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起き上がっていくら辺りを見渡してみても、室内に静雄はいなかった。だがここから出られる訳はないので、家のどこかにいるだろう。また殴られては堪らない。体を起こすと鈍い痛みがどしりと響き、ことに踏まれた左手は腫れていた。
鏡で確認すると、殴られはしたが顔に目立つ怪我はなかった。静雄が以前、臨也の顔を褒めていたことを思い出す。口の端が切れている程度で、それより左手がズキズキ痛い。これはどうしても、新羅の世話になるしかないだろう。指を動かす度に痛みが走った。

家の何処にいるのかは分からないが、静雄に気付かれないようにそっと玄関を出た。
やられたのが足でなくて良かったと思う。踏まれた手は暫く使い物になりそうにないが、自分の足で歩けなくなるよりは余程マシだ。





新羅のマンションまで行って玄関の戸を開けると、臨也の知らない男が新羅に取りすがって何かを喚いていた。何を言っているのかまではよく聞き取れない。新羅はそれを見ながらうすく微笑んでいる。異様な光景にも見えるが、いつもの事だ。どうせまた、新羅が誰かを薬漬けにでもしたのだろう。
つくづく趣味の悪い男だ。臨也は確かに人間が好きだが、それはその精神を愛しているのであって、人格破綻した廃人には興味はない。だからその趣味は止めろといつも言うが、今のところ新羅がそれを受け入れる気配はなかった。新羅は人間が嫌いで、臨也は人間が好き。この隔たりは越えられない。

暫しのやり取りの後、男は臨也を横切って沈痛な顔で帰って行った。足取りは重くふらついて、あれは糸が切れる直前だ。

「……おや? 臨也じゃないか」
「やあ新羅、勝手に上がらせてもらったよ」
「勿論知ってたとも。君のピッキング技術は大したものだな」
「家にいる癖に、お前が電話に出ないのが悪い」
「ああごめん。ちょっと色々忙しくてさあ」

自分でヤク漬けにした男の相手が忙しいとは、随分な御身分だ。あの男のあの落ち窪んだ目ときたら、死人の方がまだマシな眼差しをしている。

「薬、打ってあげたの?」
「まさか。お金を持ってない人には売ってあげられない」
「嘘つけ。それならそれでまた、もっと吹っ掛けるんだろ」
「……ハハッ!」

新羅は笑う。あの男の末路を想像して笑う。

「――死ぬよ」
「かもねえ。でも、それは自分の意思だし、死んで当然の男だ。薬のためならお年寄りの鞄だって引ったくるし、その前にしてたのは高利貸しの取り立てだ」

新羅が始末に負えないのは、これが金目当てでないことだ。
なるほど確かに、人間が崩壊していく様を鑑賞するのは些かの興味をひく。だがそれは一人でいい。新羅のように何人もの人間の精神を破壊したいとは思わないし、それにしたって、臨也ならもっと多様な手段をとる。

「俺、たまにお前はキメてるんじゃないかと思うときがあるよ」
「冗談は止してくれ。私はあくまでも他人がクスリに夢中になってるのを見るのが好きなだけであって、僕自身はこんなものに手を出す気は毛頭ないよ。俺にあらぬ疑いをかけないでくれ」
「……その画一しない一人称も解離性同一障害の兆しのような気がするんだけど、どうかな?」
「ちょっとかじった程度の知識で、俺の愛を説明しないでくれるかな」

愛か、と臨也は新羅を見た。新羅の愛は歪んでいる。恋人を失ったそのときから、恐らくもうまともな愛し方は忘れてしまったのだ。
あの葡萄は酸っぱいに違いない。人の防衛規制は、無意識に着実に、人の心を支配する。いない人間を愛するとは、一体どういった気持ちだろうか。

そこまで考えて、臨也ははてと首を傾げたくなった。そういう自分は、これまで誰かをまともに愛したことはあっただろうか?

「ところで、臨也、今日は随分やられてるねえ」
「分かってるよ。だから来たんだろ」

乱暴に差し出した臨也の左手を、新羅は興味深そうにまじまじと見た。

「腫れてるね」
「痛くて人差し指と中指が動かせない」
「折れてるかもなあ。どんな喧嘩したんだい?」

別に、と臨也は視線を逸そらした。新羅は見透かすように目を細める。

「捨てればいいのに」
「……何を」
「追い出せないなら、君が家を出ればいい。どうせ追いかけては来れないんだから」

静雄にやられたのだと、新羅は分かっているらしかった。確かに馬鹿げてはいる。自分の家族を殺した男を匿って、衣食住の世話をして、セックスにも暴力にも甘んじている。
臨也も十分狂人だ。静雄を見捨てることを、今まで考えたことがない訳ではなかった。ただ、するといつももう一つの「懸念」が頭をよぎる。静雄は恐らく、自分一人の力だけではとても生きてはいけない。

「じゃあ、傷を見せて」

新羅は臨也の手を取った。赤く腫れている。ジクジクと痛い。もし、あの時静雄を拾わなければ今この痛みもなかったのだろうかと思うと、臨也は何か後ろ暗いものを吐き出したくて堪らなくなった。

「気紛れだったんだ」
「え?」

新羅が顔を上げた。恋人を殺された哀れな男。世界に希望を失って、そうしてそのまま狂っていった男。首なんてなかったなどと何故そんなことを言い出したのか、あの時臨也には分からなかった。
それでは、今なら分かるのかと言うとそうでもない。臨也はこれまで誰かを本気で愛したことがない。きっとないのだと思う。

静雄が倒れているのを見付けたとき、臨也は確かに興奮した。まるで長年離れ離れだった恋人と再会できたかのように、いたく胸が踊った。自分でも分からない胸の穴が、この男をそばに置けば分かるかもしれないと思った。
だが、それは思っただけだ。確証も確信もない。いつもの臨也ならば見捨てただろう。臨也は合理主義者だ。確実に自分の益になることしかしないし、不利益を被るなんて冗談じゃない。拾わずに情報として高値で売ったかもしれないし、止めを刺してやるのも良かった。それをされて文句を言えないような男だ。生きていても仕方のない男だ。

だが、その時の臨也はどれもしなかった。

「目的じゃない、手段だった。それも、極めて気紛れな」

新羅は訝しげに臨也を見る。腫れた自分の手が自分でも痛々しく、まるで自分が馬鹿に思えた。

「アイツを拾ったのも、アイツの情報を警察に売らなかったのも、本当に、ただの気紛れだったんだよ……」

なぜ捨てられないのかと問われれば、それはただの惰性だろう。自分に対する惰性なのだ。頼れる家族も友人もなく、腐ったこの社会を泥まみれになりながら独りで生き抜いてきた臨也にとって、静雄は手放せない存在だった。お情けでも同情でも、ましてや愛などでもない。

共依存。という嫌な単語が、ふと頭に浮かんで打ち消える。口の中がズキリと痛んで顰蹙した。

親に売られたその日のことや、それからの人間以下の生活のことを、臨也はまだ鮮明に覚えている。必死にそこから逃げ出してここまで生きて、そうしてまた迷走する。生きる価値がないのは自分も同じだ。
呼吸するだけを「生きる」とは呼ばない。こんなにどうしようもない命なら、いっそ生き延びたりせずにあの時死んでいれば良かった。





一通りの治療が終わった後、臨也は新羅に「今日はここに泊めて欲しい」と申し出た。だが、新羅は決して首を縦には振らなかった。

「嫌だよ」
「……頼むよ新羅。今日は帰りたくない」
「ホテルにでも行けば?」
「金がもう無いんだよ。頼むって」
「自業自得じゃないか、絶対嫌だよ」

しつこく食い下がる臨也に、新羅はやれやれと息を吐くだけだった。恨みがましく睨んでやっても、その答えは変わらない。

「絶対に、嫌だ」
「お前」
「寒気がするんだよ。そばにずっと、誰かがいるなんて」
「――新羅」

臨也は旧友の名前を呼ぶ。
すると新羅は、珍しく困ったような苦笑を見せた。そんな人間臭い表情を見るのはいつ振りだろうか。

「嫌だよ。俺はさ、君を殺したくないんだ」
「…………」
「不憫だなとは思うよ。でも無理だ。だから代わりに、そうだな……門田君、呼んであげるから。そんな顔するなよ臨也」
「……どんな顔だよ」

卑怯なことを言われたと理解はしたが、臨也は何も言わなかった。
新羅もまた、十分に可哀想な男だった。新羅の腹の底に溜まった人間への憎悪は、最早本人の意思からは離れた場所で心を蝕んでいる。

電話をして、新羅は本当に門田を呼んだ。これだけで、今の新羅が一応臨也に気を遣っていることが分かる。外界へと繋がる電話なんてもの、新羅は普段触れることさえ滅多にしない。

「全人類、全て気が狂えばいい」

いつだって新羅は言う。

「そうしたらきっと、自分の惨めさも忘れられるから」

狂っているのはどっちだ。

臨也は今でも覚えている。新羅の愛する彼女が死んだ日のこと。どうして、どうして。新羅はただ呆然と立ち尽くして、涙さえ流さず顔を覆った。どうして、どうしてだ、許さない、許せない、どうして。臨也は多分忘れない。その口から漏れ出る悲劇の欠片を。それが多分、狂気と呼べるものだとしても。許さない、許さない、許さない、どうして。どうしてだよ。

――どうして、僕を置いて行った。

「……狂ってるよ。もう、とっくに」

きっと皆狂っている。多分、世界なんて、人間が思うほど頑丈にはできていない。
小さな亀裂に爪を立てて、引き裂いてやれば容易く壊れる。世界なんてそんなものだ。落とすまでもなく粉々になる。そんな脆い基盤に縋るしかない人間は、言うまでもなく、もっと。

「……どうしてだよ」

とうにこの世界に絶望していながら、それでも今なお新羅が生を棄てられないのは、恐らくまだ彼女のことを愛しているからなのだろう。
幸福と悲嘆はいつでも一対になる。誰かを愛するとは、そういうことなのかも知れない。人を本気で愛した経験のない臨也には、よく分からない。ただ、新羅が目を閉じて耳を塞ぐから、きっとそうなのだろうと思う。

「セルティ……」

新羅は彼女の名前を呼ぶ。最早二度とこちらに帰って来ることのない愛しい愛しい彼女の名前を、飽きもせずに、まるでそうしていれば、いつか声が返ってくるとでも言うように。何度も何度も、止むことなく。


「――愛してる」


何度だって。











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逃亡者
(叫びながら、)


あきゅろす。
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