10日で愛を、育もう
1
ハクが消えたその日、時が進むのがあまりにも遅く、遅く遅く遅く感じて、しまいには明日など永遠に訪れないのではないかと思った。
一生のうちに昨日ほど時計を細かに確認した日などないだろう。
時計の表情全てを焼き付けて、七日目が、来た。
パソコンの画面から溢れ出る閃光は、一週間ほど前のそれと同じ。
(ハクだ……!)
ついに来たと待ち構えていた助の元に、ハクは戻った。
やっと姿を見れる。助が抱いた期待も一瞬だった。
分かってはいたのだ。ハクが無事で戻れる可能性などほとんどないに等しいと。
けれど目で見ないまでは確信が持てない。
いつも自分はそうだ、本当にその時になってみなければ現実を受け止められない。
後悔先に立たずとは、よくいったもの。
けれど、ドールを呼びだしたことを後悔したなどとは、絶対に思いたくなかった。
ハクは一日前、最後に助が見たときとは随分様子が違ってしまっていた。
豹変、といっても過言でない。
自分がたどたどしく施した治療など微塵も感じられなく。
裸体で助に背を向けて倒れ込み、そして生気が露ほども確認できない。
無数の鬱血痕に、不自然に変色した肌の痣。
「……は……く……?」
指の先まで硬直した。近づくのが躊躇われた。自分が一昨日まで対峙していたのと、全く違う生き物を見ているようだった。
動かないのはハクも同じだった。
空気が、沈黙が、目の前の光景が、鋭く突き刺さり身動きを封じる。
なのに、目を背けることは許されなかった。
今度は馬鹿のように指先が震えだした。指先から、爪先、そして太ももが痙攣を起こし、大きな地震かのように視界が揺れる。
ハクの真正面に行き顔を見るのに恐怖を覚える。
助の目前に伏せるハクは、陳腐にいうのなら動かぬ人形だった。
ハクであるらしいその肩が、僅かに上下した。
助は途端、呪縛から解放されたようにハクへ駆け寄った。
衰弱しきり、息も絶え絶え。そうして意識はない。
助はすぐにハクが相当の異常状態にあることを認めた。
「ハク、聞こえるか、ハク、ハク!」
少年の瞳は閉じられたまま、開かない。
助はか細い腕へ壊れモノを扱うかのよう手をあて、脈を確かめた。
震えを繰り返す手の感覚は曖昧で、数回位置をずらしてようやく動きを感じられた。
次に鼻腔へ手をかざし。
(ど、どうするんだ……、これじゃあ……!)
異常性は分かるが、深さまでは何とも言えない。
もしかすると酷いのは外傷だけで、このまま寝かせておけば──。
「駄目だッ……!」
即座にそんな甘い考えは捨てる。万が一が有り得る現実だ。専門外の自分がどう思ったところで、ハクの容体は変わらない。
(息が浅い……汗も……)
豆粒ほどの汗がハクの額に浮かび上がっていた。
助の鼓動が速まる。
自分ではない。
このドールを、助けられるのは──。
助は気付いたようにはっと顔をあげる。そこからは早かった。
机の上に放置された携帯で、イトウへかけていた。最早形振りを構っている場合ではない。
『もしもし、やあ、戻って』
「イトウ、知り合いに医者はいないか」
これまでになく早口で尋ねた。切羽詰まっているのはイトウにだって伝わるだろう。
『…緊急?』
「いるだろう、足がつかない、保険証とか無くても診てくれる君が信頼出来る医者」
『随分と高度な条件だ』
「頼む、頼むから、家へ送ってくれ。そうじゃないと駄目だ、もう……」
もう。
これ以上、苦しめてくれるな。
『…闇医者、ね。まあ、君の期待どーり、いないこともないだろうけど。緊急でいいんだね』
「ありがとう」
『一つ確認するけど』
「早くしてほしい」
『借しを作るなんて、君は今までしなかったね。こっち側へ突っ込もうとすることもなかった』
「……?」
『僕に貸し、作っていいのかい?』
「──ああ、いい」
考えるより先に言葉が出てきた。
まぎらわすように、手で反対の腕を握りしめていた。
『…そ。じゃ、鍵は開けておくようにね。ばい』
自分に出来ることなど、これくらいだ。
ちっぽけでも出来ることの最大を尽くしたい。たとえ無理をしてでも。
もう情が移らない範囲でなどと、言えるわけないから。
一先ずの処置はどうにか確保出来たと信じ、助は今一度ハクに向き合った。
どうするべきか迷ったがとりあえず毛布を身体へかけておく。
手ぬぐいを濡らして絞り、ハクのおでこへ乗せた。
ちょうどその時、あまり見る機会のなかったバーコードを見る。
(……25)
数字は変わらず、そのままだった。
自分が25番目の契約者なことは確かだろうが、そうなると一日契約の分が合わない。
(別カウントか)
不思議と確信めいていた。10日間契約者で、25番目。きっとそういうことだ。だとすると、ハクが今まで送り込まれたのは25人よりもずっと多い人数。
たったの一日で、こんなになってしまうというのに。
この少年はこれまで24時間、どのような人物に、どのような扱い方をされたか。
間近で見るから、より分かる。
それまで幻想めいていたものは強く現実としてつきつけられ、逃れることを許さない。
首筋に赤い線があった。見ているだけでこちらが痛くなるようだった。
今度は、意識的に目を向けた。
逸らさないで、助はハクを見つめ続けた。
手ぬぐいから流れ出る水の滴りがハクの汗と混じった。
やがて待ち望んでいた訪問者の、ドアを叩く音がした。
助は立ち上がり玄関の先にいる人物を室内へ招き入れる。
男は白衣でなく、スーツ姿に深い帽子、マスクをつけていた。
「急患って聞いたけど、患者は?」
「そこに」
助が指差すと乱暴に靴を脱ぎ部屋の中へ足を運ぶ。
助が遅れて入ったときにはもう、ハクの上にかぶさっていた布団がはぎとられていた。
何やら腕をとったり回したりして、男はハクの全身の様子を確認すると、手術用ゴム手袋を着け、スーツケースの中身を漁る。
「これから診るから、外へ出ててくれる?」
「あ、一緒に見てます」
「物好きだな」
「見てたいんです」
「そりゃあかんわ。つべこべ言わず少しそっちで待ってろ。少し荒治療になるけど、なに本業だ、取って食ったりしねえさ」
有無を言わせぬ物言いに、助は戸惑いながらも指示通り背を向けた。
見る限り男に無駄な動きは一切ない。イトウが寄越した男だ。頼んだのも自分。
ハクが少しでも良くなることを祈り、とにかく大人しく待つことに決めた。
「……どうですか」
何もせず待つこと約二十数分。男が立ち上がる気配がしたから、随分早く終わったものだと助もハクへ寄ってみた。
ハクを興味深そうに見つめる男へ怖々尋ねてみる。
「異常状態」
「な、何が」
異常の言葉に助は焦ったが、男が吐いた言葉は決してハクの重体を言うものではなかった。
「一命は取り留めた。なんつってね。ウソだウソ。全然だいじょーさ。みたところ治癒能力がわりと高い。それにこのバーコード。身体は人間そんもんだけど、違えよなあ。なんだこれ」
「それは……」
「あー無理に答えなくていーよ。言えないからこんなん頼ってるんだろ。貴重な体験だね全く。ったく、イトウの野郎はいつもわくわくさせてくれるなあ」
消毒液の匂いや包帯など、ハクには確かな治療が施されていた。
最悪に酷い状態でないらしい。
「さっさと服着せて、起きるまで寝かせておいてやれ。処方箋はなーし。おまえさんが出す保険証もなーし。代金もなしだ」
「え、いや、ちゃんと払います」
それくらいの工面はと、助は財布を取りに行こうとしたが。
「丸何個つくと思う? 法外料金だぜ? そーゆの、簡単に首つっこんじゃいけねーよ、お前さん堅気だろ。それに取ったらイトウに怒られるんでね」
「イトウに?」
「あいつにはいろいろ貸しあるからな。イトウ様の直々の頼みだ。これでようやく十分の一くらいチャラだね。イトウに感謝しろよ…っても、あんたも何か、繋がってんのかあいつと」
「これで貸し一つです」
イトウの貸しは、正直何が待っているか分からなくて怖いが、背に腹はかえられない。
男はスーツの裏ポケットからタバコを出し、一本を口に挟んだ。
「精液とか匂いひでーから、目ぇ覚めたらちゃんと洗ってやるんだな」
「はい」
「──にしても良かったな。この僕ちゃんは、幸せだ」
「…え?」
「こんなんなっちゃっても、普通の医療機関じゃ診てもらえねえだろ」
「幸せってわけでは、ないと」
こんな様になっているのに、何故幸せなどと助は男を睨んだ。
「いーや。これやったの、あんたじゃねえだろ? なら、あんたと繋がれてこの子は助かった。そんであんたはイトウと繋がってるお陰でオレみたいなの呼べた。糸だ糸」
男は小指を立てて助に見せた。
「赤いか黒いかは知らねーけど。全部全部、繋がってるぜ」
助は思わず自分の小指に目を落とした。
「だからこの僕ちゃんは幸せ。何であれあんたみてえな人間と繋がれたんだからな。──おっと、無駄話だったな。治療は済んだから、帰る。いい研究が出来そうだ。これはお土産」
男は歯磨き粉のようなチューブの入れ物を投げてきて、助は慌ててそれを掴んだ。
「! ありがとうございました」
「アフターケアはあんま定評ねーけど。それ以上酷くなったら呼びな。もう一段階上の塗り薬あげっから」
男はすぐに部屋から去っていってしまった。
駄目でもともとでイトウへ頼んだが、世の中は広いとつくづく思わされた助だった。消毒臭が部屋にたちこめていた。
急に、足元が揺れた。バランスを崩し、助は棚にもたれかかった。
思えばここ数日ろくに睡眠をとっていない。
寝れるような状態ではなかったが、さすがにまずいと助は力を振り絞り、カーペットの上に寝転んでいたハクを持ち上げた。
想像していたよりも、ずっと軽い。すぐに崩れてしまいそうなほど、脆い。
ベッドに優しく寝かせて、服を着せた。
見ればハクの汗がさきほどよりも引いている。医者の治療は効果的だったようだ。
終えると、助も布団に横になった。
何を考えるでもなく襲ってきた眠気に、不安定ながらも身体を任せた。
ハクが来てから七日目の、酷い始まり方だった。
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