10日で愛を、育もう
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* * *
目を覚ますと、そこに自分を呼びさました契約者の姿はなく、ただきちりと畳まれた布団だけがハクの朧げな視界に入った。
ハクはむくりとその身を起こし、部屋一面を回視するが、彼はやはりどこにもいない。
(仕事かな)
中学校教師がどれほど忙しいのかハクには想像も付かないが、休日だというのにこんな早朝から家を開けているということはそれなりに多忙の身にあるのだろうか。
在宅している時間の方が少ない。
契約者は大方家にパソコンドールを残しておくのを嫌う傾向にあるが、どうやら彼にそのような思考はないらしい。
いつも食事をとるテーブルには依然として朝食が用意されていた。明らかに自分のものだ。
栄養分をなるべく取れと要求してきた彼はその分量をちっとも減らしていなく、飾り気のない皿にはご馳走が、飯碗には白米が八分目に盛りつけられている。
(……律義)
料理から横へ視線をスライドすると、ハクはそこに助からの置き書きを確認した。
毛布からゆっくりと抜けだし、その内容を見る。
『出かけてくるけど、多分午前中には戻る。朝食は用意しておいた』
走り書きだが几帳面さが滲み出る筆跡でそう書かれていた。
朝食を作り、こうして宛て書き残し出ていく彼の姿がハクの脳裏へ容易に浮かんだ。
(何で、起きなかったんだろう)
今までなら誰かの気配を感じたらすぐに眠りから覚めていた。しかしこの家にいると不思議に意識は覚醒しない。台所からの調理音だってしただろうに。
助が自分を起こさずに行ったこともまた不可解だった。それが彼からの気遣いだと思うと、むず痒い気持ちが襲ってきてハクは認めるのを拒む。
(ゆるんでる……)
契約中に、こんな誰とも干渉しないなだらかな時が流れるなど。
そんなものはあの時以来だった。
ハクはメモをゴミ箱に捨てて、再度テーブルの前につく。箸も水も、完璧に準備された朝食を口へ運んだ。
口内へスクランブルエッグが広がったところで思った。やっぱり違う、と。
(こんなの、パソコンドールの扱われ方じゃない)
今までの24人、契約者は押しなべて最低一度は抱いた。
それから回されることもそのまま貪婪に追い求められることも大方は経験してきた。蝋燭、縄、鞭、口枷、手枷足枷拘束具、何をされても感じる多感な躯体に味付けられた。快楽より苦痛を伴い、精液より嘔吐物を吐き出した方が多い性行為もあった。
そして10日後には、忘れられていった。
どうして自分は存在するのだろうとハクが考えたことも頻繁にあった。
10日後にはパソコンドールの記憶は契約者から消えてしまう。何も残されない。
ただストレスが減っていることもあるそうだが、それにしたってパソコンドールを使用しなくてもいい。
起きてすぐ忘れられる夢と同じ。
意味が、ないのだ。
現在、ハクはもう自分の存在意義について思うことはなくなっていた。
考えるだけに無駄と思った。
そして同時に、自分のことなどどうでもよくなっていた。
ここまでの二日、性交渉に及ばず生活を共にするだけなのも、パソコンドールについて予備知識がないままパスワードを入力したのも、彼が初めてだ。
しかも彼は自分がどういうものであるかもう察し付いているはず。知っていて尚、怪我の治癒行為に及んだりこうして並みの人間と同じく接したりしている。
ハクは一旦テーブルより離れ、洗面台で水を顔に弾く。
起きてからいきなり腹に物をつめるのは気持ちが悪いと気付いたのだ。
視界ははっきりするものの頭はまだ中に鉛を抱えるよう重たい。生まれて意識を持ち、初めての契約者に抱かれてからずっとそんな感覚だった。
水一杯で口を濯いでからまた朝食を食べようとするが、どうにも体は受け付けない。
(無理だ、食べれない)
助が用意したもの全てを受け入れるのは時期尚早だ。
それからハクはまたベッドの上に戻った。
横たわりはせず羽毛掛け布団の上へそのまま端座する。
流麗なおとがいを下へ向け、瞳を閉じる。肩に柔らかな曲線を描かせた。
暗闇の中で耳の奥に細い金属音が鳴り響く。
じっとして、時折その長い睫毛を奮わせ、それさえ除いたら故障してしまった人形だと勘違いされるほどに、ハクは沈黙し続けた。
洗面所の蛇口から水の雫が一滴零れ、それからまた一滴とスローに流れ落ちていく。
どれほどそうしていただろうか。
やがてハクの中に別の音が立ち入ってくる。
(……?)
慌ただしく、初めは小さかったその音が次第に大きくなっていき等閑視出来ないほどになる。
それがこの部屋の外からのものだと判断づいたとき、勢いよく部屋の扉は開かれた。ハクの沈黙は破られる。
「ハク、いるか?」
いなければどこにいるのだ。この契約者はおかしなことばかり確かめる。まだ自分が何を呼びだしたか把握しきれていない。
「返事くらいしてくれると嬉しいんだが」
「……いるけど」
ハクの前に戻って来た契約者に素っ気なく声を出すと、相手の頬は緩んだ。
「良かった」
助はコートを脱ぎもせずに台所へ向って行く。途中、テーブルの上を見て表情を硬くした。
「……味が悪かったか?」
相変わらず上がなくならない皿。それを悼んでいるとハクもすぐに分かる。
「悪くないよ」
「じゃあどうしてだ。食べるものを食べなきゃ、どうにもならない」
「だから……」
どうでもいい。
自分の身体なんて、相手のことなんて、二人の生活なんて、どうでもいい。
しかしこのざわつきは何だ。
反抗したくなってしまう。
慈しみを持って接する助へ、ハクは逆に反発を抱いていた。
「ウザい」と契約者へ言ってしまうという、今までなら絶対にしなかった行為にも及んだ。
それまで諦めていたもの。奥にしまったまま消滅したとすら思っていたもの。
それが、不思議と頭をもたげてくる。
あなたは何も分かっていない。自分は抱かれてしかるべきで、間違っても療養するものではない。
そうやって、言い返したい。
そして、何かを与えるにしても。
「だから?」
「……固形物」
「?」
「固形物じゃ、ムリ」
「あ……」
盲点をつかれ、合点がいったように、助は口を半開きにした。
ハクは言葉にしてすぐさま後悔をした。自分から物を要求するなど今までしていいことではなかった。するにしても、どうして何も与えるなと言えなかったのだろう。
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