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夏風邪は馬鹿がひく

頭上に重くのしかかる曇天から霧雨が舞散って、世界をぼんやり映し出している。まるで現世ではないようで息苦しい。大気の影響なのか身体も頭も重い。
粒子の細かい雨のせいで辺りが霞んで見えなかった。車道を行き交う車も歩道を歩く人も存在している筈なのに、耳に栓をされた様に音がまるで聞こえない。無声映画のように皆、ただ粛々と動いている。


「榎木津さん」
数歩先を歩く探偵の名を呼ぶ。
小さな声だったから聞こえなかったのかもしれない。探偵は振り向きもせず止まりもせず先を行く。聞こえていたとして彼が自分を気に止める事なんてないのだ。
益田は小さく息を吐いてもう一度、彼の名を呼んだ。
探偵の後姿もこの霧雨に煙ってぼんやりとしか判別できない。しかも歩く速度が早いので少しでも歩調を緩めれば、その後姿は完全に見失う事になるだろう。
その陽炎のような後姿を、祈るような気持ちで追いかける。
辺りは深と静まりかえっている。



あなたの選択肢の一つにして欲しい。
一番最後でいい。
選択の優先度は、最後でいい。最後の最後に僕を選んで欲しい。

彼にしては低い、喉笛を握り締められているのかという程、押し殺した声だった。しかし、はっきりとした意思の元に発した声である事は、長く伸ばされた前髪の下から覗く目が明確に物語っていた。
本当に珍しい。
こんな目付きをするのかと思う程、今まで一度も見た事のない真剣な眼差しだった。
「何を、言うんだ──‥‥お前、」
榎木津は、初めてこの助手に対して戸惑った。
気圧されたといっても良い。
不意を突かれたとはいえ動揺したのだ。
黒い髪に細かい粒子の雨が降り注いでいた。しっとりと濡れた一房の髪から、ぽたりと雫が垂れた。水滴の貼り付いた青白い顔を強張らせて訴える。目を見つめてきたので、しっかりと捉えて見つめ返してやった。いつもならすぐにソワソワとしながら俯くか、話自体を逸らしてしまうかの二択だというのに、この時に限っては睨みつける程の勢いでもって榎木津を真っ直ぐ見つめて逸らさなかった。
結局、榎木津が先に緩めた目線に、益田もそれに込める力を抜いた。その瞬間に榎木津は益田に背を向けて歩き出したのだった。
背後で自分を呼ぶ益田の声が聞こえる。
聞こえなかった振りをして歩を進める。立ち止まる気などない。益田なんかに構ってやる気など更々無かった。なのに。
無視も出来ない熱量だった。


事の発端は何だったのだろう。
全ての始まりは多分、半年以上前の出来事。
彼の身に起こった彼自身の問題だとして片付けた彼だけの事件。大勢が犠牲となった事件ではあったが、少なくとも益田にはそう感じた。益田自身も何か特別な感情が働いたのだが、それはあっという間に消え失せたのだった。
それだけの事だった。
けれど。どうにもならない気持ちは、ずっと泥濘のように益田の胸の奥深くに沈殿したままだったのだ。自覚もないままに抱えていた。
一歩でも足を踏み入れてしまえば泥は舞い上がり、透明を濁らせる。胸の裡に広がった薄暗い半透明の闇は益田の思考を絡め取って窒息させた。
その一歩が、今日という日だったのだろう。
気に入らなかった。
というよりも哀しかったのか。
また自分は、榎木津の役には立たないのだと言われている様な気がして。お前なんかは榎木津の選択肢の一つにさえなり得ないのだと。
押さえ付けてきた感情が飛び出して、そのまま唸った。どうしても我慢が出来なかったのだ。

益田は結局、榎木津の背ろ後を見失った。



悪寒がしたと思った次の瞬間には、ふらふらと身体が揺れた。途端に発熱感を覚えてからは早かった。喉の痛みに加えて、頭痛に吐き気に節々の痛みと全身の倦怠感。風邪の諸症状が益田を襲っていた。
布団の上に沈んだ益田は朦朧としてきた頭で考えた。昨夜、榎木津を見失ってしまった益田は探偵社には寄らずにそのまま下宿先に向かった。真っ直ぐ帰るのも何だか気分が乗らなかったので銭湯に寄って夕飯を食い、更には少し呑んで帰った。気晴らしの意味もあった。
銭湯を出た辺りで寒気がしていたのだが、さほど気にもとめずに飲み屋に向かったのだった。それが良くなかったのか、あるいは最早手遅れの状態だったのか。今となっては後の祭だが、思うに、あの時から症状は出ていたのかもしれない。あの霧雨の無声映画の中。

益田は痛む身体に鞭打って起き上がり、母家で電話を借りた後、医者へ向かった。
電話に出たのは安和だった。自己管理がなってないとか傘もささずに雨の中を歩くなとか、ちゃんと飯を食って暖かくして大人しく寝てろとか、ひとしきりお小言を頂戴した後、仕事の残務処理の引き継ぎをして電話を切った。榎木津の様子を聞こうとしてやめた。安和が何も言って来ない所から察するに、榎木津はいつも通りなのだろう。

よく殴られなかったなぁ‥‥。
医者へ向かう道すがら、昨晩の榎木津とのやりとりを反芻して可笑しくなって少し笑った。口応えをしたのは初めてではないが、あそこまで我を通した物言いをしたのは初めてだった。殴られてもおかしくない戯言だったと思う。榎木津にとっては戯言だっただろう。
それを考慮できない程。
──それ程、気に入らなかったんだ。
あの人が自分を選んでくれない事が。
あの人に選んで貰えない自分が。
ずっと、気に入らなかった。



「馬鹿は風邪を引かないという俳句があるな」
次に目を覚ました時、益田の耳に届いた第一声である。
いつ探偵事務所に出社したんだっけ?と思い出そうとして、鉛の様に重たい身体に現実を知る。そして、榎木津がここに居る事に飛び上がらんばかりに驚いた。鉛の身体のせいで飛び上がる事こそ出来なかったが、上体を起こしてなんとか答えた。
「‥‥それ、俳句でしたっけ?」
がらがらとした自分の声にも驚いた。
喉が痛い。
「でも、夏風邪は馬鹿が引くという川柳もある」
灼熱感を感じて唾を飲み込むと更に痛みが走った。血の味がする。益田は周囲を見渡して水差しを探した。医者からもらった薬と一緒にして枕元に置いた筈だ。しかし、それは何故か榎木津の座るパイプ椅子の横の長机の上にあった。
「どういう事なんだ?馬鹿なのに、夏風邪を引いているお前は一体なんなのだ?」
何故あんな所にあるのだろうか。あそこまで取りに行く体力はない。
「馬鹿は風邪を引かないのに夏風邪を引く馬鹿は馬鹿じゃないのか?夏風邪は風邪じゃないのか?お前が本物の馬鹿なのか?どれなんだ?」
「‥‥曇り無きまなこで何を言ってるんですか?あまり馬鹿馬鹿言わんで下さいよ」
水差しの事で益田が逡巡している間も榎木津は益田を罵倒し続けていて、どこかで止めなければ延々と馬鹿と罵られる事だろう。
喉が痛いので、あまり喋りたくは無いが益田は榎木津と向き合った。

今は何時なのだろうか。部屋の電気が付けられているので夜だという事は分かる。
「‥‥榎木津さん。どうして、ここに居るんです?いつから居るんですか」
「僕は風邪を引かない筈の馬鹿を見物しにやってきたのだ。そしたら君、あ、いや、その馬鹿が眠っているじゃないか」
結局また馬鹿と言われてしまった。しかも言い直されてまで。
榎木津は組んでいた足を解いて前屈みになった。
「仕方がないから起きるまで待っていたんだ」
「それは、すみませんでしたね‥‥」
「ついでに今は二十一時前で、僕は二時間くらい前からここに居る」
「そ、そんなに前から‥‥!?」
驚いて声を上げると喉に激痛が走った。益田は思い切り顔を顰めて口元を押さえる。
榎木津はその様子を暫く眺めてから立ち上がり、水差しから湯呑みに水を注いだ。

「お前、泣いたな」
その問に胸が軋んだ。
「‥‥、」
布団を敷いている板間に上がり込むと、湯呑みを益田に差し出してそう言った。
「泣いたんだろう?また」
ズキンと、胸が軋む。
「‥‥ええ、お蔭様で、また泣いてました」
「ふん」
板間に胡座をかいて座った榎木津から湯呑みを受け取る。ゆっくりと水を飲む。
「お前が何を勘違いしているのか知らないが」
「‥‥え?」
「今回の件は本当に君には関係のない事だ」
「それは‥‥、」
「助手の出る幕は無いと言っているんだよ」
「‥‥‥‥はい‥‥」
自分の出る幕は無い。
はっきりと言われてしまえばもうそれ以上、何も言えなくなる。力の入らない指で布団をぎゅっと握りしめた。
昨日の感情の爆発が嘘のようだが、今の益田は体力をかなり消耗しているのだ。精神面も消耗していて然りだ。募る気持ちはあれど言葉にして榎木津に向けて放つには少々、心身ともに萎えている。

しかし、やはり到底納得はできそうにない。
それが顔に表れていたのかもしれない。声の調子を抑えた低い声で榎木津は続けた。
「言った筈だぞ。自分の事は自分で決着をつけろ、と。今回はその類の話だ。だから君には関係ない」
胡座をかいた膝の上に両肘をついた榎木津は、上体を益田の方へ倒して、益田の顔を覗き込む形になってそう言った。
「し、しかしですね‥‥ぼくは‥‥っ」
「お前はとりあえず、最後尾に一応、仕方なく、入れてある」
「え、」
そこで榎木津はふと益田から顔を背けた。
「ひとつでも多い方がいいからな。選択肢は」
吐き捨てる様な言い方の中に、温度の違う響きが混ざっていた。益田はそれを確かに感じ取った。感じ取って、言葉に詰まった。
「‥‥‥‥っ」
息を飲んで奥歯を噛み締めた。
熱が上がったのだろうか。身体が熱い。目蓋も重く熱くなりはじめてきた。布団の端を握り締める上手く力の入らない指先が震えた。
「え‥‥の」
「だからもう泣かなくていいだろ」
勢い良く益田の方に顔を向けてそう言った後、榎木津は益田の額を手で掴み、そのまま頭を枕に沈み込ませた。

「痛っ‥て‥あ、あた、頭が‥‥痛い」
「寝ろ。何も考えずにただ寝ろ。馬鹿なんだから考えたって無駄だ。余計に熱が上がるだけだ」
布団を乱暴に頭まで被せて、榎木津は立ち上がる。
「寝て起きたら、それを食え」
「う、うぅ‥‥それって」
益田はズキズキとする頭を押さえながら、亀の様に布団から顔をゆっくりと出して榎木津の指さす先を見る。
「和寅からの差し入れだ」
枕元の、水差しの置いてあった場所には風呂敷包と水筒が置かれていた。
「‥‥ありがとう、ございます」
昨日から自分の感情を上手くコントロール出来ていないのは、風邪のせいでどこかのバランスが狂っているせいだと思う。そうでなければ、こんなにも呆気なく涙腺は崩壊しない。
滲んで歪む視界が暗くなった。榎木津が電気を消したのだろう。
「じゃあな。僕は帰るぞ」
扉が開く音がした。
「え、えのっ‥‥えの、きづさん」
扉に手をかけた状態の榎木津は、ただの真っ黒な影だった。ぴたりと動きを止めて益田の次の言葉を待っている。背中を向けている様だが、僅かに顔をこちらに向けている。外の光に反射して横顔が薄く光った。
あの榎木津が、自分の言葉に耳を傾けてあまつさえ続きを促すように待ってくれている。
選ばれている。
そう思った。
だから、これはその、昂った気持ちが言わせただけの言葉である。風邪で消耗し防御力の失った益田の脳が、自分の理性すらからも見放された結果、紡がれた言葉なのだ。

「愛しています」

がらがらの声でそう告げた益田は糸が切れた人形の如く布団に沈み込んだ。
朦朧とする意識の中、扉の閉まる寸前の「おやすみ」という榎木津の声を聞いて益田は深い眠りに落ちた。








end.


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