそういうのは」
「いいのはお前だけだろ」

当たり前だが、静雄は臨也の提案に乗るのをかなり渋った。例のあの女の呼び掛けのおかげで、最近は静雄の知名度も益々上がってきていた。
そこを臨也は口説き落とした。いつ殴られるだろうかと内心では警戒しながらも、この日だけは妥協しなかった。今日諦めたら、こんな日は二度とやって来ない気がした。

静雄は頷かなかったが、臨也を殴りもしなかった。ただ戸惑うように言葉を濁すのみだった。それで臨也は無理やり静雄の手を掴んで、外に連れ出した。
存外に静雄は大人しく、眩しい、と太陽光に目を細める。臨也が静雄を拾ってからというもの、外界に出るのはこれが初めての筈だった。

「で、どうすんだよお前。俺は顔もわれてんだぞ」
「平気だよ。車に乗る」
「お前車なんて持ってたか?」
「ほら、あそこにちょうど良いのがある」

臨也が指差す先には、赤の軽自動車が停まっていた。静雄は訝しげな顔をする。勿論あれは、臨也のものではない。

「……あれが何だよ?」
「俺、ピッキングとか超得意」

静雄が呆れた顔をした。それはとても貴重な顔だった。





あまり広くはない車内に二人で座った。臨也は運転席、静雄は助手席に。二人で並んで座っていた。
念のために、静雄にはサングラスをかけさせている。元の風体のせいでどうにも“それらしく”見えてしまい、「マフィアみたいだねえ」と臨也が茶化すと「似たようなもんだ」と静かな返答が返ってきた。
それから車内が静かになった。


会話もなく車を走らせる。臨也は目的地を言わないし、静雄も聞かない。
サングラス越しではその表情すらよく分からない。静雄は黙って窓の外を見ている。臨也はなるべく慎重な運転を心掛けて、前ばかりを見た。沈黙は不思議と気まずくなかった。

そうして臨也達がやって来たのは、何もないただの畦道だった。本当に何もなかった。ろくに舗装もされていない道に車を走らせながら、臨也は辺りの風景を見る。
建物はない。人もいない。道の両脇にはひたすらだだっ広い荒野のようなものが広がっていて、時々ポツポツと草が生えている。それを静雄はじっと見ていた。サングラス越しにじっと見ていた。

適当な場所に、臨也は車を停める。静雄がこっちを見た。臨也は久し振りに笑った。

「降りようか」
「……ああ」

静雄は戸惑っているようだった。車から降りてもなかなかそのそばを離れず、まるで歩き方を忘れたかのようにその場でぐずぐずしている。
他に人はいないので、とりあえず臨也はサングラスを外すよう勧めた。やはり静雄はぐずぐずしている。じれた臨也がサングラスを無理やり奪ってやると何度も瞬きをして、所在なさげに立ち竦んだ。

「シズちゃん、他に人はいないよ」
「知ってる」
「誰も君を追いかけないよ」
「知ってる」

それでもまだ動かない静雄の手を掴んで、臨也は無理やり引っ張った。一歩二歩と進んでいくうちに、臨也が手を引かなくとも自分から足を出すようになる。静雄は緩い足取りで歩いた。臨也もそれに合わせた。

緩慢に時が過ぎていく。遅いのか早いのかも分からない。何もない景色をただ眺めるだけ。そうしている内に、時たま静雄もポツリと何かを言うようになった。臨也もそれに返してやる。
何もないな。そうだね。少し寒いな。まだまだ冬だからね。意味のない取り留めない会話を、ポツリポツリと繰り返す。それはこれまで、自分達の間にはないものだった。

「臨也」

初めて静雄が足を止めた。臨也も歩を止める。

「なあに?」
「これ、何て言うんだ」

静雄が指差した先にあるのは、どこにでもある黄色い花だった。それは本当に日常に極々ありふれたもので、こんなものも知らないのかと臨也は呆れた。

「タンポポだよ」

教えてやると静雄はわざわざ足を止めたまま、食い入るようにその花を見つめる。

「好きなの? タンポポ」
「いや」

静雄は首を振った。

「昔から、なんとなく気になるんだ。それで目が留まる」
「……ふうん」

ひょっとするとそれを一般的には「好き」と呼ぶのではないかと思ったが、自分が一々口を出すことでもないと思ったので何も言わなかった。
静雄はまだタンポポに目を落としている。じっと見ている。だから臨也はふと思いついて片足を上げると、そのままその足を躊躇なくタンポポに向かって踏み下ろした。

「あっ」

静雄が無防備に声をあげる。そんな声を聞くのは初めてかも知れない。驚く静雄を無視して、花を磨り潰すように踏みつける足を更に地面に擦り付けた。静雄が勢いよく顔を上げる。

「臨也手前っ、何すん――」
「今、足元の花を殺しました」
「……は?」

臨也がにっこり笑ってみせると、静雄は戸惑うように眉を寄せる。

「さて、悪いのは俺でしょうか。それとも、簡単に踏み潰されるこの花の方でしょうか」

言ってやると、らしくないほどに静雄は目を丸くした。呆気にとられたようだった。それはひどく幼い表情でいっそ微笑ましく、だが、少しすると何か思い当たるものがあったらしく、すぐに大口を開けて笑いだした。あまり可愛くない笑い方だった。

「ハハッ、しょうもねえなあお前」
「シズちゃんには言われたくないけどね」
「臨也、お前、次はノミに生まれてこいよ。俺が踏み殺してやるよ」
「えー……」

どうせならもっと良いものに生まれたいと臨也は思ったが、そもそも静雄が生まれ変わりだなんてものを信じているのがなんだか可笑しかったので、「考えとくよ」と答えてやった。すると静雄は嬉しそうな顔をする。

「殺してやる、いつか。首洗って待ってろ」
「シズちゃん、そのセリフ古いよ」

それでも静雄は嬉しそうな顔を崩さなかった。

そうして臨也は不思議に思う。どうして、今まで静雄を外に連れ出そうと思わなかったのか。どうして、今まで静雄をあの暗い部屋にずっと閉じ込めていたのか。自分ながらに不思議で仕方なかった。
刻一刻と落ちていく陽が、自分達を照らしている。もうどれだけの時間が経ったのだろう。分からない。どうしてもっと早く、あの部屋から抜け出そうとしなかったのか。どうしてもっと早く、この陽のもとに来ようと思わなかったのだろう。

「……ねえ、シズちゃんさ」

静雄は臨也を見る。大人しく臨也の言葉を待っている。

「聖書とかって、読んだことある?」
「……この俺が、んなうすら寒いもん読むと思うか?」
「だよねえ」

臨也は静雄を見た。暖かい日の光に包まれている静雄を見た。これまで短くはない時を共有して、それは初めて目にするものだった。

「それがなんだよ」
「んん、いや、別に。今ちょっと、その中の一節を思い出してさ」

なんだか眩しい気がした。夜の街道でも薄暗い屋根の下でもなく、日の光を目一杯浴びるその姿は、臨也には不思議と目映く思えたのだ。

「ねえシズちゃん、今の俺の姿は、君の目にはどう映ってるんだろうね」



――命は人間を照らす光であった。












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逃亡者
(求めているのは何だったのか、)


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