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追走者
※「逃亡者」解答編
※どこがどこの解答なのかは皆さんにお任せの不親切仕様





コートのポケットに手を突っ込みながら、臨也は眼前の厚い壁を高く見上げた。全く大袈裟な壁だな、と心中呟くと、時を同じくして鉄の門扉が開かれる。足を踏み入れると、凛と張った空気が頬に触れた。笑ってしまいそうになる筋肉を、慌てて引き締める。


平和島静雄が逮捕されてから、もう三ヶ月ほどが経った。裁判は未だに続行中だが、無罪になることは多分ないだろう。静雄は正気だった。許されていい罪ではなかった。そんなことをぼんやり考えながら、隣の男に促されて足を進める。

たかが拘置所ごときで、随分な厳戒体勢だなと思う。壁際を埋めるように制服を着た男が立ち並んで、表情は決して柔らかくない。外界を区切る壁は圧迫感すらあった。
重々しい空気の中を、臨也は単調に歩いていく。ある部屋に連れてこられると、簡単な質問と書類を書かされた。身分証の提示を求められたが、生憎臨也はそんなものを持っていない。正直に言って断ると、男が何か言いそうになったのをまた別の男が押し止めた。
後は軽い身体検査をされて更に奥の部屋へと通される。そこまで男たちはついてこない。代わりに、別の男が待機していた。

「……よお」
「やあ、久し振り」

ポケットに手は突っ込んだまま笑顔で言った。厚いガラス一枚隔てたその向こうに、あちらもニヤニヤと笑みを浮かべた男がいる。

「ふぅん……、何も変わってねえんだなあお前」
「そう? 君は少しだけ変わったかな、ねえシズちゃん」

ガラスの向こうの男――平和島静雄は、臨也の呼び掛けにニヤリと笑みを濃くした。





臨也の情報網を使えばこの程度は軽い。収容されている人間と赤の他人の面会は基本的に禁じられているが、臨也の名前を聞くだけで萎縮して恐れをなす人間は、権力者にこそ多い。
平和島静雄に会ってみたいんですよねえ。そう呟いてみるだけでいい。この世の中は腐っている。そして臨也は、腐ったこの世界を愛していた。愛することにしたのだ。

「ねえ君、モテモテらしいねえ」

静雄の傍まで寄って、置いてあった椅子に座る。部屋の隅にはカメラが設置してあったが、あれは現在“原因不明の故障中”だ。

「あ? ああ、すげぇよ毎日毎日。ジャーナリストだの心理学者だの、毎日手紙が来る。よっぽど暇なんだな」
「まあ、君はなかなかにショッキングなシリアルキラーだったからねえ。返事はしてあげたの?」
「興味がない」

素っ気なく言って、臨也の正面に座る静雄は欠伸をする。二人は壁で仕切られて、胸から上がガラスで隔てられた。
染髪していないらしい静雄の髪は黒くなっていた。金髪でない静雄を見るのは初めてだったが、臨也はそこには触れなかった。

「ねえ、どう? 警察に捕まるのってどんな気持ち? クズみたいな君でも、少しは自分のやったことを反省できたかな?」
「……そう見えるか? なあ」

喉の奥から絞り出したような声で、静雄はギラついた目を臨也に向けた。捕食者のようだと臨也は思う。囚われの身であるくせに、まるで今にも喉元に食らいつかれそうだった。

「俺は謝らねえよ。絶対に謝らねえ。ごめんなさいって言えばそれで終わりか? それで俺は許されるのか? 違うだろ。悪いと思っても、思わなくても、俺がクズの人でなしだってことには変わりねえんだ。だったらはじめから謝らない。 ……なあ、こんなことを考えてる俺は、やっぱり人でなしか?」
まるでどこかで聞いたような問いだと臨也は思った。あのときの門田もこんな気持ちだったのだろうか。思いがけず気付かされて、臨也は曖昧な表情を作った。

「止めろよ、俺に判断を押し付けるのは。多分、俺と君は、ほんのちょっとだけ似てた。俺だってご立派な人間じゃないんだ」
「お前も大概だからな」
「シズちゃんには言われたくない」

静雄が笑ったような気がした、それは臨也の願望がそう見せたのかもしれない。こんなガラスに隔てられて、随分と遠くなったものだ。ほんの数ヵ月前まで同じ家で暮らしていたのが、まるで嘘のようだった。

「実はな、少しだけ、後悔してる」
「……後悔?」
「お前を殺し損ねたこと」

獣の唸り声のようだ。何人もの人を殺し、罪から逃げ、臨也の家へ来て暴力ばかりを見せつけた、生きる甲斐のない人でなしの殺人犯、平和島静雄。

「考えるんだ」

何故、こんなどうしようもない人間に会いに来てしまったのだろう。何故、静雄は臨也と会うことを許したのだろう。愛も憎悪もない。同じ家で暮らした記憶をどれだけ漁っても、あったのはただのセックスと暴力だけ。それなのに、まるで依存するように互いへの執着を止められない。
静雄が獲物を狙うように目を細めた。臨也は目を逸らさない。

「生まれ変わっても、俺はきっと人でなしだ」
「……俺はノミで?」
「ハハッ、そうだったな。――ああ、きっとそうだ」

もしも生まれ変わったら。またいつか会えたら。そんな夢物語を語るには、臨也も静雄も汚れ過ぎたかも知れない。もう一度出会うことなんて不可能だと分かっているから、互いに何も知らない顔をして夢物語を語っている。
もう一度生き直したい。何度繰り返したところで、どうせろくな生き方はできないだろう。それでもいい。それでもいいから、今度こそ。

「そしたら、また会いに来いよ。俺が殺してやるから」
「え、やだよ」
「それじゃあ、俺が追い回すまでだ」

静雄は得意そうに、今度こそ笑う。

「追い掛けてやるよ、ずっと、俺から逃げられると思うなよ」

臨也は無言で、二人を隔てる厚いガラスの板に手の平を置いた。静雄は少し瞠目して、だが追いかけるように何も言わず自分の手の平を臨也のそれに重ねる。体温なんて伝わってこない。ただガラスの冷たさばかりが皮膚に伝わる。
二人は無言で見つめあった。それはもしかしたら、臨也と静雄にとって初めてのキスであったのかもしれない。

「俺はきっと、死刑になる」
「うん」
「それが当然だ。それでいいんだ」
「……うん」

手の平は重ねたまま、臨也は唇だけでそうだねと言った。静雄の髪の毛が毛先まで黒くなっている。臨也がそれを染めてやることはもうない。触れることさえ二度とない。きっと多分、それでいいのだろう。臨也は思う。

「……なんだろうな。さっきまでは、もっとお前に言いたいことあったんだけどな」
「何? 言ってよ」
「あー、駄目だ、思い出せねえ。忘れた」

臨也とガラス越しに重ねた手を、まるで何かを掴み取ろうとしているかのように静雄は握った。だが勿論、掴めるものなど何もない。

「臨也、お前、もうここには来るなよ。お前は俺とは違う。似てなんかねえよ」
「……それは」
「いいんだ。もういいから」
「シズちゃん」
「……ありがとう」

ずるい、と臨也は思った。静雄の拳を包むように、臨也もまた手を握る。掴めるものなど何もない。ただガラスの板をなぞるだけで、それでもほんの少しだけ、静雄の体温が伝わる気がした。それだけが二人の間に残ったものだった。
臨也は薄く微笑む。

「ねえ、どうしてかな。たとえ何度生まれ変わったって、君は絶対に『愛してる』なんて言葉は口にしないような気がするよ」
「……ほお、奇遇だな」

二人の手が、ガラス越しに互いに触れている。得るものなど何一つなくとも。

「俺も今、同じことを考えてるところだった」










面会を終えて部屋を出ると、スーツを着た若い男が臨也に寄って来た。警察関係だろうかと一瞬思ったが、どうもそういった雰囲気でもない。男は開口一番こう言った。

「あなたですか? 平和島静雄と面会した、折原臨也さんというのは」
「はい。そうですが?」

「折原」は臨也が便宜上使っている名前だ。他にもまだ複数ある。親に売られた臨也には、決まった名字は存在しない。だから親に売られた子供を世間では“名無し子”と呼ぶ。身分を証明できるようなものも貰えず、逃げ出したところでまともな職に就く道もない。

男は名前を名乗ると、簡単な自己紹介をした。聞いたことのない雑誌の記者だ。一体どこから嗅ぎつけてきたのかは知らないが、どうしても臨也と話をしたいと言うので、この場で適当に相手をしてやることにした。

「平和島は確か誰とも面会をしたがっていなかった筈ですが、なぜ貴方と?」
「……さあ。あんな奴の考えてることなんて分かりませんよ。ただの気紛れなんじゃないですか」
「じゃあ、貴方はなぜ平和島と面会を? 貴方から希望したんですよね」
「ただの興味本位ですよ。ああいう人種に興味があったんです」

我ながら胡散臭い理由だ。男は疑心と好奇に満ちた目の色を濃くする。

「あなたもしかして、平和島静雄の親戚……若しくは、ご友人か何かなのではないですか?」
「……いいえ、違います。調べればすぐに分かるでしょう?」

嘘だった。正規の戸籍を持たない臨也の身辺関係を洗うのはほぼ不可能だろう。かといって、本人に直接尋ねる愚直は評価できない。そして静雄に関しても似たような状況らしい。
警察や検察ですら静雄の身元を割り出すのに一苦労しているのだと聞いていた。静雄も取り調べにはほとんど口を開かないというし、今回の事件はまだ不明な点が多すぎる。その上、静雄には誰にも知られない「空白の一年間」がある。名の知れた状態でやり過ごすのには無理な日数で、だから協力者の存在がほぼ断定されている。警察もマスコミも、これを割り出そうと躍起なのだ。

馬鹿馬鹿しい、と臨也は目の前の男を見る。殺した人数も、犯行動機も、共犯者が誰なのかも、そんなことに何の意味があるだろう。とてもシンプルな問題だ。静雄が犯人で、静雄が人殺しだ。

「平和島の交友関係などご存知ありませんか」
「赤の他人の俺が知る筈ないじゃないですか」
「本当に?」
「知りませんよ。しつこいなあ」
「失礼致しました。では、今回の事件は平和島の心理状態が焦点にもなっていますが、折原さんは会ってみてどう感じました? やはり異常はあったと思いましたか?」
「――はあっ? 知りませんよ」

余りに滑稽な質問に噴き出しそうになるのをなんとか堪えながら、臨也は半ば叫ぶように答えた。

「あんな、人でなし!」

そしてもう二度と会わない。













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追走者
(今度は一緒に生きようよ)


あきゅろす。
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