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虚構世界
虚構世界 2/3

 さらさらと草木の擦れ合う音を伴って風が吹き、草木の香りと共に運ばれてきた彼女の匂いが鼻を擽る。
 風に靡く長い黒髪を手で撫でるように押さえると目を細め、言葉を発さぬまま彼女が僕を真っ直ぐに見詰めていた。
 どこか寂しげなその瞳が、彼女自身の気持ちを訴えるかのように揺らぐ。

 不意に、彼女が何処かへ行ってしまうような気がして、僕の頬に触れている冷えきっているその手を取って強く握った。
 離してしまえば彼女が戻ってこなくなるように思え、そうせずにはいられなかった。

 そんな僕の予感は的中し、それが彼女と会った最後となった。
 いや、厳密に云えば“直接”会ったのがだ。

 翌日、前日のやり取りに不安を覚え、オンライン通話をしてみたものの『エラー』と表示され応答もない。
 心配になり彼女の家を直接訪ねると、彼女の母親が迎えてくれた。
 彼女は?そう訊ねると昨日の夜から部屋から出てきていないという。
 どうにも嫌な予感がし、慌てた僕の様子に戸惑う彼女の母親に構わず家の中へ足を踏み入れる。

 途端、ガクリと落ちるような感覚と共に目の前が暗転した。





 気が付くと、慣れ親しんだいつもの河川敷に立っていた。

 青々と繁る草木に、川辺りの大小様々な丸みを帯びた石。
 風の吹き抜ける音と川のせせらぎ。
 日の暮れ掛けた朱色の空は、川の水面や遠くに見える高層ビル、橋を赤く輝かせている。
 一瞬、本物かと思ったその光景は、視界の端に見慣れた名前と電脳へのアクセスを示す表示がある事から、彼女の電脳空間に再現されたものらしい。
 良く出来ている…そう思った。

「来てくれたんだな」

 不意に声を掛けられ、その方に振り返ると彼女が立っていた。

「強制ログインさせてしまって済まなかった。こうでもしないと君と話せなくてね…取り敢えず、座ろうか」

 目をやや伏せながらそう彼女が云うと、僕と彼女との間にベンチが現れた。
 促されるままそのベンチに座ると、僕の隣に彼女も腰を掛ける。

「夕暮れの空は良いと思わないか?」

 金と朱色が交差する空を見上げ、暫し黙っていた彼女がふと口を開いた。

「君と一緒に疲れ果てるまで遊んでいると、いつの間にかこんな空になっていたな。家に帰るのは寂しくもあったが、夕陽に輝く世界は綺麗で大好きだった。この景色は永遠に変わらないものだと、ずっと思っていたんだ…でも嘘だった」

 彼女は語る。

 自分が愛していた世界は虚構でしかなかった。
 いや、きっと初めは真実だったのだろう。けれど、それがいつからか虚構にすり変わってしまったのかもしれない。
 もしかしたら、生まれてから五感を失うまでの間、自分は虚構を信じ、そして愛していたのではないだろうか、と。

「疑似感覚を完全に失った日から、外部からの干渉の一切を遮断するプログラムを作っていたんだ。知識もある程度はあるし、分からない事は調べれば良い。それに下地になるデータはネット内に幾らでも落ちているから、素人の私でも構築する事が出来た」

 稀に、電脳空間から戻ってこないユーザーが居る。
 自らの意思で帰ってこない者、何らかの事故で膨大なデータの奥底に沈み戻れなくなった者、何者かの悪意、或いはハッカー対策で仕掛けられたトラップに掛かり脱け出せなくなった者…原因は様々だが、そういったユーザーを探し出し、電脳空間からこちら側へ連れ戻す為のAIがある。
 彼女が云うには、自身が構築したプログラムは、そういった救助AIや他人からの電脳へのアクセスを完全に遮断するのだそうだ。
 そして、その完成したプログラムを自身の電脳へと組み込んだのだという。

「だからああやって君をログインさせるしかなかった。じゃなければ君は、私の元へ永遠に来れないから」

 何故そんなものを?僕の問いに彼女がこちらへ顔を向ける。

「向こうに戻らないと決めたからだ」

 彼女がゆっくりと瞼を下ろす。その口元は、心なしか笑んでいるように見えた。

「…大丈夫。君のアカウントのみログイン出来るようにしているから、君はプログラムに弾かれる事無く自由に私に会いに来れる。今までと変わらない。会う場所が、そちら側かこちら側かの違いだけだ」

 以来、彼女は電脳空間に閉じ籠り、彼女が造り出した電脳世界が二人が語り合う新たな場所になった。

 ログインする度に他愛ない会話をした。幼い頃の思い出話や、こちら側であった出来事など話題に事欠かず、今までとあまり変わりない日々を過ごしていた。
 時々、彼女にこちら側へ戻るように説得をしてみたが、寂しげに微笑むだけで首を縦に振る事は無かった。
 その度に、真実を目にするのが怖いのだと彼女は口にする。

 あれから病院で意識をこちら側に戻す治療を施そうとしたが、様々な方法を幾ら試みても彼女の構築したプログラムがあまりにも強固で弾かれてしまい、どうしようもなかったそうだ。
 故に連れ戻すのは無理だと判断され、彼女の肉体を生かすためだけの管理のみがされている。
 それでも現実世界で生きる事を拒否した彼女は身体の機能が少しずつ低下していき、今では機械の助けがなければ呼吸すらままならない状態だ。
 日に日に増えていく彼女に繋がる無数の管や痩せ細っていく身体が、このままでは先は長くないであろう事を分かりやすく示していた。

 君は生きたくないのか?

 彼女にそう訊ねてみたが、暫し逡巡するような仕草を見せるものの、その口から明確な答えを出す事はなかった。
 いや、それが答えだったのだろう。

 丁度その頃、ある病がこの国で拡がり始めていた。

 その病は一定の若い世代だけに発症が確認されており、罹患すると擬似感覚を司っているナノマシンの配列が崩壊し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の擬似感覚が徐々に機能しなくなり、やがて五感が全て電脳化前の状態に“初期化”されるというものだ。

 そう、彼女に起きた異常と同じ。



『擬似感覚機能不全』



 それが彼女を向こうの世界へ追いやった病に与えられた名前だった。

 この病は擬似感覚が機能しなくなるだけで死に至る事はないが、一度発症してしまえば治癒する事も、症状を抑える事も出来ない。
 ナノマシンを改めて注入し、機能を再生させれば良いのではないかとの声もあったようだが何故かナノマシンが定着しない為、現状ではどうしようもないという。

 発症する患者の世代は共通しており、彼らが生まれた時期に電脳化に使用された型番のナノマシンが原因ではないかとみられているが、このナノマシンだけに影響するウイルスによるものなのか、或いはナノマシン自体の不具合なのか今のところ分からず、目下調査中との事だ。

 もっとも、擬似感覚が機能しなくなってしまっても電脳自体の機能は損なわれない為、生活する上では全く問題は無い。
 だが、それにも関わらず、この病に侵された若者達の自殺や電脳空間への逃避が相次いだ。

 五感が初期化された彼らは一様に云うのだ。

『世界は醜い』と。

 世の中は擬似感覚によって上書きされている。それもこの国を含め、世界規模で長年に渡って。
 これは現在では世界的に当たり前の事であり、全人類が認知している事だ。 しかし、人々は知らない。自分達が知らされている事実は、ほんの一部だけなのだという事を。
 僕達の生活には擬似感覚が欠かせないが、それは生活を便利かつ豊かにする為であり、そして知らせる事の出来ない不都合な事実を隠す為でもあった。
 その不都合な事実を知ってしまった彼らの心境は、如何程のものだったのか想像に難いが、きっと彼女と同じように絶望したのだろう。
 自分が信じていた世界が偽りのものだという事に。

 一体、世界はどのような姿をしているのだろう。
 怖いもの見たさという訳ではないが、彼女が見ていた世界を知りたかった。

 …勿論、それを彼女の前で口にする事は無かったが。





 その報せが入ったのは、彼女が電脳空間から戻らなくなって丁度ひと月程が経った頃だった。

 夜半、彼女の母親からの連絡で病院へ駆け付けると、病室の前で彼女の両親が立ち尽くしていた。
 生命維持装置のものだろうか。電子音がけたたましく鳴り響き、医者や看護師が慌ただしく出入りしている病室は医療従事者以外立ち入り禁止になっている。
 今まさに、彼女の命が燃え尽きようとしていた。

 あまりにも急な事に頭が働かず、その場で呆然とするしかなかった。
 昼間、彼女と話した時はいつも通りで異常は見当たらなかったし、そんな素振りも見せていない。

「また明日」

 そう云って見送ってくれたのに。

 それだけに、唐突に訪れたこの瞬間にどうしたら良いのか分からない。
 けれども、このままぼんやりとしていても今の状況が変わる訳じゃない。
 そう自分に云い聞かせると彼女の電脳へと意識を接続した。









 身体が酷く重い。








 最初の感覚はそれだった。
 粘りけを帯びた水の中に沈むような感覚が、全身を包み込んでいる。
 彼女の電脳は僕のデータを緩慢に読み込むと、酷くゆっくりと電脳空間へと落としていった。

 ログインしたと同時に、眼前に飛び込んできた景色にただ愕然とする。
 崩壊…そう云っても差し支えないほどに其処は壊れていた。

 夕暮れを模した空や周りの景色は虫が食ったように穴が開き、形を保てなくなったデータの羅列が忙しなく流れ、消えていくのが見えた。
 川辺りの小石も、足元の小さな草花も、彼女と座っていたベンチも輪郭がブレており、データの粒子となっては霧のように散ってゆく。
 絶望的な光景に足から力が抜け、その場に崩れるようにしゃがみ込む事しか出来なかった。
 こうなってしまっては、もうどうしようもない。
 少しずつ、けれど確実に消滅していく彼女の記憶に涙が溢れ出す。

「…こんな状態なのに来るだなんて君は馬鹿だな」

 聞き慣れた声と共に足音も立てずに近付いてきた爪先に顔を上げると、呆れた表情を浮かべた彼女がこちらを見下ろしていた。
 身体の所々に小さなノイズが掛かっていたが、今のところデータの崩壊による影響をそれほど受けていないらしく、彼女としての姿を保てているようだ。

「別れを告げに来たのか、それとも諦めずに私を連れ戻しに来たのかは知らないが、こんな所に来て巻き添えになったら君はどうするつもりなんだ?」

 そう云って差し出された手を取って立ち上がろうとすると、彼女の姿が一瞬ブレた。思わず手を離すと彼女が目を伏せる。

「見ての通り、もう限界なんだ。此処がいつ一気に崩壊するか分からない…だから巻き込まれない内に帰ってくれ」

 そう云われて素直に戻るくらいなら、わざわざ此処へ来るわけがない。
 僕は立ち上がると彼女の手を取り、今すぐ現実世界に戻ってほしいと伝えた。
 溢れる感情を抑えきれずに、半ば捲し立てるように自身の思いを吐き出していく。
 それが無駄な事だとは分かっていた。
 けれども、今戻ればギリギリで助かるかもしれない…そんな不確かな可能性と淡い期待がどうしても捨てきれなかった。

 彼女はただ黙ってそれを聞いていたが、眉尻を下げるとゆっくりと首を横に振った。

「無理だよ。私の脳は僅かな思考を残して殆ど機能していないんだ。大分、負担を掛けたからな」

 それでも尚、食い下がろうとすると彼女が僕の手を払う。

「諦めてくれ…自分の事は自分が一番よく分かっている」

 彼女がふと笑みを浮かべた。
 今まで最小限だったデータの崩壊による影響が、いよいよ彼女自身にも大きく出始めたらしく、寂しげに笑うその顔にはさっきまで無かったノイズが点々と掛っていた。


「…ともあれ、最期に君の顔を見れて良かった」

 点々としていただけのノイズの侵食は止まる事なく、瞬く間に彼女の顔の上半分を覆うと次第に残りの下半分にも拡がり始め、最早どんな表情をしているのかも分からない。







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