10日で愛を、育もう
2
* * *
ハクが目を覚ましたのは、助が目を覚ましてから半日が経過した、夜7時のことだった。
最も意識を取り戻したというだけで、まだまだ満身創痍に変わりはなかったのだが。
「ハク!」
目を明ければ、いつでも助の声が迎える。
声を出そうとしたら、喉が何か固いもので閉ざされているようで、数秒ハクは何も言えなかった。
しかし義務は義務で、まず初めに言わなければならない。
声を出そうと試みること数回、その頃には背筋に入る痛烈な痺れも確かなものになっていた。
助は何かを話そうとしているハクの様子に気付き、ハクが話すまで、ただじっと待っていた。
「……──えん、ちょう」
「!」
「一日分、延長する?」
一日分、空白の時間。
何をされていたか、何を感じていたか。
こんな身体になってまで、まだ人間と深く関わることを、自らが確かめなければならない。
「……しない」
ハクの瞳が揺れ動いたようにみえた。する、と言われると思ったのかもしれない。
助は腕をハクに伸ばそうとし、やめた。
今はきっと、触っていいときでない。
ハクは目を薄らに閉じた。
僅かに開かれた細い蒼の向こう、涙が生まれて来るように助は錯覚したが、ハクはそのまま動かなかった。
涙を流さず、泣いているように見えた。
やがてハクが、目と同じくらいの細さで口を開いた。
か細い声が空中に流れ出る。
「殴らないの」
殴る。
そんな選択肢は、欠片もない。
「──どうして、おこらないの?」
ハクの語尾に、初めて疑問符がついたように聞こえた。
声を奮わせ、手先を奮わせ、語尾の調子を怯えるかのように上げ。
「……どうして怒るんだ」
「勝手にいなくなった。勝手に、一日つぶした」
きっと。
今まで、10日契約の間に1日契約へ呼び出される度、酷い扱いをされ、そしてまた、戻ってきては──。
それが「普通」で、それが「当たり前」で。
「怒ってないよ」
「……嘘」
「殴らないよ」
強く確認した。
ハクは助の方へ顔を動かす。
助は、真っすぐにハクの瞳を見つめた。 涙はやはり、流れていないが。
「殴らない、怒らない、絶対そんなこと、しない」
そのとき初めて、少年は辛そうに顔を歪めた。
一瞬でも迷った自分を、助は恥と思った。
今ならイノウエの言葉に迷いなくはっきりと答えられる。
解放したい。
息を宿した瞬間から暗闇に葬られているドールを、この少年を。
もう誰の元へも行かせたくない。
生命、想いの強さ、覚悟。
粗末で貧弱なそれらが、自分にどれだけ備わっているかなんて考える前に。
「…なぐっても、けっても、なにしても、いい…のに」
ただ、もう苦しめたくなかった。
傍にいたい。隣で、笑ってほしい。
それ以上に、大切なことがあるのだろうか?
「じゃあ、抱き締めさせてくれ」
正気か、と、信じられないようなものを見るような目で見られた。
「──嫌だ」
「何をしてもいいんだろう?」
「だって、それじゃ」
「それじゃあ?」
反対方向に顔を背けられてしまった。
「……それじゃ、うれしいのは、ぼくになる」
助は今度こそ腕を伸ばそうとしたが。
「やめて。触れないで、笑いかけないで、……はなし、かけないで……!」
ハクがあまりにも悲痛に叫ぶから、動けなかった。
「……頼む、こっちを向いてくれ」
「やだ」
「キスするぞ」
助の方を向いた。
「……なんで?」
「したいから」
「それであなたは嬉しいの?」
「嬉しいよ」
「……へんな人」
助は力なく頬を緩めた。
「前もそれ言われた」
「ばかな人」
「ばかでいいよ」
「……」
「馬鹿で、いいから」
「……」
「ハク、泣いてるのか?」
「泣いてない」
「……そうか」
僅かな時間触れ合った唇は、鳥肌が立つほど冷たく。
傷ついた頬に少しでも掠めると、ハクは堪えるように歯を噛みしめた。
助はハクを見つめ、そうして目を閉じた。
ハクの手を握り締めながら、ベッドの上に数秒顔を埋めていた。
「ケガ、どこが一番酷い?」
「わからない」
「感覚はあるか? 痛い?」
「多分」
「多分?」
「……もう、分からないって思ってたけど」
痛みや悲しみ、辛さ。
何度も感じ、終いには感覚を封じ込めたもの。
「あなたといると…辛い」
「……ごめんな」
「……あなたが謝ることじゃない」
「うん、分かってる。……何か食べれそうか?」
「……むり」
「じゃ、水持ってくるから」
助は軟水を透明なグラスに注ぎ、ゆっくりとハクの口内へ流し込んでいった。
「これも一緒に飲み込んで。害はない」
小さな粒は、医者が置いていったものだった。
助は昼間調べて、しっかりした栄養剤の一種であることを認めた。
「それ、どこから」
「眠ってる間、医者に診てもらった」
「い、しゃ?」
恐らく診察など今まで経験しなかったハクには、慣れ親しむことのない人種だろう。
「着替えは俺がしたから」
「……そう」
「身体、これから楽になるはずだ」
「なんで、そこまでするの」
ストレートに問われて、助は言葉に詰まった。
それも一瞬だったが。
「──前に言ったろ。痛くなくなる、それが俺の望むことだから」
「……チャーハン」
「そう、全部食べてほしい」
「無理だよ」
ハクは壁かけのカレンダーに目をやった。
契約は延長しない。残り日数は今日を除いて残り3日。
それまでにそんなことは無理だと言いたいのだろう。
「無理でも、出来る限りよくなってほしいから」
「……深入りしないで」
「まだそんなこというのか」
「だって」
今度はハクが言葉に詰まる番だった。しかし次の言葉はいつまでたっても出てこなかった。
助もあえて先を促すようなことはしなかった。言いたいことは痛いほど伝っていた。
だって、10日で終わりだ、自分たちは。
いくら望んだところで、このままではハクは助からいなくなってしまうし、助はハクを忘れてしまう。
分かっているのだ、全部。
「……まだ、辛いだろう。眠れるだけ、眠っておいたほうがいい」
「……はい」
助の言うとおり、ハクの体は重たいままだった。
いくら眠っても足りる気がしない。
今日はもう目を覚ますことはないのだろう。
そんな予感を覚えながら、ハクは眠りに落ちていった。
助に触れた部分が、少しだけ熱を持ち続けているような感覚を覚えながら。
七日目は終わっていく。
そうしてまた、夢を見る。
6番目の契約者。
コトハと共にいることを、かつてハクは望んだ。
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