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3

時は無常、と言ったのは誰だったか。
なるほど、これだから先人達の言うことは馬鹿にできない。


その日も臨也は所用で外に出ていて、昼過ぎ頃に家に帰ると珍しく静雄がテレビをつけてニュースを見ていた。社会の動向なんてものを気にも留めず好き勝手に生きている男が、珍しいこともあるものだ。

「ただいま」

電気はついてはいるが、なんだか室内が暗い気がした。臨也は一応静雄に声をかけるが返事はない。テレビばかりに顔を向けて、視線さえ寄越さなかった。熱心というほどでもなさそうだが一体何を見ているのだろうかとテレビを覗いてみると、驚くことにこの前の赤毛の女が映っている。
瞬間、嫌な予感がした。女はテレビの中で、涙を流しながら何かを訴えている。その内容まではよく聞き取れない。心臓が早鐘を打った。指先が急激に熱を失う。
まさか、この女――。

「……犯人の情報提供求む、だってよ」

ボソリと言う、静雄の声は暗く冷たい。

「必ずこの街にいるはずだから、探して欲しいんだと」
「……へえ」
「不思議なんだ。俺はこの街に来てから、お前以外の人間とは誰とも会ってないのに」

やばい、と本能が悟った。

「なのになんで、アイツがそんなこと知ってるんだろうなあ。……なあ、臨也?」

逃げようと体を反転させる前に、バキッという派手な音がする。避ける間もなく、臨也は部屋の壁まで吹き飛ばされた。殴られたのは恐らく頬だ。目が霞む、口内が切れた。あと少し位置がずれていたら脳震盪を起こしていたかも知れない。身体が動かない。

「なあ、俺みたいな殺人犯を匿ってるっていうのはよぉー、死ぬ覚悟も当然できてるってことだよなぁ、臨也君よお」

髪を掴まれて、顔を上げさせられる。言葉を発したつもりが呻き声にしかならなかった。
口許だけで笑いながら、静雄は臨也の頭を床に叩き付ける。気を失いそうになるが、それを許さないと言うように再度頭を持ち上げられた。

「いくらで売ったんだ? あ? 俺もちゃーんとお前の役に立ってるじゃねえかぁ。なあ、臨也あ?」
「……ッ、ぐ……」
「勘違いすんな、俺は怒ってねえよ? 大量殺人犯の情報なんていくらでも売りゃあいい。ただなあ、なーんか腑に落ちなくてイライラすんだよなあ。だからちょっと殴られとけ」

滅茶苦茶ばかりを言う男だ。手のひらを踏みつけられて、声にならない悲鳴が脳内をつんざいた。痛い。苦痛。苦悶。ただ単純にそれだけに体を支配される。言葉は声にならない。

静雄に腹を蹴られた。それはこの前踏まれたばかりの場所で、危うく臨也は込み上げるものを床にぶちまけそうになった。静雄は手加減をしない。静雄に殴られると、付いた痣はいつまでも臨也の肌に沈殿している。
どうして拾ったのだ、と新羅は何度も言った。臨也の痣だらけの体を見る度に、顔をしかめて薬を渡す。それは臨也を心配しているというよりむしろ、臨也の後ろの静雄という犯罪者を嫌悪してのことだ。
確かに変だろう。何の義理も同情もない。何処を見渡しても、臨也が静雄を囲ってやる必要は見付からない。

馬乗りになられて、静雄の手が臨也の首に伸びた。絞められる。気道を塞がれる。死ぬかもしれない。酸素の回らない頭で、それでも臨也は考える。

これが理由となるのかは分からないが、臨也は静雄に興味があった。道端で拾ったあの時よりずっと以前から、静雄のことを知りたくて仕方なかった。初めて見たのはテレビの中だ。その時から、臨也は静雄の情報を渇望した。
まるで恋のように。平和島静雄という一人の男の情報を貪欲に求めた。どんなに些細でも、取るに足らないようなことでも、何でもいいから静雄のことを知りたかった。だが得られる情報はほとんどない。真偽すら定かでない。
臨也はもどかしかった。恋にも似た執着。来る日も来る日も静雄のことを考え続けた。気が狂いそうだった。なのに、その時の静雄は臨也のことを全く知らない。

「……くっ」

そして今、臨也は静雄に殺されかけている。これはどうしたことだろう。どうして今こんな目にあっているのか、臨也には全く分からなかった。

「くくっ……ふ」

だから臨也は、笑った。笑い、笑って、事実可笑しくて仕方なかった。

「ふ、ハハ……」
「手前、なに笑ってやがんだ」
「……ゲホッ」

痛みに勝る滑稽さ。くっ、と堪えきれず喉が鳴った。静雄が訝るように眉根を寄せる。笑いが止まらなかった。

「ねえ、シズちゃん」

声が掠れる。喉奥が血でベタついた。
静雄にいくら殴られようと、暴力を振るわれようと、何故自分が今こんな目に遭っているのだろうと考えると、どうしても笑わないではいられない気がした。

「……覚えて、るかなあ」
「……何をだよ」
「俺の、妹がさ……二、三年前に死んだって話は、前にしただろ?」
「……あ? ああ、したかもな。それがなんだよ」
「その、妹が、死んだのはさ……病死でも事故死でもなければ……ましてや、自殺でもない。殺されたんだよ……誰にだと思う?」

口内に溜まった血を吐き出した。霞む視界に金髪が浮かび上がる。

「……平和島静雄に」





自分の妹が死んだ、という事実を臨也が初めて知ったのは、テレビのニュースを見てたまたまだった。
勿論、驚いた。驚いて、それで、虚脱した。

母親ももう一人の妹も死んだ。父親は最早家族と思っていない。となれば、殺された妹は臨也にとって最後の家族だった。
最後に見た顔はまだあどけなかった。それから数年が経ち、立派な少女として成長した彼女の顔は既に“女”の様相を呈していて、それでいて臨也の“妹”としての面影もどこか残していた。

妹が死んだ。殺された。怨恨でも強盗でもなく、訳も分からぬままにレイプされて、そして無慈悲に殺された。
当時はまだ判明しなかった犯人は、それから半年後に警察に捕まった。それは大いにメディアを騒がせた。臨也も関心を持った。その犯人の名前は、平和島静雄。痛んだ金髪に、鋭くそれでいて虚ろな瞳。捕まった直後に静雄は、「人は馬鹿みたいに簡単に死ぬ。それが悪い」と語ったらしい。

いかれた殺人鬼。静雄が殺した女は両手だけで数えきれない。家族は不明。当然遺族たちは憤り、全員一致で静雄に死罪を求めた。臨也はそれをテレビ越しにずっと見ていた。
ところが、裁判が終わる前に静雄は姿を消す。散々テレビを騒がせたいかれた殺人鬼は、今度は経路不明の脱走でテレビを騒がせたのだ。





それから約二週間後。道端に倒れる静雄の姿を見て、臨也はこれを何か運命の類だと思った。臨也は静雄を拾った。拾って、そうして、身の回りの世話をしてやった。静雄はやはり人間として底辺に属する部類の最低な男だった。
暴力と、酒。平和島静雄という一人の人間を語るのには、たったこれだけでいい。気に入らないことがあればすぐ暴力に訴える。いつだって酒に溺れている。人を人とも思わない。気紛れで、勝手気儘。
なるほどこれは容易く人を殺すだろうと臨也もすぐに心得た。妹を殺したのは、こんな男だったのだ。

それでも、臨也は静雄を警察に突き出すわけでもなく、静雄に恨みのある人間に引き渡すでもなく、今までそばにおいた。
理由はない。気紛れだった。そうして暫く近くにいて、分かったことと言えば静雄はどこまでも最低な人間だということだけだ。あんなに渇望していた情報は、ただそれだけ。自分よりも最低な人間というものに、臨也は初めて出会った気がした。
この男が、臨也の唯一の家族を殺したのだ。




臨也の告白に、静雄は全身の動きを止めた。首を絞める力が弛む。だが、静雄が驚いたような顔をしたのはほんの僅かな一瞬だけだった。

「――あっそ」

無関心。言うなればその一言。
まるで能面のように一切の感情を感じさせない顔で、静雄は平然と吐き出した。

「それで?」

静雄は臨也に跨がったまま、右手だけで器用に煙草を出すと火をつけた。本当に何も感じていないらしい。静雄の吐き出す煙が臨也の肺に入って呼吸を荒らげ、脳髄を侵して思考を白ませた。指先が一気に冷え込んだ。
何も言えない。そんな臨也を、静雄は嘲るように鼻で笑った。

「なあ臨也、実は、俺も昔家族を殺されてんだよ。父親と弟」

臨也の喉を絞める左手の力を少しずつ強めながら、静雄は片方だけ口端を上げてニヤリと笑った。

「さて、誰に殺されたんだと思う?」

抵抗する力も込められない。意識が落ちかけている。それでもやけにはっきりと、臨也は静雄を睨み付けることができた。次いで出る言葉も、この場に相応しくないほどに明瞭だ。

「シズちゃん」

その声はやけに滑らかに滑り出た。

「君は本当に、どうしようもない、人間のクズだな。人でなし」
「――は! 光栄だ!」

視界が弾けて、意識が飛ぶ。

失敗したな、と思った。言うつもりはなかったし、言ったとしてももっと上手い言い方のできた筈の事を、妙な感情の高ぶりで下手に口走ってしまった。静雄に殴られたせいで脳細胞がいくらか死滅したに違いない。
臨也が次に目を開いた時、やけに乾いた日の光が目に染みた。切れた口が痛かった。













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逃亡者
(何を望んで何処を彷徨い、)


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