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虚構世界
虚構世界 3/3

「君は私にとって大事な幼馴染みで、一番の親友だ」

 彼女の身体の輪郭が一際大きくブレれ、データの粒子が末端からその形を崩し始める。
 既に周りの景色の七割以上は崩壊が進んでおり、『NoData』を示すブルーの空間が大半を占めている。残された時間はもう幾ばくも無いようだ。
 このまま此処に居続ければ、データの崩壊に巻き込まれて僕も消えてしまうだろう。
 けれど、それが分かっていても、この造られた世界に彼女を一人残していくのは嫌だった。何なら一緒に消えてしまっても良いとさえ思っていた。
 そんな僕の思いを察したのか、全身をノイズで覆い尽くされた彼女が首を小さく横に振るような仕草を見せる。

「こんな別れになってしまって残念だけれど、君と幼馴染みになれて毎日が楽しかった」

 僕も君と出会えて楽しかったよ。

 咄嗟にそんな言葉が出た。本当は彼女に伝えたい事はまだまだ山程ある。
 けれど、どうにも頭が上手く回らず、これ以上の言葉が出てこない。
 きっと、さっきから鳴り止まないログアウトを促すアラートが、僕の思考の邪魔をしているのだ。そうに違いない。

「…ずっと傍に居てくれて、有り難う。君に看取られるなんて私は幸せだ」

 それが僕へ向けて放たれた、彼女の最後の言葉だった。
 一瞬。ほんの一瞬だけ途切れたノイズの下で、彼女が穏やかな笑みを浮かべる。

 それと同時に、彼女経由の強制ログアウトのメッセージが目の前に表示され、身体を強く引かれる感覚と共に青白い光が視界一杯に広がっていく。
 無駄だと分かりつつも、最後の足掻きに目の前の彼女へと伸ばした手が空を切った。
 彼女の名前を呼ぶ。だが、それに彼女が答える事はなかった。
 意識がフェードアウトしていくのと同じくして、行き場を無くした僕の指先で彼女の姿が砂のように崩れ形を喪うと、目の前の世界が消え去った。










 気が付けば、僕は病院のベッドの中に居た。
 彼女の電脳から切り離された際に、そのまま意識を失ったのだろう。

 一体どれ程の時間、意識が無いままだったのだろうか。
 ベッド脇の窓に掛かるカーテンの隙間から斜陽した光が微かに漏れ、照明が落とされた薄暗い病室を染めている。

 彼女の世界を染めていた色と同じ色。

 いつの間にか、涙が溢れ出していた。
 眼窩から幾つも流れ落ちるそれは重力に逆らう事無く、目尻からこめかみに筋を作ると枕に濡れた染みを広げていく。

『彼女が死んだ』

 その事実が嗚咽となってじわりじわりと僕の首を絞め、胸が酷く苦しくて仕方無い。



 人は死んだら、その意識は何処へ行くのだろう。



 幼い頃から耳にしていた死後の世界なんてものは所詮、人間が造り出した虚構に過ぎない。
 人は死んだらそれで終わり。
 生命活動の停止と共に意識を作り出している脳の信号や化学反応も途絶え、あとは蛋白質の塊になり分解されてしまうだけだと、そう思っていた。

 けれど、荼毘に伏す前に触れた彼女の頬の冷たさや色を無くした白い肌が、“彼女”という存在が完全にこの世界から消えてしまったのだという証のように思え、どうしようもなく寂しかった。
 喩え、それが人間の想像の産物だとしても意識は別な所に在り、残された僕らを見守っていてくれているのだと、そう信じていた方がどんなに幸せだっただろうか。
 それはきっと、この世界に張り巡らされた虚構を信じる事と同じなのかもしれない。

 彼女が居なくなってからも僕は毎日のようにいつもの河川敷を訪れると、二人で過ごした日々を思い出してはそんな事を考えていた。

 太陽の光を反射して煌めく澄んだ川の水。
 足元で揺れる、名も知れない小さな草花。
 遠くに見えるビルの群れ。
 その遥か向こうで霞む緑の山々。
 抜けるような真っ青な空に漂う白い雲。

 変わらずに其処にある景色をぼんやりと眺めていると、不意に視界にノイズが走った。

 もう慣れてしまった。
 初めの頃、視界の隅に点々と現れていただけのそれは次第に範囲を広げ、今では視界の半分を埋める事も少なくはない。
 今日は特にノイズの広がり方が大きいように感じる。
 ふと、頭の中で何かが軋むような響いた。

 それをBGMに、手にしていた缶珈琲を口にする。
 本来ならば芳ばしい香りがしている筈のそれは油臭く泥水のような味がしたが、一気に飲み下すと近くにあったベンチに腰を掛け、両の目を閉じた。



 暫く前から僕の疑似感覚は、その役割を果たせなくなっていた。

 最初に機能しなくなったのは味覚で、いつも同じメーカーの缶珈琲を飲んでいたからか異変に気付くのは早かった。
 ただ、嗅覚はまだ機能していた為、初めは味が変わっただけなのだと思っていたのだが。

 次に機能しなくなったのは嗅覚だった。味覚が機能しない為、何を口にしても泥のような味と油の臭いが鼻を突いた。
 今では慣れてしまったのか何も感じないが、初めの頃は水以外口に出来なかった。
 食べ物以外にも場所によっては空気すらも酷い臭いがした。僕が居るこの場所もそうだ。
 それから連鎖的に視覚、聴覚の機能に異常が現れた。
 全ての疑似感覚が完全に機能しなくなるのは、もはや時間の問題だろう。
 けれども、不思議と焦りや恐怖を感じたりはしない。
 じわじわと機能を無くしていく全ての感覚に、精神が麻痺してしまったのだろう。

 或いは端から抗う事を諦めているからか。

 彼女が居なくなったあの日から決して短くはない月日が過ぎ、その間に彼女を蝕んだ病は世界中へと拡がりをみせたが、各国の研究者達が協力し合う事で、その原因については解明されつつあるという。
 一旦発症してしまえば治療が不可能なのは変わらないが、発症する前にナノマシンの置換施術を受ける事で発症を防ぐ予防法が確立されたそうだ。
 とは云っても、既に発症してしまった僕には、どうでも良い事なのだけれど。



 ゆっくりと目を開けると相変わらず見慣れた景色が其処にはあったが、ノイズが覆う範囲がさっきよりも広がり、その向こうの景色がちらつく。

 何があるのかは分からない。
 脳が理解しようとしていないのか、或いは真実を認識するのを拒んでいるのだろうか。

 一段と大きくなる頭の中の軋む音に耳を傾けつつ、ノイズの中に残る見慣れた景色を目に焼き付けると、再び目を閉じた。

 瞼の裏側に広がる闇に、見慣れた景色と彼女の姿が浮かぶ。
 最期の時に見せたような穏やかな顔で僕に笑い掛けると小さく口を動かしたが、何を云っているのか目の前の彼女は僕の記憶の中の存在であるのに、その声が届かない。

 声が聞きたかった。
 それが僕自身の、ただの記憶の反芻だとしても。



 ああ、頭の中に響く音が酷く五月蝿い。

 電波状況の悪いラジオのノイズのように耳障りなその音は、ますます大きさを増していく。
























 …ブツリ。



 頭の中の騒音がピークを迎えたその時、不意にそんな音がした。
 それを最後に、耳を塞いでしまいたくなるほどに大きくなっていた音が急に途切れ、そして物音一つしなくなった。





 深閑。

 否、何も聞こえない訳じゃない。
 けれど、聞こえてくる音を僕は認識出来ない。



 目を開ける。

 瞼の切れ目から少しずつ視界が拓け、目の前の世界が広がってゆく。

 黒く汚濁し淀んだ川の水。
 足元に疎らに生えた枯れた草花。
 遠くに見えるビルの群れは、ネオンを纏い下品に輝いている。
 その遥か向こうで煙霧に霞む禿げた山々。
 濁空を覆う不気味な程に黒く低い雲。

 視界を覆っていたノイズは一つも見当たらない。
 クリアになった眼前にあるのは疑似感覚に頼らない、真実の世界。


 それは彼女が云っていた通り、確かに醜かった。











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あきゅろす。
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