10日で愛を、育もう
3
駅から助のアパートまでは徒歩で5分程度。駅から出て、助は心なしかいつもより歩幅広く速足で歩いていた。
花が添えられた隣室の玄関先を通り過ぎ、何の装飾もない、ただ「下平」と書かれたプレートだけが横にある玄関の前に立つ。
鍵はかけていなかった。無用心だが、かけてしまうと中へいるハクを閉じ込めることになる。ただ、彼が自ら外出する気配は全くないが。
「ただいま」
一歩足を踏み入れて、まず冷えていると思った。寒いのとはまた違う。暖房は入れたまま出て来たはずなのに。
昨日と同じで明かりはついてないが、今日は晴天で、まだ日没前だ。半開きのカーテンから差し込む光でダストが煌めいていた。
「何で暖房切ったんだ」
ベッドに膝を抱えて座りこむハクが異様に小さく見えた。
「……あったかいのは、慣れてない」
「慣れてないって……」
“普通”でないものには、誰しも不安を感じる。“いつもと違う”と、ただ温かい空気それだけでも、このハクにとっては特別だった。
(まだ、不安か……)
何もかも捨ててくつろげとはいわない。それでも少しは警戒心を解いて欲しかった。
助はベッドの上に放置された氷水を拾い上げる。影にあったそれはまだ冷たいままだった。
テーブルを見れば朝食もロクに荒らされてなく、昼食は言わずもがな手付かずだ。
『消えるだけ』と、本人は言っていたが。
助はそれらを一つの食器にまとめて、残りを洗い処へ移動させる。水を出して、食器を濡らしていった。
「暖房はいつもつけてくから、切らないで。栄養も出来るだけ取るようにする。俺のところにいる間は、そうしてくれ」
「……なんで」
「いなくなると、困るから」
皿一面が液体で浸ったちょうどで、バルブを動かし水を止める。
そうして訪れた沈黙の後。
「…………分かった」
了承の返事は小さかったが、確かにハクの声が届いた。
「そうか、ありがとう」
助は台所を離れ、テーブルへ戻る。そして、その先にいるハクを目にして。
思わず、一切の行動を止めてしまった。
今まで避けるように横へ向けていた目を、ハクはその顔ごと助の方へやっていた。
そこに、今まであった鋭く付き刺ささる眼光はなく。
それだけではない、嫌悪の念も、怯えの色も、今まで助が見出だしてきたどんな感情も、そこにはなかった。
真ん丸に開かれた瞳孔に宿る青。
正面から見る、何の装飾もないハクを目の当たりにして、助は何も出来なくなってしまったのだ。ただ見つめられた、それだけで。
初めてこの少年が目を開いたときもそうだった。起きて、またすぐ眠ってしまう前の初対面時、ハクは同じように自分を見つめてきた。
(……本当に、奇跡みたいだ……)
美しい。
全てがそこにあるべき場所へ、僅かほどの狂いもなくきちりと存在している。そこにあるだけで、感動を覚えさせる。瞳も睫毛も眉も、髪の毛の一本一本ですら、欠けたら呆気なく崩れてしまうような脆さと共に。
ハクは──この少年は美しいと、初め抱いた感想を、初めよりもより強く助は再認識した。
しかし次には、何かを思い出したかのように、ハクは助から視線を外していた。
一瞬にして緊張した助の全身の筋肉はそれを機に元通り緩む。
今の時間は何だったのだろうと、助の背中に知らず汗が流れた。
「そうだ。明日、一緒に買い物にいかないか」
限られた時間というのが、助けに良くも悪くも複雑な心境を抱かせていた。
出来る限り傍にいたい。出来る限り優しくしてやりたい、傷を癒してやりたい。出来る限り──。
(間違ってはない。間違ってたのは、今までだ。こんな性格になったのも、こんなに──小さく見えてしまうのも)
ハクの美しさには、弱さも内包されていた。
触れれば崩れ落ちてしまいそうで、危うさも感じさせる。元はきっとそんなものはなかっただろう。
今までハクが契約を結んできた相手を、助が具体的に全て知っているわけではない。わけではないが、彼らによってハクが捩曲げられたことは想像ついた。
助の提案に、ハクは。
「……絶対、イヤ」
「一緒についてくるだけだ」
「あのね」
今度はきっちり睨みを効かせてきた。
「そういうの、ウザい」
冷えていた部屋の空気よりも更に冷たい、その態度は変わることない。
(こ……こいつは……!)
決心してもやはり、この少年との良好な生活の道のりは通そうだった。
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