10日で愛を、育もう
9
* * *
(どうしよう……)
仕事の帰りの電車の中、助は一人頭を悩ませていた。
実はそのときに限らず、勤務中もずっとそうだったのだが。
授業中は何とか凌いだが、お陰でデスクワークは散々だった。今日作った学習プリントは恐らくタイプミスばかりで使い物にならないだろう。
電車から降りて自宅へ真っすぐ向かう。暗がりの中途中何度も足取りが曲がっていた。
(ああ……まずい)
自覚しきっていた。
ハクが倒れる寸前の顔が焼き付いて離れない。
あの時は直後にハクが倒れたから、それで混乱しきっていたけれど、よくよく考えればあの表情は物凄く貴重だったのでないか。
とても美しかった。
美しい、なんて、そんな言葉で表してしまうのが勿体ない程。
そしてその顔を強く意識する度、胸が境なくざわつくのだ。
こんなこと、あってはならない。久しく忘れていたそれを、よもや教え子たちとそう変わらない年齢の、少年へ抱くなど。
そして何より──。
助は自室へ足を踏み入れ、まず最初にハクを確認する。
部屋の電気がついたまま、ハクは眠っていた。敢えて起こすこともせずそうっとスーツを脱ぎ部屋着に着替える。
そして着替え終わったあとまた、ベッドに近付きハクの横顔を見た。相変わらず、端正な顔をしているが、疲労が居座る。
明日でもう5日目になる。
なるけど結局、この生活はなんのためのものなのだろうか。
時間が経てば経つほど、後悔が生まれてきてしまいそうだった。
「もう、半分…」
そう、何より、この少年の記憶は、一週間後には消えてなくなってしまうのだ。
最初呼びだしてしまったときは、この10日をどうやり過ごそうかと考えていたのに、今では10日の終わりが訪れなければいいと本気で思う自分がいる。
「……なあ、俺はどうすればいい……?」
どうすれば、この少年の重みを、取り払ってやれるだろうか。今の自分は傷つけてばかりで、何もしてやれていない。
朝方ハクが目を覚ましたとき、三日間で少しだけ緩んだ警戒心が、また元へ戻っている気がした。
多分気のせいではないだろう。 倒れさせてしまったのだ。当たり前だ。
助は何気なしに部屋を見回すと、棚の傍に落ちているものを発見した。
この2日は何だかいっぱいいっぱいで自室の様子すらロクに気にしていなかった。
ハクへマフラーと手袋を出したときに落としてしまったのだろう。
助はそれを拾い上げる。
新品の学級日誌だった。
非常勤講師になりたての時期、いつか自分も学級を持てる正規職員になれたらと思っていた。
そのときに憧れを抱いて購入したものだった。
今でもその思いは変わっていないが。
「こんなもの買って、どうするつもりだったんだ俺」
使う機会も当分訪れそうにないし、いざ使うとなったら学校が購入してくれる。
「──そうだ」
ふと一つのアイディアが浮かんだ。
「日記、つけよう」
この10日間の。
記憶はなくなるというけれど、それがどんなかもまだ分からない。
記憶を失った未来の自分が、これを見ることになるかもしれない。
そんな淡い希望を抱き、助は早速学級日誌を開いた。
大き目のスペースがある欄へ、日付を記入し、とりあえずに今日4日目のことを想起した。
(これから毎日つけていこう)
『パソコンドールというものが家に来て四日がたった────』
書き始めれば筆は進み、つらつらと自分の思いを紙面へ吐露していた。
あくまで真剣に書き、今日の分が終わると、もう数十分がたっていた。
ハクは変わらず眠っている。
「……ハク……」
日記を書いていると、自分の気持ちがよく整理される。
昨日店でハクが女性に声をかけられたときに感じたのは、独占欲に近い情。
俺のものだ誰にも触らせるかと心で叫び、自然に口にしていた。
思いはどんどんに、強く大きく、膨らんで。
多分、もう制御のしようがないと、分かった。
生意気な態度も、鋭い視線も、そして垣間見せる脆い仕草や表情も。
心の闇は見えなく深い。
言葉は素っ気ないけれど、ちゃんと反応はしてくれる。
全部、全部を、包みこんで浄化してやりたい。
そして、笑顔を見せてほしい。
一瞬頬が緩んだ、昨日の出来事。
「ハク……」
本当に、どうしようもない。
この少年の目の濁りを、取ることも出来ないのに。
「…………好きだ……」
一丁前に、心を奪われていた。
だけど、忘れて、しまうのだ。
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