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酒を呑みたい、と静雄が言い出した頃には、既に日は随分と傾いていた。臨也は「そうだね」と答えてやった。夕陽が二人分の影を長く伸ばしているのを、その間も静雄は無言で見つめていた。
来たときと同じように、狭い車内に二人並んで座った。臨也が運転する間ずっと静雄は窓の外を眺めていた。サングラスもポケットにしまったまま、瞳に夕陽を映していた。

「それ、しなくていいの?」
「……ああ。もういい」

穏やかな返答に臨也は答えず、ただ静雄だけが、酒が呑みたいなと呟いた。臨也はもう一度そうだねと言った。

帰路の途中で、臨也は適当なコンビニに寄ってビールとチューハイを数缶買った。家の前まで来ると、静雄に渡して先に戻っているよう言う。

「お前はどうすんだよ」
「俺は、この車を処分しないといけないから」
「その辺に捨てりゃいいだろ」
「駄目。この車、俺と君の指紋がベタベタ付いてるんだから」

言うと、何故だか静雄はハッとしたような顔をした。臨也にはその表情の意図がよく分からなかった。

「じゃあ、とりあえず行ってくるから」
「……ああ」
「ちゃんと大人しくしててね」

静雄を残して、臨也は車を出した。





車を違法に解体して部品を買い取る業者を、臨也はいくつか知っている。その中から、今日は家から一番近い所を選んだ。セコい商売をして買い取り金は安いのだが、金目的で売るわけではないのでどうでもいい。
それより今は、早く帰ることの方が優先だった。車を売ったので自分の足で歩かなければならない。治安が悪いこの街で、夜道をぶらつくのはあまり賢くない。もっとも、静雄を拾ったのはまさに臨也がそうしていた時だったのだが。

「ただいま」

部屋に入って、臨也はすぐに違和感に気付いた。室内がなんだか温かく、更に言えば良い匂いが立ち込めていた。

「……わお。どういう風の吹き回し?」

静雄が、台所に立っていた。匂いはそこからしている。静雄は臨也を振り返って、それから「別に」とまた鍋に目を落とした。

「だって、いつ振りだっけ? 君が料理作るの」
「……るせえな。いつでもいいだろ」
「本当にどうしたの? 材料とかもさ」
「冷蔵庫ん中にあったの、適当に使った」

ジュージュー火を使う音がする。静雄はじっとコンロに目を落として、顔を上げようとしなかった。
温かな匂いがする。静雄の作る料理は、いつだってその手からは考えられないほどに繊細だ。
喉が渇いたな、と思い冷蔵庫を開けた。買ったばかりの酒を探して、あることに気付き手を止める。思わず静雄を振り返ると、見てんじゃねえよ、とぼやかれた。
臨也は酒を諦めて、コップにお茶を注ぐ。そうして静雄を待った。静雄の料理ができるのを、何をするでもなく、じっと待った。

「……わあ」

どれだけ待ったかは分からない。できたぞ、とまるで一人事のように言って静雄がテーブルに並べた料理を見て、堪らず臨也は呟いた。

「美味しそうだね、相変わらず」

トマトを果肉のまま使ったパスタに、色とりどりの野菜の入ったスープ。立ち昇る湯気は淡く揺らめいて熱い。

臨也と静雄はお互い向かい合ってテーブルに座った。いただきます。臨也が言うと、静雄は何も言わずにただ目を細める。
パスタにフォークを差してから、麺を絡め取って口に入れた。美味しい。噛み締めるほどにそう思った。本当に、こんなに美味しい料理を、臨也は他に知らない。

「美味しいよ」
「……そうかよ」

突き放すような口調が、不思議と“愛しい”ように思えた。そんな感情を、臨也は知りもしないのに。

「美味しいよ、本当に……毎日だって、食べたいくらいだ……」
「…………」

静雄は少し目を伏せて、薄く口を開いて何かを言いかけたようだったが、結局は何も言わなかった。指先が細かく震えている。その手を臨也に取られることを、今、果たして静雄は望んでいるだろうか。

「今までも、これからも、もっと……作ってよ、美味しいよ」
「…………」
「シズちゃんをお嫁に貰ったら、きっと幸せだろうね」
「……俺は男だ」
「知ってるよ」

カチャカチャと食器同士のぶつかる音がして、粛々と食事は進む。不自然なほど互いに無言だった。臨也が口に入れた熱いトマトの果肉が口腔でクシャリと潰れる。それがあまりに呆気なくて、思わずまた「美味しい」と呟くと、それに応えるように静雄が顔を上げた。

「……なあ臨也」

わざわざフォークを置いて、静雄の顔は奇妙に神妙だった。

「俺、お前のパソコン使って調べたんだけどよ。アル中って、女より男の方が多いんだな」
「そうかもね。症状は、女の方が重いみたいだけど」
「なあ、俺、女に生れたら良かったのにな。そしたら、お前の飯だって、毎日作ってやったのにな」
「……シズちゃん」

馬鹿だなあ、と臨也は思った。常識に疎いこの人でなしは、正式な手続きを踏まなければ共生すらまかりならないと信じているのだ。
フォークを置いた静雄の手が小刻みに震えている。心なしか顔色も悪い。それでも臨也は、それに一切気付かないふりをした。
さっき臨也が冷蔵庫を覗いたとき、中の酒は全く減っていなかった。買ったばかりの酒はそのままの状態で置いてあって、手をつけた様子もない。酒を呑みたいと言った静雄が、それが目の前にあるのを知っていて手さえ触れない。それは多分、静雄がこの家に来てから初めてのことだった。

「……そうだね。それなら、俺も自分が痔になる心配をしなくて済んだ」

臨也が笑うと、珍しく静雄も下手くそに微笑み返した。それでもその手は震えている。
暴力と惰性だけで生きてきて、人を殺しても罰から逃げ、謝罪もなければ罪悪もない。この世に生きる意味も甲斐もない、まさにろくでもない人生と言うに相応しい。そんな人生を生きてきた人でなしが、酒の禁断症状に震える手で他人のために料理を作ったのかと思うと、臨也はこのパスタの味を生涯忘れられない気がする。

食事が終わると、どちらが求めるわけでもなくセックスをした。それは静雄とする初めての優しいセックスだった。獣のように荒いでいるのに、一つ一つの動作はひどく丁寧で滑稽なほどに慎重だった。
臨也は、セックスが終わっても新しい傷を一つもつけなかった。尻から血も出ていない。身体を交えるその最中に、静雄は哀れなほど震える手で臨也を抱き締めた。キスされる、と咄嗟に思ったが、静雄の口が寄せられたのは臨也の唇ではなく耳元だった。

「女だったら……、女に生れて、お前とも……もっと早くに、出会えてたなら」

あと数日したら警察に行こう、と臨也は思った。まだ正気でいられるうちに。本当に帰れなくなる前に。静雄は恐らく反対しない。多分初めて出会ったそのときから、所詮その程度の脆いつながりだった。

漸く気付いたのだ。自分達はもう幾度となくセックスを繰り返してきたのに、キスだけはしたことがなかった。そして今まで、それに気付きもしなかった。

「ねえシズちゃん、愛してるって言ってみてよ」
「はあ? 絶対やだね」
「ケチ。いいじゃん一回くらい」
「絶対言わねえ」
「ええー、なんで?」
「なんでって……分かんだろ?」
「分かんないよ、全然。言ってくれなきゃ、少しも分からない」

どちらともなく互いの手に触れる。小刻みな震えはまだ止まらない。

「……俺には昔、弟がいて。まだ俺より全然小さくて、でも俺よりずっと優しかった」

「余所に女作って酒呑んでばっかの父親も、家を捨てた母親も、大嫌いだったけど、弟のことは大好きだった、俺には弟しかいなかった」

「けど弟は死んだ。父親が殺した。口減らしだ。だから俺も殺してやったんだよ、父親を殺したのは俺だ、どうしても許せなかった、殺さないと気が済まなかった」

「止めを指してやる瞬間、アイツ俺になんて言ったと思う? 俺と弟の名前を呼びながら、『愛してる、許してくれ』ときたもんだ」

「父親は死んだよ、殺した、俺が首を絞めてやったら、あっさり、馬鹿みたいに簡単に死んだ。人間なんて簡単に死ぬんだ。馬鹿みたいに簡単に死ぬんだ。……なあ、分かんだろ?」


――さて、震えているのは誰の手だったか。


「人でなしは人を愛しちゃいけねえって、昔から相場が決まってんだよ」

今になって何を悔いようとも、帰ってくるものなど何もないというのに。





次の日、臨也が目覚めると静雄はいなかった。家の中のどこにも、いなかった。
室内は何も変わっていない。家具の位置も、昨夜のコップがまだ出しっ放しなのも、吸い殻の入った灰皿も、いつもと同じで、ただ静雄だけがいなかった。

何処を探しても、何日経っても、帰って来ない。いくら臨也が待っても、もうこの家には帰っては来ない。

臨也は黙ってテレビをつける。最近のテレビはとある「事件」で話題が持ち切りだった。今日も昼のワイドショーは馬鹿の一つ覚えに同じ話題で騒ぎたてる。画面の上には、でかでかとしたテロップが躍っていた。

平和島静雄、逮捕。


静雄は裁判審議の途中で逃亡した。当たり前だが検察は死刑を求刑するし、弁護側は心神喪失による責任能力の有無で無罪を主張する。臨也の知らない間に、全く馬鹿馬鹿しいことになってしまった。
検察側の取り調べに対して、静雄は「謝るつもりは毛頭ない」とだけ供述しているらしい。それをテレビで眺めるうちに、静雄の相変わらず横柄な態度がふと遠く思えた。

「シズちゃん。やっぱり君は、人間のクズだ」

黙っていなくなるなって、そう言ってたのは君の方なのに。
テレビは消した。静雄の煙草の臭いはまだ覚えている。臨也は無理やり笑おうとしたが、いくら試みてもどうしても無理そうだったので代わりにきつく唇を噛んだ。

あまりの痛みに、涙が出そうだった。












――某月某日、連続婦女暴行及び殺人事件の犯人、平和島静雄逮捕。

約二年間の間に殺害した女性の数は二十人にも上ると言われ、その正確な数は定かではない。捜査は未だに続行中。容疑者は一度逮捕された後も反省の色は見せず、裁判の途中で逃走。それから約一年後に出頭し、その空白の時間にも注目が集まっている。
被害者の遺族達を原告として、改めて容疑者を告訴。検察は死刑を求刑。弁護側は事件当時の被告は心身喪失状態であったとして無罪を主張したが、結局は原告側の勝訴。裁判所は「被告人に反省の意思はなく、また情状酌量の余地も一切ない」として検察の要求通り死刑を求刑した。弁護側はこれに対して控訴はしない。
約五年間に渡る長い裁判の間、被告は最後まで謝罪と反省を口にしなかったが、死刑判決は静かに聞き入れた。何か言っておくことはあるか、という裁判官の質問に対して被告は「遺族の方達には、残りの自分の人生を全うして欲しい。それだけです」とのみ答えたとされている。


それから三日後、平和島静雄は獄中で自ら喉を掻き切って死んだ。引き取り手のない孤独な遺体は人知れず燃やされ、灰は海に撒かれて今はない。


















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逃亡者
(答えはまだ見つからない)


あきゅろす。
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